快風丸

俺の船に乗らないか。

近所で見るギターパンダ

2016-09-29 00:08:13 | Weblog

 7時からというのに自宅に着いたのは6時35分。
でカレーライスとサラダを食べて。

どしゃ降りだけど歩いて2分なんだな。 

 7時15分、もう始まってる。

PA無し、とても心地よく響く声でした。

2.3’Sの曲、「お弁当箱」、「善良な市民」、The Endの「引き潮」、「くノ一忍法帖の新しいビデオが出たから」も

やってくれた。

夢のような時間はあっという間に過ぎました。

 10/1は得三です。


マリーアンドファナーズLIVE!!

2016-09-18 20:00:00 | Weblog

2016. 9.18(日) @大阪心斎橋 ドアーズインヘブン

http://howlin.real-sound.net/          

地下鉄 長堀橋7番出口5分 日本橋2番出口5分 心斎橋6番出口7分

中央区東心斎橋2-1-10新栄プロパティ八幡6F (エレベーターで5階まで、6階へは階段をご利用ください。)

阪・名古屋 親睦ロックライブ Vol.2

チャージ 無料

18:10 オープン   

18:30 ~19:10 ルクスエテルナ

19:20~20:00 マリーアンドファナーズ

20:10~20:50 4bit-fruits

21:00~21:50 ももLOUD

 


マリーアンドファナーズのつくりかた(盛り付け)

2016-09-18 19:00:00 | Weblog

 マリーアンドファナーズは1996年のライブを最後に向う10年にわたってライブをしませんでした。

理由は特にありません。

空白の10年の間も、変わらず、長い休みは大阪のスタジオで集まって練習をしていましたし、佐々木も

私もコンスタントに曲を作っていました。

しかし、この時期はスタジオに入っても、ダラダラとセッティングをはじめ、誰からともなくなんとなくイントロを

弾いて、なんとなく演奏して、途中で構成や、コード、歌詞、エンディングなどが分からなくなり、譜面もないので、

いったい何を間違ったのか、誰かは正しかったのかすらわからない、とても人前で演奏できるような状態では

無かったのは事実です。

 

 なぜ、このような状態で10年も続けられたのかと不思議に思われたのも無理はありません。

そもそも、大きな計画や綱領のようなものは作ってないし、なんとなく続いてきたバンドなので、ダラダラでも

なんとなくでも、それはそれで楽しいと感じていたからです。

メンバーは、バンドを離れても仲が良く、練習の後には必ず飲みに行きました。全員、好奇心が強く、多方面に

知識が豊富で話題も広い、人のうわさやグチなど皆無の楽しい酒が飲める仲間でした。

バンドの練習が飲む口実となり、徐々に本と末が転倒していったのです。

 それでも遠距離恋愛みたいに、会えばつのる話もあるし、バンドマンとしての面目も保っているという気持ち

がありました。

 

 そんな状態が続いていたある日、大学の寮の同窓会がありました。

そこで、軽音楽部でドラムを叩いていた上田と再会します。

聞けば、バンドをやっていて、明日がライブだと言います。

寮とクラブが同じだった上田とは、気心の知れた仲でしたので、翌日、大阪のライブハウスに行きました。

それは、衝撃的なものでした。メンバー募集をかけて募ったというメンバーは技術的にも高く、演奏はこなれて

いましたし、何よりも上田の生き生きとしたパフォーマンスはまぶしいほどでした。

強烈なインパクトを受けました。

あのころの仲間がここまでやっているというのに、マリーアンドファナーズは、バンドもやる飲んだくれに成り下が

っているというコントラストは、大きく、強い何かを心に呼び起こしたのです。

 

 やはり、バンドは人前で演奏してこそだと思いました。

ライブがやりたい。

まず上田に電話をしました。

大阪で下手でも出れるライブハウスは無いかと聞いたら、いくつか教えてくれました。

次に、マリーアンドファナーズ自体を立て直さなくてはなりません。

まず、スコアを作ることから始めました。

曲の構成をしっかり決めて、一線のベタ譜で形式を統一しました。

全員が同じ形式の楽譜に基づいて演奏をするのです。

 

