ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

聖餐式における「パンとぶどう酒」について

2012-03-02 18:56:32 | ときのまにまに
ユーカリスト(聖餐)の物素をめぐって
( http://blogs.yahoo.co.jp/renta0826/43797562.html )
タイトルは、『アングリカン・コミュニオンがひとつであるために~世界聖公会エキュメニカル関係常置委員会・セーシェル会議報告』
・・・・以下、引用・・・・
「聖公会国際礼拝協議会」(IALC)からの「ユーカリストにおける物素(パンとぶどう酒)」をめぐる公式報告書が本委員会にも送付され、セーシェル会議でもこの報告に対する応答を作成するための議論が行なわれた。
この報告は、聖餐式におけるパンとぶどう酒を、さまざまな条件、状況の中で他の物素(エレメント)で代用する聖公会内の教会が少なからず存在することへの、アングリカン・コミュニオンとしての公式的見解の確定を目指すものである。

聖公会国際礼拝協議会は、全管区にアンケート調査を行い、その結果が資料として同報告書に添付されている。それによると、回答のあった29管区中、約三分の一にあたる10管区から、何らかの形で、代用物素の使用があることが報告されている。主な代用の理由は、ぶどう酒などが高価であること、グルテン・アレルギーの信徒、アルコール依存症の信徒への配慮、その教会が置かれている文化的、宗教的、法的状況等であり、代用される物素は、米で作られた餅状のもの、グルテンを含まないパン、ぶどうジュース、ノンアルコール・ワイン、ビスケット、ケーキ、コカ・コーラ、ファンタ、バナナジュース、パイナップル・ワイン、煮出したレーズンに砂糖をまぶしたもの、ライスケーキ、等々である。

コーラやファンタなどを使用しているのは、ワインが入手困難なアフリカの一部諸国が多いが、イスラム国家にある聖公会管区などでは、アルコールの使用そのものが法的に禁じられているなど、特殊な状況もある。しかしながら、代用の背後にある主要な理由は、「文化への適用」の問題であると、同報告書は指摘している。西欧圏ではないアフリカやアジアの国々において、「パンとぶどう酒」というのはあくまでも「輸入物」であり、自分たちの日常の生活における「日用の糧」として食する物の方が、よりユーカリストに相応しいのではないか、という問いがそこにはある。また、ノンアルコール・ワインやグルテンを含まないパンが比較的容易に入手できるようになったこと、低温殺菌法の発見などによってぶどう酒とぶどうジュースの区別が以前とは異なっていることなどの現代的な事情にも言及されている。

神学的な問いとしては、「最後の晩餐において主が命じられたのは何か」ということである。つまり、それはユーカリストにおける「所作」なのか、「物素」なのか、あるいはその両方なのか、また「物素」であるとしても、それが「種なしパンとぶどう酒」なのか「日用の糧」なのか、という問いである。
聖公会国際礼拝協議会の顧問でもあるオーストラリアの神学者、アンドリュー・マクゴワンの論考も添付されているが、マクゴワンは、聖書においても必ずしも小麦の種なしパンのみが用いられているのではないこと、古代教会ではさまざまな多様性が見られたことを強調している。例えばヨハネ福音書6章9、13節などに小麦ではなく大麦への言及が見られるように、大麦の方が小麦よりも安価で入手が容易であった事実を無視することはできない、と言う。また、マクゴワンは、この問題が「伝達」と「解釈」の問題でもあると論じる。イエスの教えが世界中の隅々まで「伝達」され、そしてそれが、その地の固有の生活、文化、伝統の中で「解釈」されてはじめて、その地の民の肉と血になる、というものである。

聖公会国際礼拝協議会の報告書は、上記のような議論を紹介した上で、3点の勧告を提示する。(1)ユーカリストにおいて、あくまでも「パンとぶどう酒」の物素を常に使用することが、アングリカン・コミュニオンにおける規範的原則及び実践であることを再確認する。
(2)その上で、「パンとぶどう酒」という言葉を厳密に定義することが、必ずしも必要かつ有益なことであるとは考えない。ユーカリストにおいて用いられる物素が、それが祝われる固有の文化や、その時代のコンテキスト(状況)の中で、現実的に「パン」と「ぶどう酒」として受け留めることができれば、それで十分である。
(3)いくつかの管区のユーカリストにおいて、実際にパンとぶどう酒以外の物素が用いられている。この理由は、パンもぶどう酒も入手が非常に困難であることや、地方の文化や牧会上の必要からであることもある。当該の管区は、このような実践が例外的なものであり、またそのことが他の管区に及ぼす影響についても考慮するべきである。

しかしながら、私たちは、アングリカン・コミュニオン全体としては、上記(1)の一般原則を再確認する以上のことは必要ではないと考える。
セーシェル会議では、この3点について、(2)(3)の表現は少々言葉遊びが過ぎないか、という意見が出され、エキュメニカル対話の上でも、アングリカン・コミュニオンとして、あくまでも「パンとぶどう酒」の厳密な使用をより強調すべきである、との結論となった。

議論の中で、日本聖公会では「日本酒と寿司」などを使ったりしないのかといった半分冗談のような質問も飛び出した。筆者は、日本ではあくまでも「パンとぶどう酒」しか用いないと説明しつつも、フィリピン聖公会や南インド合同教会における実践と理解を紹介しながら、エキュメニカル関係常置委員会の論調が、アジア的視点からは、少々律法主義的であることを指摘し、それが議事録に少数意見として記録された。

確かに、日本聖公会では、パンとぶどう酒以外の物素は用いないが、ではなぜ私たちが「パン」と「ぶどう酒」を用いているのか、ということをこれまでどれほど深く検討してきたであろうか。このことは、日本におけるキリスト教の土着化、受肉化の問題と必ずしも無関係ではないであろう。
・・・・・以上、引用・・・
(注)現在、飲酒運転の問題が社会問題化している。福岡県などでは飲酒運転撲滅運動が全県をあげて展開されている。聖餐式のぶどう酒が飲酒運転に繋がるとは思えないが、アルコールに関してはかなり深刻に考える人がいることも否めない。また、未成年者の陪餐に関しても問題を感じている人もいる。醸造技術の発展によりホンモノのノンアルコールワインの醸造技術も開発された。これらを試用することもあり得るのではないだろうか。



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