その日以来、私は、店に行かなくなった。池袋の街からも、足が遠のいた。必要に迫られて、一度、T百貨店で買い物をしたが、若い女性向けの服売場は、通らないよう、気をつけた。「実習生」と書かれた名札を付けて働いているサラと、鉢合わせすることが、嫌だった。
サラを連想させるものは、見たくなかった。サラの名刺、店のライター、無国籍料理のレストランの割引券。そういったものは、全部捨てた。テレビで「肌水」のCMが始まると、すぐにチャンネルを変えた。
私が、サラに、何を求めていたのか、そして、サラは、私に、何を与えてくれていたのか、よく分からない。しかし、いつの間にか、麻薬中毒のように、心が、サラに依存し始めていた。彼女と、会えないのは、思った以上に、苦痛だった。
季節はゆっくりと進んでいった。十月に入って、街には、秋の気配が漂い始めた。そんなある日、大学時代の友人と、池袋で飲むことになった。久しぶりの再会で、酒が進んだ。飲み屋を何軒もはしごして、気が付くと、終電の時間を過ぎていた。
友人の乗ったタクシーを見送った後、自分のタクシーを拾おうと、あたりを見回した。随分と酔っていたが、ふと、あることに思い当たった。私の立っている場所は、サラのいた店のすぐ近くだった。私は、店の方へ、おもむろに歩き始めた。「引き返せ」という声が聞こえたが、体が勝手に動いた。
通い慣れた階段を下って、私は、店に入った。席に通されて、「ご指名は?」と訊かれた。誰でもよかったが、「クミコ」という名前が、口を突いて出た。座って店を見渡すと、隅の方に、ジンナイが立っていた。その横に、小柄な女の子がいた。細身で、色白。
息を呑んだ。それは、サラだった。ジンナイと、額を寄せ合うようにして、何かを話していた。私の目は、サラに釘付けになった。しかし、サラは、こちらを全く見なかった。頭の中が、ぐるぐると回って、少し気分が悪くなった。
クミコがやって来た。
「こんにちは。お久しぶり、ですよね?」
「サラ、サラが、いるんだけど」
「サラちゃん?ええ、いますよ。どうして?」
「サラは、辞めたんじゃなかったっけ」
クミコは、不思議そうな表情で、私を見た。
「サラちゃんが?いいえ。サラちゃんは、辞めてないですよ」
「一度も?」
「ええ。ずっと、出てますよ」
ようやく、私は、嘘をつかれていたことに、気が付いた。サラは、辞めていなかった。でも、なぜ、そんな嘘を?その時、ジンナイが、ちらっと、私の方を見た気がした。
猛然と、怒りがこみ上げてきた。こいつ、オレを店から追い払いたかったんだ。サラとの関係を、上にチクられるのが、怖かったんだ。私は、そう確信した。酔いと怒りで、それ以外の可能性を検討する余裕はなかった。
私は、クミコに言った。
「ジンナイを呼んで。ここに」
ジンナイは、すぐにやって来て、怪訝そうな顔で、尋ねた。
「どうされました」
「あんた、なんで、そんなことするんだ」
「はっ?」
「なんで、好きでもないのに、サラに手を出したんだ」
「あの、いえ」
「こっちは、全部、知ってるんだぞ。お前の上司に、全部、ぶちまけてやろうか」
怒りで声が大きくなった。店内が少し、静かになったように感じた。
「あの、あの、少し、お待ち下さい」
ジンナイは、店の隅に戻って、ウツミに何やら、早口でしゃべっていた。目が大きく見開いて、顔が蒼白だった。やがて、そこにサラが加わって、三人で話し始めた。
私は、席を立って、店の出口に向かった。サラが、追いかけてきた。振り向いて、サラを見た。彼女の顔は、怒りで歪んでいた。
「なんで、ねえ、なんで、そんなこと言うの。なんで、そんなこと言うの」
サラの表情を見て、私の怒りは急速にしぼんだ。もう何を言っても、無駄だ。サラの心には、私の言葉は、届かない。絶対に届かない。そのことが、心底、分かった。
「もういい。たくさんだ。君の顔は、二度と見たくない」
そう言って、私は、店を出た。一度も、振り返らず、歩いた。
これが、サラとの、本当の別れになった。
