ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 03/10~03/16

2013-03-17 18:47:42 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 03/10~03/16

日々の聖句2013 03月10日(日)
わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。(詩119:81)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブ11:1)
私の黙想:
愛する人からの電話(メール、手紙)を待っている心境。居ても立っても居られず、心身共に疲れ果て、「ひなびた革袋」状態になっている。あなたからの一言の「便り」が私を元気づけるであろう。
「待つ」とはそういうことである。今は「その一言」がない。しかし必ず連絡があるはずだ。私の周囲にいる人たちは、無責任にいろいろと想像して、「あなたは捨てられたのだ、忘れ去られたのだ」とか、「もう諦めて、新しい道を求めよ」と言う。しかし私は相手を信じ、必ず「何らかの言葉」があることを確信している。まだ届かない言葉を信じている。

日々の聖句2013 03月11日(月)
あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに、神よ、豊かな慈しみのゆえに、わたしに答えて確かな救いをお与えください。(詩69:14)
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロ4:2)
私の黙想:
今日の聖句、何かもたもたしていて文意がわかりにくい。他の訳文と比較すると、もたもたしている理由は主文が曖昧だからであろう。「答えて下さい」という祈りなのか「お救い下さい」という祈りなのか。少なくとも日本語訳としてはフランシスコ会訳と祈祷書約が最も分かり易い。この詩の主旨は17節で、「恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください」である。神さま、私から目を離さないで! 今日から大学1年の孫娘が学友たちとドイツに旅行をする。「神よ、彼女たちを見守って下さい」。

日々の聖句2013 03月12日(火)
いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。(詩32:1)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロ1:14)
私の黙想:
正直に言って、私にはこの感覚がわからない。私には「神に背いた」という自覚が全くない。と言って、自分を正しい人間だとか、善人だと思ったこともない。確かに他人を騙すし、エゴイストだし、人の目を気にして生きているし、自分自身を誤魔化している。そのことをトータルに「神に背いている」と言われれば、それを否定するだけの根拠もない。だから、うまく人の目を誤魔化し、自分自身を善人のように見せることが出来れば「罪を覆っていただいた」と思うことも可能であろう。だからと言って、この詩人のように「いかに幸いなことでしょう」という感覚がわからない。ただし大急ぎで付け加えておかねばならないが、私は私自身の人生を振り返って見て、幸いだと思う。そのことを「おめでたい」と言われればその通りだし、まさにそのことが「自分を誤魔化している」とか、「それがあなたのエゴイズムよ」と批判されたら、反論は出来ない。

日々の聖句2013 03月13日(水)
神に従う人は、主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとします。(詩92:14-15)
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(ルカ8:15)
私の黙想:
イスラエルの人びとにとっての理想の晩年。私(たち)にとって「主の家」とか「神の庭」はどこにあるのであろう。年毎に減っていく貯金と年金、衰える体力、待っているのは孤独死。書き出せばそういうことになる。にもかかわらず、私は今の生活に満足している。この状態がずーっと続くといい、と思っている。

日々の聖句2013 03月14日(木)
いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。(詩112:1)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロ3:17)
私の黙想:
「深く愛する」、愛における深浅とは何か。深い愛と浅い愛とは程度の差ではなく、質の差。人は簡単にアガペーとエロースの差を口にする。そこで表現されているのは「自己犠牲の愛」と「自己中心の愛」、自己を相手に与える愛と、相手を自己に引き寄せる愛とを対比させた概念であり、それは愛と非愛の差である。
愛における深浅とは「I love you」か「I like you」の違いである。対象は「主の戒め」、ここでは聖書を意味する。聖書が趣味の対象であるか、聖書に一生を懸けるかの違いである。聖書にこう書いてあるで終わるか、その言葉によって生き方を変える覚悟があるか。

日々の聖句2013 03月15日(金)
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。(詩130:3)
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェ1:7)
私の黙想:
神は私たちの罪をすべて心に留められる。だから神の前で誰も耐えられない。これは当たり前のことであり、当然そうである。神と私たちとの関係はそういう関係である。マタイ福音書5:25-30でイエスもそう言っている。しかしイエスの結論は違う。だから(この「だから」が非常に重要)、 思い悩むなと言う。思い悩んだからと言ってどうにかなるものではない。思い悩む者に対して、イエスは「信仰の薄い者たちよ」と言われる。イエスと触れ合った人たちは、イエスのこの信仰に魅力を感じ、イエスに従った。キリスト教の原点をここに置くべきであろう。

日々の聖句2013 03月16日(土)
彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれた。(イザ53:8、口語訳)
キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか 。(ルカ24:26)
私の黙想:
ローズンゲンの編者が口語訳を採用した理由を了解。キリストの贖罪死。これは農耕民族には理解を超えている。動物犠牲という文化的伝統においてのみ理解出来る理屈である。
「宥めの供え物」か、「感謝の初穂か」。日本文化の中では「いけにえ」は特殊な状況における問題処理方法。「人身御供」は共同体の営みを妨げる魔力的怪物、あるいは共同体を脅かす強敵への贈与。
実際に祭壇を築いて、その上で殺すというようなことは、無意味な行為と見なしていたのか。(民俗学の専門家に聞かないと分からない。)
カインの捧げ物とアベルの捧げ物との対立。農耕民族には贖罪という行為は理性的にも感性的にもまったく理解困難である。動物を殺してその肉を食うという文化における罪意識か。
針供養、筆供養は、日常お世話になっている針や筆に対する「感謝の祭」。
<スミマセン。よく分からないうちに、行き詰まってしまいました。>





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