そしてスタジオでの練習の内容を見直しました。

スタジオに入ってからではなくて、事前に、やる曲を決めておきます。

音量コントロール、メリハリ、バスドラとベースのアクセントを合わす、基本的なことを積み上げ始めました。

大学の軽音楽部で先輩から教わったことを思い出しながら、一から始めたのです。

軽音楽部に入って本当によかったと思いました。

あの経験があったからこそ、マリーアンドファナーズはどん底から這い上がれたのだと思います。

 

今では、4時間のスタジオはあっという間に終わります。

まず、曲のポイントとなる注意点、よく間違う個所などを確認しあってから練習します。

楽譜には、節に番号を振ってあるので、「何番の何小節目からもう一度」というように、意思疎通の

スピードも格段に速くなりました。

そして、アレンジなどで迷って堂々巡りになったり、主張しあってケンカにならないよう、「作曲者優先」

というルールも決めました。

無駄な時間が無くなり、充実した練習が出来ています。

軽音楽部で1年でやってきたことをマリーアンドファナーズは10年かけてやってきたと感じています。

 

 空白の10年の中で、一度、メンバー交代がありました。

ベース千田が脱退し、新たに佐々木が連れてきたのが現在のベーシスト川村です。

最初は、練習日程が合わない千田のヘルプだったのですが、なんとなくそのまま固定されました。

音楽とは縁もゆかりもない業種の会社で、よくベーシストがいたものだと思いました。

実は佐々木は人事部に配属されていたことがあり、社内で楽器のできる人間をだいたい把握していたの

でした。

 

そうこうするうちに、最初のライブが決まります。

2006年5月6日、大阪塚本エレバティでしたが、ドラム舛野が欠席となり、ドラムレスでやりました。

その年、8月15日、やっと念願の10年ぶりのライブが出来ました。

それ以来、エレバティがホームとなり、年一度、ライブができるようになりました。

昨年が、記念すべき10回目となったのでした。

 

 今年は、エレバティを離れ、先輩の企画ライブに出ることになりました。

これは改めて告知したいと思います。

 

 マリーアンドファナーズははこうして出来上がりました。

そして、まだまだ、これからも続いていきます。

ぜひ、一度、ライブにお運びくださいませ。

これからもよろしくおねがいします。

 

 長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 

F I N

 

 


マリーアンドファナーズのつくりかた(煮込み)

2016-09-18 18:00:00 | Weblog

 1992年の秋、第一期マリーアンドファナーズはそのキャリアをスタートしました。

ボーカル&ギター鬼丸、ギター佐々木、ドラムス舛野、ベース千田の布陣です。

 

メンバーが名古屋と大阪に分かれて住んでいるので、練習は主に盆、暮れ、ゴールデンウィークの

長期休暇の時だけです。

まさしく、離れて暮らす恋人同士のような遠距離恋愛バンドです。

 

それでも時間をやりくりしスタジオで練習を重ね、弾き語りだったメトロでGOにバンドアレンジを施しました。

ベースラインは4度の音程を3弦と4弦を使い4分音符で交互に弾くパターンをメインに、

ドラムはハイハットの裏打ち8ビート、セッションをするたびに次々と新しいアイデアが沸いてきたのでした。

軽やかなベースライン、週末の仕事終わりに、さあ遊びに行くぞという解放感に満ちた曲になりました。

バンド経験の浅い舛野と千田には技術的に少し難しい演奏でしたが、曲、詞とアレンジのマッチングが絶妙

だったので、あえて単純化せずにいこうと決め、現在に至るまで基本的なところは変更していません。

この二人が、この曲の良さを深く理解し、努力を重ねてくれたことがこのバンドの原動力だったと思います。

 