最終話へつづく
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サラを連想させるものは、見たくなかった。サラの名刺、店のライター、無国籍料理のレストランの割引券。そういったものは、全部捨てた。テレビで「肌水」のCMが始まると、すぐにチャンネルを変えた。
私が、サラに、何を求めていたのか、そして、サラは、私に、何を与えてくれていたのか、よく分からない。しかし、いつの間にか、麻薬中毒のように、心が、サラに依存し始めていた。彼女と、会えないのは、思った以上に、苦痛だった。
季節はゆっくりと進んでいった。十月に入って、街には、秋の気配が漂い始めた。そんなある日、大学時代の友人と、池袋で飲むことになった。久しぶりの再会で、酒が進んだ。飲み屋を何軒もはしごして、気が付くと、終電の時間を過ぎていた。
友人の乗ったタクシーを見送った後、自分のタクシーを拾おうと、あたりを見回した。随分と酔っていたが、ふと、あることに思い当たった。私の立っている場所は、サラのいた店のすぐ近くだった。私は、店の方へ、おもむろに歩き始めた。「引き返せ」という声が聞こえたが、体が勝手に動いた。
通い慣れた階段を下って、私は、店に入った。席に通されて、「ご指名は?」と訊かれた。誰でもよかったが、「クミコ」という名前が、口を突いて出た。座って店を見渡すと、隅の方に、ジンナイが立っていた。その横に、小柄な女の子がいた。細身で、色白。
息を呑んだ。それは、サラだった。ジンナイと、額を寄せ合うようにして、何かを話していた。私の目は、サラに釘付けになった。しかし、サラは、こちらを全く見なかった。頭の中が、ぐるぐると回って、少し気分が悪くなった。
クミコがやって来た。
「こんにちは。お久しぶり、ですよね?」
「サラ、サラが、いるんだけど」
「サラちゃん?ええ、いますよ。どうして?」
「サラは、辞めたんじゃなかったっけ」
クミコは、不思議そうな表情で、私を見た。
「サラちゃんが?いいえ。サラちゃんは、辞めてないですよ」
「一度も?」
「ええ。ずっと、出てますよ」
ようやく、私は、嘘をつかれていたことに、気が付いた。サラは、辞めていなかった。でも、なぜ、そんな嘘を?その時、ジンナイが、ちらっと、私の方を見た気がした。
猛然と、怒りがこみ上げてきた。こいつ、オレを店から追い払いたかったんだ。サラとの関係を、上にチクられるのが、怖かったんだ。私は、そう確信した。酔いと怒りで、それ以外の可能性を検討する余裕はなかった。
私は、クミコに言った。
「ジンナイを呼んで。ここに」
ジンナイは、すぐにやって来て、怪訝そうな顔で、尋ねた。
「どうされました」
「あんた、なんで、そんなことするんだ」
「はっ?」
「なんで、好きでもないのに、サラに手を出したんだ」
「あの、いえ」
「こっちは、全部、知ってるんだぞ。お前の上司に、全部、ぶちまけてやろうか」
怒りで声が大きくなった。店内が少し、静かになったように感じた。
「あの、あの、少し、お待ち下さい」
ジンナイは、店の隅に戻って、ウツミに何やら、早口でしゃべっていた。目が大きく見開いて、顔が蒼白だった。やがて、そこにサラが加わって、三人で話し始めた。
私は、席を立って、店の出口に向かった。サラが、追いかけてきた。振り向いて、サラを見た。彼女の顔は、怒りで歪んでいた。
「なんで、ねえ、なんで、そんなこと言うの。なんで、そんなこと言うの」
サラの表情を見て、私の怒りは急速にしぼんだ。もう何を言っても、無駄だ。サラの心には、私の言葉は、届かない。絶対に届かない。そのことが、心底、分かった。
「もういい。たくさんだ。君の顔は、二度と見たくない」
そう言って、私は、店を出た。一度も、振り返らず、歩いた。
これが、サラとの、本当の別れになった。
最終話へつづく
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