今週のローズンゲン 2014/07/06~07/12
2014日々の聖句 07月06日(日)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、神です。(使徒言行録17:25)
私の黙想:
今日の聖句はいろいろなところですでに多くを語ってきているので、今朝は全然別なことを考える。課題は「アニミズム animism 」。もとは「霊魂」を意味するラテン語「アニマ anima 」から作られた用語で、人間、動植物、(無生物)など全てのものに「アニマ(霊魂)」が宿ると考える信仰体系を意味する。万物はアニマの原動力によって活動する(生きる)。従ってアニマが抜けると活動を停止する。それが死である。
アニミズムは原始的であるが、非常に強力で、キリスト教を含めていかなる宗教もこの思想から離れることはできない。今日の聖句はアニミズムに似ている。しかし、よく読むと、人間には「(神の)命の息」が吹き込まれ「生きる者となった」という。この「命の息」はアニマではないようだ。次元が違うという感じ。人間にのみ与えられている神との関係性である。アダムはエデンの園から追放された後も、この関係性が絶たれたわけではない。一種の重荷としてこの関係性の中で生きる。
2014日々の聖句 07月07日(月)
諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。(ミカ1:2)
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブル1:1~2)
私の黙想:
ミカはイスラエル史における初期に活躍した預言者。北のイスラエルの滅亡後、南のユダの危機の時代(前8世紀後半)。「お前たちに対し」の部分を口語訳では「あんたたちにむかって」と訳し、フランシスコ会訳ではさらに明瞭に「お前たちに反対し」としている。新改訳は「あなたがたのうちで」である。場面は裁判所で、ヤハウェがユダの罪を告発する側の証人になっているという。3節以下は神に反する民の悲劇的な運命が叙述されている。
イスラエル史を歴史学的に見るならば、巨大国によって翻弄される弱小民族の歴史であろうが、それをヤハウェと民との関係史として見るのが旧約聖書の視点である。旧約聖書における預言者は全てこの視点に立って述べている。今日の聖句において「皆聞け」、「耳を傾けよ」と繰り返されているポイントはここにある。政治史を「神との関係史」として読み、語るのが預言者たちの言葉である。この歴史観の延長線上にヤハウェによる救済を信じるところに「救済史観」が成立する。この救済史という史観における「究極の救済」としての「時の中心」として「キリストの時」というのが、キリスト教における救済史観である。
2014日々の聖句 07月08日(火)
あなたは隣人を虐げてはならない。(レビ19:13)
おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(ロマ15:2)
私の黙想:
フランシスコ会訳の註解ではレビ記19章のことについて以下のように述べている。「ユダヤ人の間では、本章はレビ記の中心、すなわちモーセ五書の中心、律法の『神髄』であると伝えられている」。まさのその通りであろう。その中のさらに中心に今日の聖句はある。「隣人を虐げる」具体例が、縷縷述べられている。例えばこうだ。「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(14節)。「隣人」とは誰のことかというようなことは問わない。勝負の世界では相手の弱点を突く。しかしここは勝負の世界ではない。共に生きる世界の話である。むしろ相手の弱点をよく理解した上で庇い、補えという。ダビデ王に向かって語った預言者ナタンの譬え話(2サムエル12)を思い出す。これは権力者がしてはならない禁じ手である。この罪は大きい。ダビデの王国が2つに分裂するに至る原因はここにあった。ダビデ王にとっては悔いても悔いても、もう取り返しのきかない失敗であった。日本はアメリカという隣国にそそのかされて、欧米社会も羨む伝統的な労働環境を破壊し、新自由主義の道を進み、社会的弱者を造り出してしまった。今、日本は「ノー・リターン・ポイント」に立っている。
2014日々の聖句 07月09日(水)
神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。(詩48:11)
その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。」(黙示録19:1)
私の黙想:
ここで「賛美(テヒラー)」と訳しているのは新共同訳だけ。他はすべて「誉」と訳している。「御名とともに」を口語訳、新改訳は「御名のように」と訳している。興味深いのはフランシスコ会訳では「大空のように」と訳していることであろう。確かに、「御名のように」というより「大空のように」の方が「地の果てまで」と相性が良いであろう(詩19)。
かつてない大型の台風が迫っている。明日にも日本列島を襲うであろう。自然の脅威の前に恐れ慄く小さくて弱い人間が、その感性および想像力で神の偉大さを受け止める。万物が神の栄光を賛美する声を聞く。
2014日々の聖句 07月10日(木)
主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こされた。(詩106:44~45)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリント10:13)