ここで、少し時代をさかのぼって私の大学時代の軽音楽部のことに触れておこうと思います。

1982年、生まれ育った福岡を離れ、京都産業大学に入学し、大学が運営する追分寮に入寮しました。

門限22時、大学は学ラン着用で登校、他にも厳しい規則、規律のある寮でした。

武道系のクラブも学ラン着用なので、新入寮生は応援団や武道系クラブに強く勧誘されるのでした。

それから逃れる最も合理的な方法がどこかのクラブに入ってしまうことでした。

 

軽音楽部も新入生勧誘をしていたので、話を聞いてみることにしました。

大学の軽音ってジャズ系というのが一般的なイメージでしたが、このクラブはロックの活動も活発とのこと

だったので、ここに入部することにしました。

バンド単位での活動なのですが、先輩はいろいろと教えてくれました。

練習の仕方、音を大きくし過ぎないこと、互いの音をよく聞くこと、アンサンブル、ダイナミクス、リズムの取り方、

ギターの音作りの基本、ドラムとベースの関係、ボーカルが聞こえることを最優先することなどで、それらは、

私の大きな財産となりました。

 

 マリーアンドファナーズは、そういった技術的なことを積み重ねるほどの時間がないと思っていました。

社会人であること、そして遠距離恋愛バンドだからです。

しかし、テクニックではあまたのバンドの後塵を拝したとしても、我々には強い武器がありました。

それは千田が書く不思議な詞でした。

作詞ノートはすでに2冊になっていました。

先の「狂気セッション」の即興曲の元になった千田の詞は、生きた言葉で書いてありました。

おそらく作り物ではない、日々の生活の中で思ったこと、憤ったこと、悩んだこと、そういった心の叫びだったのでしょう。

ノートのページを開けば、その詞はすでにメロディーとリズムを持っていました。

 

 さらに驚くべき才能を発揮し始めたのが佐々木でした。

千田の詞に次々と曲を付けていったのです。

これが、調性やリズム、テンポなどバリエーションに富んでいて、しかも短期間で驚くほど多くの曲を作りました。

それらを演奏し、アレンジしてゆく中で、自然とレパートリーが増えてゆきました。

私も曲を作り始めました。

詞も書くのですが、千田の詞のクオリティーに負けないことを今も意識し続けています。

バンドの演奏は下手でしたが、詞の良さと曲のバリエーションの豊富さが大きな自信となり活動の支えとなりました。

 

 そして、’94年10月30日大阪中之島野外音楽堂の企画ライブで初お披露目となりました。

 ’95年7月23日大阪アムホール、’96年8月3日神戸市岡本サマーフェスティバル、とライブを重ねました。

大学を卒業したとき、そしてキセバンドも解散し、もうバンドはできないかもしれないとまで思った日々からは想像も

出来ないほど充実した気持ちでした。

そしてそれは本当に自分のやりたい表現であり、自分の追求したい音楽だったのです。

 

 しかし、マリーアンドファナーズは、’96年を最後にライブから遠ざかることになるのです。

 

つづく

 


マリーアンドファナーズのつくりかた(味見)

2016-09-18 17:00:00 | Weblog

 1992年春、名古屋で新しい仕事をこなす日々は淡々と、しかし忙しく過ぎていきました。

藤が丘のバー「シモン」に通ううち、マスターと打ち解けて話すようになりました。

マスターもバンドマンでギタリスト、話が弾みました。

しかし、こっちはすでに元バンドマンになっていました。

 

 その年の秋、同期社員が東京から名古屋に転勤してきました。

いつも笑いの中心にいるような明るいタイプなのですが、大阪で生まれ育った関西特有の押しの強さが

苦手で、友達にはなれないタイプだと思っていました。

それでも同期の義理でとりあえず二人でめしでも食おうとなったのでした。

 

 シモンで2次会になるころにはすっかり打ち解けており、酒の力を思い知りました。

音楽の話になり、意外なことを言い出すのです。

自分はドラムが好きで学生の頃は少しだがバンド経験もある、名古屋でドラム教室に通いたい

ので、道案内してほしいとのことでした。

 

