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読書ノート:ポール・ラファルグ『怠ける権利』

2012-07-13 19:31:32 | 小論
読書ノート:ポール・ラファルグ『怠ける権利』(田淵晋也訳、人文書類、1972年)
少し考えるところがあって、40年前に読んだことがある上記の本を再読しました。ここでは労働とは何か瘏言うことを論じていませんが、怠けるとは何かということを論じることによって逆照射している様に思う。


ラファルグは序の冒頭で次のような言葉を引用している。
<「聖職者の権限を絶対的なものにすることが望ましい。というのは、人間に対して逆に≪楽しめ≫と命じるいま一つの哲学ではなく、苦しむためにこの世に生まれたのだと人間に教え込む、かの良き哲学を普及させることを、聖職者に期待するからである」と。>
この言葉は1849年の初等教育委員会の席上でチエール氏ガ述べられた言葉だという。彼はフランスのブルジョワ進歩派の政治家で、パリ・コミューン弾圧のドンと言われている。この言葉はキリスト教の聖職者を称賛(皮肉)している。その委員会の前年1848年のフランスの2月革命で労働者が掲げた要求は「労働の権利」で、失業問題への労働者の要求を意味している。その時労働者が「勝ち得た(?)」労働の権利は1日12時間の労働であった。その結果労働者たちの生活は無茶苦茶になってしまう。それに対してラファルグは「フランスのプロレタリアートよ、恥を知れ」(22頁)と批判する。
それが本書のメッセージである。
第1章 妄想
<資本主義思想が支配している社会において、産業革命の進展と平行して、奇妙な妄想が労働者を苦しめている。その妄想とは労働への愛ともいうべきものである。聖職者は労働の神聖さを強調し、労働者はそれを信じて従う。その結果、労働者本人はもちろんその家族の活力が奪われている。聖職者たちは、神でもないのに、神が「呪い」として人間に付与した労働を神聖化することによって神に対する人間の名誉を回復しようとしている。>(14頁)
ラファルグは労働を神聖視する思想の歪みについて、キリスト教思想によって汚染されていない野性の社会やギリシャ文明における人びとの健康状態や体力を引き合いにして、労働の神聖視がいかに人間の生活をダメにしているかを論じる。
その上でイエスの山上の説教を取り上げて、次のように述べる。
<キリストは山上の説教で次のように述べている。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:28-29)。
厳粛な神ヤハウェは神に従う者たちに対して、重要な手本として、怠惰であることの姿を示しているのである。ヤハウェは6日間労働し、その後は永遠の休息に入っておられるのである。>(18頁)
つまりここで述べられていることは、神の世界には人間の手(労働)が入る余地がない。神は6日間だけ働きその他の永遠に続く時間は休息している。
ラファルグのこの部分での議論は十分ではないが、ただ労働を神聖視するという神学思想は聖書に根拠がないということを言いたいのであろう。

では、怠けるということはどういう状態を示しているのか。

第2章 労働の神聖化
労働の神聖化の発端。ナポレオンは書簡1807年5月5日に書かれた書簡において次のように述べている。
<余の人民は、働けば働くほど、悪徳が減る。余の権威を持って人民に命じる。日曜日、礼拝時間の後、店を開け。そして労働者を仕事にかり出せ。>(21頁)
要するに権力者、為政者は人民が無駄遣いせず、質素な生活をして、一生懸命働くことを期待している。その結果得られた労働の果実は国家のもの、つまり権力者のものとなる。
聖職者や経済学者は労働の神聖さを強調し、権力者に奉仕する。
恥知らずな経済学者は、「貧しい国家とは、とりもなおさず国民が裕福な国家であり、富んだ国家とは国民が一般に貧しい国家であった」などとのたまう(30頁)。1849年のフランス革命によって勝ち取った労働の権利では、1日の労働時間が14時間とか15時間であった。
<経済学者いう。「働け、働け、君たちの安楽を生み出すために絶えず働け」。宗教家もその声に合わせてご託宣を述べる。>(30頁)

その結果が過剰生産という産業危機である。ここに一人の工場主が登場する。彼はどんどん銀行から金を借り入れ労働者を雇い、材料を購入してストッキングを生産する。彼の倉庫には2万足のストッキングがストックされている。とうとう、金につまってユダヤ人の貸金業者に相談する。ユダヤ人はいう。「お宅の倉庫には2観測のストッキングがある。あれを売れば20スーになる。でも随分お困りのようなので、私はそれを4スーで買い取りましょう」。商談は成立する。ユダヤ人は4スーで手に入れたストッキング6スーから8スーで転売する。ユダヤ人はなんの苦労もなく大金を手にする。(35頁)