私の黙想:
今日の聖句は、これに続く一言が重要だ。「豊かな慈しみに従って思いなおし」。聖書の神は状況を見て思い直す!神と人間との関係はドラマである。人間思い直し、神も思い直す。しかも主人公は神である。ここが「哲学者の神」とは違う点である。ホットな関係、哲学者の神は終始一貫、関係は変わらず、その意味では終末まですべて見通せるが、ドラマはそうは行かない。どういうふうに展開するかそれは作者の思いのままである。ということは、神は主人公であるとともに作者(クリエーター)でもある。人間はその作品の中で翻弄される。しかし、そんな作品なら出演するのは嫌だとはいえない。人間は出演拒否の権限がない俳優のようなものである。ターレン・アノルフスキー監督の作品「ノア 約束の舟」で、主人公ノアは神のことを繰り返し「クリエーター(創造者)」と呼ぶ。徹底的にクリエーターに忠実であるために家族をも巻き込み、家族を殺すことも厭わないノアは、最後の場面で、クリエーターの命令を拒否し、双子の赤子を活かす。さぁ、このノアの態度にクリエーターはどのように対応するのか。物語は何も語らない。神は思い直すのだろうか。観客は突き放される。
2014日々の聖句 07月11日(金)
主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。(詩103:19)
キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。(1コリント15:24)
私の黙想:
ここで用いられている「主権」という言葉に違和感、あるいは時代錯誤を感じるのは私だけであろうか。口語訳では「まつりごと」、新改訳は「王国」、岩波訳では「王権と訳されている。フランシスコ会訳ではこの語を避けて、動詞「統治する(マシャーラ)」に含め、「その統治はすべてのものに及ぶ」と訳している。つまり万物(人間を含めて)は神の統治のもとにあるということを言っているのである。述べられていることは非常に単純である。しかし考えてみると、何時からか、何処からか聖書(創世記2:15)によると、神は万物の支配と管理を人間に委ねられたのだという思想が広まり、それが西欧文化の根拠となっていると喧伝されている。しかし聖書にはそんな思想は見られない。もしあるとしたら、神は「東の方のエデンに園を設け、人をそこに置き」(2:8)、「住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)のである。つまり、エデンの園が人間の最初の住まいであり、そこを住みやすいようにしなさいと命じられたにすぎないのである。その上で「園のすべての木から取って食べなさい」といわれた。何処にも万物の管理・支配などないし、しかも結局、人間はそのエデンの園から追放されたのである。どうも人間は一寸したことを手がかりに「拡大解釈して」、自分勝手なことをしたがるらしい。西欧文明の自然支配の根拠が聖書にあるという単純すぎる思想は、根本的に根拠が無い。万物は、人間を含めて、創造者なる神の支配下にある。
2014日々の聖句 07月12日(土)
神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます。「わたしの誉れよ、目覚めよ。」(詩108:2)
詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16)
私の黙想:
私の大好きな言葉「我が心定まれり」が変な訳語になっている。口語訳では「わが心は定まりました。わが心は定まりました」と2回も繰り返されている。フランシスコ会訳でも新改訳でも「わたしの心は揺るぎません」。1~3は詩57:7~9とほとんど同じ。岩波訳では「我が心は確かです」となっている。原語ではどちらが正しいのか、私はわからない。それぞれ言い分があるのであろう。新共同訳では頭が少し変調をきたしている者に対して「大丈夫か」と問いかけた時の返事のような訳である。しかし、「わたしの心は定まりました」という言葉には将来に向かっての強固な確信が感じられる。わたしの心は定まった。もう再び迷わない。これこそ、入信の決意である。私の場合は、聖職者として生きることを決断した時の言葉である。あれか、これかではない。「この道一筋に生きる」。
2014日々の聖句 07月06日(日)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、神です。(使徒言行録17:25)
私の黙想:
今日の聖句はいろいろなところですでに多くを語ってきているので、今朝は全然別なことを考える。課題は「アニミズム animism 」。もとは「霊魂」を意味するラテン語「アニマ anima 」から作られた用語で、人間、動植物、(無生物)など全てのものに「アニマ(霊魂)」が宿ると考える信仰体系を意味する。万物はアニマの原動力によって活動する(生きる)。従ってアニマが抜けると活動を停止する。それが死である。
アニミズムは原始的であるが、非常に強力で、キリスト教を含めていかなる宗教もこの思想から離れることはできない。今日の聖句はアニミズムに似ている。しかし、よく読むと、人間には「(神の)命の息」が吹き込まれ「生きる者となった」という。この「命の息」はアニマではないようだ。次元が違うという感じ。人間にのみ与えられている神との関係性である。アダムはエデンの園から追放された後も、この関係性が絶たれたわけではない。一種の重荷としてこの関係性の中で生きる。