 数日後、個人のマンションで開校しているスクールに決めました。

一緒にバンドをやらないかと誘ったのはごく自然な流れでした。

この人こそ、マリーアンドファナーズのドラマー舛野氏なのです。

「キセバンド」のドラマーは、控えめな性格で、ライブをやるということに対して、あまり

積極的ではなかったので、この押しの強い関西ドラマーはとても心強かったのでした。

 

 舛野は大阪が実家、私は家内の実家が大阪、千田、佐々木は関西在住です。

名古屋-大阪を往復する遠距離恋愛バンドがこうして出来上がったのです。

 名古屋のスタジオで練習した後、ミーティングでバンド名を決めようということになりました。

いくつかの候補のうち、佐々木が持ってきた名前の衝撃を今も忘れません。

 

「マリーアンドファナーズ」はこうしてできあがりました。

 

つづく

 


マリーアンドファナーズのつくりかた(加熱)

2016-09-18 16:00:00 | Weblog

 コルゲートマシーンズのリハ終わりに飲んだ帰り道、もう一回スタジオに入ろうとなりました。

ドラマー鎌倉氏はこういうフザけたノリが性に合わないと先に帰りました。


メトロでGOの作詞者、ベースの千田氏が作詞ノートを持っていたので、これを見ながら

佐々木と私が交互に即興で歌にしていったのです。

千田ノートには驚くほどたくさんの詞がつづられていました。

そしてどの詞も、それ自体が既にメロディーとリズムを持っていると感じました。

ドラムは、私と佐々木が交代で叩きました。


けっこう酔っていたので、まるで狂気の沙汰でしたが次々と即興曲が出来たのです。

それなりに長い音楽人生の中で、このような経験は後にも先にもこの時だけでした。

しかし、この経験と録音テープが後のマリーアンドファナーズのオリジナル曲の源泉になるのです。


 そして、1992年の春、バンドにとって決定的な危機が訪れます。

5年務めた大阪から名古屋支社への転勤を命じられたのです。

思い起こせば、会社に入って、いろんな偶然が重なり、5年間も音楽活動を続けられた

ことがいかに幸せであったことか。

これで高校時代から途切れることなく続いたバンド生活にも終止符を打つのだと覚悟したのです。

サラリーマンに転勤はつきもの、当たり前のことが起こっただけと理解はできても、まだやり残した

ことがありました。


最後のライブは、業界団体の屋外イベントでした。前夜から雨だったので、中止と思われました。

朝、雨が止んで、無事にステージに立つことができました。


これで最後なんだという寂しさとやり残した悔しさがこみ上げてきました。

一人になった時に泣きました。


自分の中で、一つの大きな時代が終わりました。


つづく

 


マリーアンドファナーズのつくりかた(味付け)

2016-09-18 15:00:00 | Weblog

 先のジャズユニットはリーダーの名前をとって「キセバンド」と名乗っていました。

メンバーが抜けては新しいメンバーが入る、音楽やエンタテイメントとは関係のない業種の社内なのに

不思議とメンバーには事欠きませんでした。

 レパートリーも増え、会社での認知度も上ってきて、それなりに充実した音楽状況でした。

しかし、これはあくまでも自分の表現ではないという思いが募ってゆくのです。

仲間と曲を仕上げていく、創意工夫が演奏に反映され、アンサンブルも洗練され、多くの人の前で

演奏する機会もある。

 それが楽しければ楽しいほど満たされない気持も大きくなっていきました。

 

 転機は静かに訪れました。

今のマリーアンドファナーズのギター、佐々木氏が四国から転勤してきたのです。

博多出身の彼とは音楽の趣味は合うのですが、博多んもん特有の押しの強い性格がどうにも

苦手だったのですが、バンドの中で一緒にやりだすと、意外や物事をおろそかにしない人間性に

感心させられました。

 ギターも丁寧に弾くし、フレーズのアイデアも豊富で、今まで以上に楽しく演奏ができるようになりました。

ロックやポップスの曲を取り入れ、パッキングの振り分け、ギターソロの交換など、バンドの音楽性も

飛躍的に高まっていきました。

 

