ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 5/22

2011-05-30 08:15:37 | ローズンゲン
5月22日(日)
なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。(エレミヤ15:18)
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ロマ8:25)
私の黙想
親を信頼する子供は親の顔色を見ながら、どこまで不平を言い、批判できるのかを計りながら、口を尖らして文句を言う。今日のエレミヤ書は、この位までならい言ってもいいのかという限界を示している。神に対して「裏切り!」と怒鳴り、「当てにならない」と批判する信仰者。

5月23日(月)
わたしの僕の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。(イザヤ42:1)
キリストの言葉:あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)
私の黙想
今日と明日、神学部時代のクラス会がもたれる。私のクラスは15人前後。ほとんど全員牧師になった。中にはその息子たちも牧師になっている。これは非常に珍しいことだ。既に3人を天国に送った。クラス会にはその夫人たちも参加する。お互いに歳を取ったが、会えば若返る。

5月24日(火)
主は、海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方である。(イザヤ43:16)
ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
私の黙想



5月25日(水)
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。(詩9:19)
キリストの言葉:金持ちが天の国に入るのは難しい。(マタイ19:23)
私の黙想
ここでの「乏しい人」と貧しい人」という二通りの言い方の違いは何か。ヘブライ詩特有の多重表現(同じ意味のことを別な単語を重ねて強調する)であろう。むしろ「貧しい者たち」は貧しさの故に神を忘れない。18節の「神を忘れる者」(=傲慢)との対比が重要であろう。

5月26日(木)
わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。(ミカ6:3)
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。(ロマ9:20)
私の黙想
被造物の分際で、創造者なる神に口答えするなんて、どうしたことか。それに、まともに人間の口答えに「ムキになる神」とは、あんたはいったい何者なのか。でも、こういう神人関係っていいな。

5月27日(金)
たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。(ミカ7:8)
わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(1テサロニケ5:8)
私の黙想
「闇の中」と「わが光」との対照が面白い。信仰者にとって「闇」はない。「闇の中」でこそ「光」の源と方向が明白になる。信仰者は苦悩のなかでもじたばたしない。ミカはイザヤと同時代の預言者。アモスの系統に属し、在野の預言者。

5月28日(土)
君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。(詩146:3)
人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒言行録5:26)
私の黙想
そんなこと分かりきっていることである。それでも人間は「君候」に依り頼もうとする。あるいは「君候」であることにしがみつこうとする。「君候」に何かできるという思いはぬぐえないらしい。

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