ここからがラファルグのメッセージ。
<(労働者が)自らの力を自覚するためには、キリスト教的、経済的、自由思想的道徳の偏見を踏みにじらねばならない。自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ね上げた、痩せこけた「人間の権利」などより何千倍も高貴で神聖な「怠ける権利」を宣言しなければならない。1日3時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。>(37頁)
第3章 過剰生産とその結末
<キケロの時代のギリシャ詩人、アンチパトロス(紀元前2世紀の風刺詩人)は、(穀物を挽く)水車の発明を次のように歌った。これこそ、女奴隷を解放し、黄金時代を復活させるものだった。
「おお、粉挽く女たちよ、石臼をまわす腕を惜しめ、そして憂いなく眠れ! 夜明けを告げる雄鳥の声に耳をかすな! ダオス女神が水の精たちに奴隷の仕事をおしつけた。だからニンフたちが水車の上で陽気にはね回り,車軸ががらがら羽根をまわし、重い回転臼をころがししている。先祖の暮らしを暮らそう、そしてのんびり女神がくださる賜物を楽しもう」。
悲しいかな、異教の詩人が告げた余暇は、やって来なかった。労働の邪な殺人的な盲目的情熱が、解放者である機械を、自由人を奴隷に落とす凶器に化けさせた。機械の持つ生産力が、彼らを貧しくしているのだ。
手紡ぎのの優秀な女工は、1分間に5編み目しか編めないのだが、ある種の織機は、同時間内に1万3千を編む。機械の1分間は女工の100時間の労働に相当する。これは言い換えると、機械の1分間の仕事は、一人の女工に10日間の休暇を与える。しかも機械は益々改良され段々高度になり、人間の仕事を奪う。それに対応できな労働者は機械と張り合うように、刻苦勉励の度を加えている。なんと馬鹿馬鹿しい、殺人的な競争であることか。>(40頁)
イギリスのプロテスタント(聖公会)に対する批判
<昔の連中は、この世の喜びを味わい、恋をし、浮かれ騒ぐための余暇を持っていた。「なまけ者」の陽気な神様を讃え、楽しくご馳走を食べるための。鬱陶しいイギリスは、プロテスタントに凝り固まってしまったが、その頃は、「愉快なイギリス」と呼ばれていた。>(41頁)
機械化の浸透の結果としての過剰生産、ラファルグの批判の舌鋒は鋭く、過剰生産による過剰消費の問題点を鋭く追求する。

<労働者たちは必死で働き必要以上の製品を生産する。と同時に節制という倫理によって質素な生活に甘んじている。このような二重の狂気を前にし、資本主義的生産の最大の問題は、労働力の確保ではなく、新しい消費者を発見し、その欲望をかき立て、偽りの需要を生み出すことである。>(50頁)。
ラファルグはここで「偽り需要」ということに触れている。まさにそれが現代の消費社会である。
<1年分の労働をなぜ6ヶ月で貪欲にむさぼり尽くそうとするのか。なぜそれを12ヶ月に均等に配分し、6ヶ月12時間労働の消化不良を起こす代わりに、すべての労働者が年間、1日5時間ないしは6時間で満足するように仕向けないのか。1日分の仕事分が決まれば労働者はもはや、互いに妬み合い、手から仕事を、口からパンを奪い合うためにいがみ合うこともしなくなるだろう。そうなれば、心身共に枯れ果てることなく、なまけることの美徳を発揮しはじめるだろう。>(53頁)
第4章 新しい時代
<生産の機械化により労働時間の短縮が実現されたならば、巨大な労働者自らが巨大な消費者となる。>(59頁)
ラファルグが目指す新しい時代とは、このような社会である。

付録(結び)
<奴隷身分への偏見が、ピタゴラスやアリストテレスの精神を支配していた」と、軽蔑的に書かれている。だがしかしアリストテレスは見越していたのだ。「ダイダロスの傑作が自然に動き、ウールカーヌスの三脚床几がひとりでに神事を執り行ったように、各工具が手を加えなくとも、自然にそれぞれの機能を発揮できるなら、たとえば職工の梭(おさ)がひとりでに織っていくのであれば、工場の親方にはもはや手助けはいらず、長には奴隷の必要はなくなるだろう。
アリストテレスの見た夢は実現されている。疲れを知らず汲めども尽きに素晴らしい生産性を持つ機械が、従順に自分から進んで聖なる労働を遂行している。それなのに、資本主義のお偉い哲学者たちの頭は、最悪の奴隷身分である賃金制度の偏見に囚われたままだ。機械というのは、人類に購い主であり、人間を卑しい業と賃金から買い戻し、人間に自由と暇を与える≪神≫であることが、奴らにはまだわかっていない。>(74頁)

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