 そして、「キセバンド」からスピンオフユニット「コルゲートマシーンズ」が誕生します。

リーダーを除いた4人でロックのコピーをやり、友人の結婚式の2次会などで演奏しました。

散発ユニットである「コルゲートマシーンズ」の活動をパーマネント化してオリジナル曲をつくり、

ライブハウスで演奏したいという気持ちがこのころ芽生えたのでした。

 

 佐々木とはよく飲みに行きましたので、この話を何度もしました。

が、意外と義理堅い彼は、私のバンド乗っ取り案件を潔しとはしませんでした。

リーダーが作ったバンドだからそんな仁義を欠くようなマネはしたくないというのです。

 

 ある日、「キセバンド」のベース、千田氏が詞を書いてきたのです。

唐突なことだったのですが、数日後、この詞に佐々木が曲をつけてきました。

解放感あふれる歌詞と軽快なメロディー、何かが始まる予感がしました。

この曲こそ、マリーアンドファナーズの代表曲「メトロでGO」だったのです。

しかし、マリーアンドファナーズはまだ「キセバンド」でした。

 

つづく。

 


マリーアンドファナーズのつくりかた(下ごしらえ)

2016-09-18 14:00:00 | Weblog

 福岡で生まれ育って高校2年で初めてのロックバンドを組みハードロックのコピーを文化祭で演奏した。

京都産業大学で軽音楽部でオリジナルもやるようになった。

就職したのは大阪本社の会社で、音楽とは無関係。

しばらくは学生時代の仲間と京都でバンド活動した。

 

そのバンドもなくなって、バンド浪人になる。

が、どこから聞きつけたのか、会社の先輩がジャズのスタンダードなんかをやりたいのでギターを弾いてくれ

とのこと。ジャズは門外漢だったが、結局このバンドがマリーアンドファナーズの前身となる。

先輩は、アルトサックスで、もうひとり、ソプラノサックスを吹く先輩と3人で始めた。

工場の空きスペースで練習ができるようになり、だんだんメンバーが増える。

 

ソプラノサックス氏はベースに転向する。

ドラマーが加入し、キーボードが入る、ボーカルが入る。

なぜかどこからともなく機材も集まってくる。

アンプ、ドラムセット、エレクトーン。

 

近隣からの苦情で真夏も窓を閉めた空調のない半倉庫で汗だくになりながら練習した。

やがて社内の行事に声がかかるようになる。

会社の食堂やら、ホテルを借り切っての大宴会など。

ジャズといってもそんな高尚なギターは弾けないワケで、いろいろとできることを工夫しながら

やってみると、それはそれでなかなか楽しい、良い経験をさせてもらった。

メンバーが入れ替わりながら、このバンドは5年続いた。

 

だんだんと会社側の扱いもよくなってきて、最後のほうは、バンドご一行様の席が設けられた。

揃いの衣装も提供された。

業界団体のイベントで、結構なギャラをいただいたこともあった。

 

つづく。

 

 


マリーアンドファナーズのコールアンドレスポンス

2016-09-17 00:34:24 | Weblog

 誰にでも過去はある。

それは時に美しい思い出だったりするのだが、そんなものは時間という虚構の砂に磨かれた一抹の

妄想に過ぎない。

さあ思い出せ、ほんとうのことを。

その澱み濁った恥ずかしい現実ともう一度向かい合う勇気を持つ者だけが先に進む権利を手に入れ

ことができるのだ。

 

 マリーアンドファナーズの黎明期、音楽での勝負は放棄した。

なにか他のことでみんなを楽しませることができないかと考えた。

で、コールアンドレスポンス。

 

今思えば、そんな時間をギターと歌の練習につぎ込むべきだったと思う。

では、どうぞ。

打ち合わせなし、サクラなし。

さすが大阪は笑いの都でんなぁ。

では、9月18日(日)、大阪心斎橋ドアーズインヘブンで会いましょう。