2014日々の聖句 07月07日(月)
諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。(ミカ1:2)
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブル1:1~2)
私の黙想:
ミカはイスラエル史における初期に活躍した預言者。北のイスラエルの滅亡後、南のユダの危機の時代(前8世紀後半)。「お前たちに対し」の部分を口語訳では「あんたたちにむかって」と訳し、フランシスコ会訳ではさらに明瞭に「お前たちに反対し」としている。新改訳は「あなたがたのうちで」である。場面は裁判所で、ヤハウェがユダの罪を告発する側の証人になっているという。3節以下は神に反する民の悲劇的な運命が叙述されている。
イスラエル史を歴史学的に見るならば、巨大国によって翻弄される弱小民族の歴史であろうが、それをヤハウェと民との関係史として見るのが旧約聖書の視点である。旧約聖書における預言者は全てこの視点に立って述べている。今日の聖句において「皆聞け」、「耳を傾けよ」と繰り返されているポイントはここにある。政治史を「神との関係史」として読み、語るのが預言者たちの言葉である。この歴史観の延長線上にヤハウェによる救済を信じるところに「救済史観」が成立する。この救済史という史観における「究極の救済」としての「時の中心」として「キリストの時」というのが、キリスト教における救済史観である。
2014日々の聖句 07月08日(火)
あなたは隣人を虐げてはならない。(レビ19:13)
おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(ロマ15:2)
私の黙想:
フランシスコ会訳の註解ではレビ記19章のことについて以下のように述べている。「ユダヤ人の間では、本章はレビ記の中心、すなわちモーセ五書の中心、律法の『神髄』であると伝えられている」。まさのその通りであろう。その中のさらに中心に今日の聖句はある。「隣人を虐げる」具体例が、縷縷述べられている。例えばこうだ。「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(14節)。「隣人」とは誰のことかというようなことは問わない。勝負の世界では相手の弱点を突く。しかしここは勝負の世界ではない。共に生きる世界の話である。むしろ相手の弱点をよく理解した上で庇い、補えという。ダビデ王に向かって語った預言者ナタンの譬え話(2サムエル12)を思い出す。これは権力者がしてはならない禁じ手である。この罪は大きい。ダビデの王国が2つに分裂するに至る原因はここにあった。ダビデ王にとっては悔いても悔いても、もう取り返しのきかない失敗であった。日本はアメリカという隣国にそそのかされて、欧米社会も羨む伝統的な労働環境を破壊し、新自由主義の道を進み、社会的弱者を造り出してしまった。今、日本は「ノー・リターン・ポイント」に立っている。
2014日々の聖句 07月09日(水)
神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。(詩48:11)
その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。」(黙示録19:1)
私の黙想:
ここで「賛美(テヒラー)」と訳しているのは新共同訳だけ。他はすべて「誉」と訳している。「御名とともに」を口語訳、新改訳は「御名のように」と訳している。興味深いのはフランシスコ会訳では「大空のように」と訳していることであろう。確かに、「御名のように」というより「大空のように」の方が「地の果てまで」と相性が良いであろう(詩19)。
かつてない大型の台風が迫っている。明日にも日本列島を襲うであろう。自然の脅威の前に恐れ慄く小さくて弱い人間が、その感性および想像力で神の偉大さを受け止める。万物が神の栄光を賛美する声を聞く。
2014日々の聖句 07月10日(木)
主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こされた。(詩106:44~45)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリント10:13)
私の黙想:
今日の聖句は、これに続く一言が重要だ。「豊かな慈しみに従って思いなおし」。聖書の神は状況を見て思い直す!神と人間との関係はドラマである。人間思い直し、神も思い直す。しかも主人公は神である。ここが「哲学者の神」とは違う点である。ホットな関係、哲学者の神は終始一貫、関係は変わらず、その意味では終末まですべて見通せるが、ドラマはそうは行かない。どういうふうに展開するかそれは作者の思いのままである。ということは、神は主人公であるとともに作者(クリエーター)でもある。人間はその作品の中で翻弄される。しかし、そんな作品なら出演するのは嫌だとはいえない。人間は出演拒否の権限がない俳優のようなものである。ターレン・アノルフスキー監督の作品「ノア 約束の舟」で、主人公ノアは神のことを繰り返し「クリエーター(創造者)」と呼ぶ。徹底的にクリエーターに忠実であるために家族をも巻き込み、家族を殺すことも厭わないノアは、最後の場面で、クリエーターの命令を拒否し、双子の赤子を活かす。さぁ、このノアの態度にクリエーターはどのように対応するのか。物語は何も語らない。神は思い直すのだろうか。観客は突き放される。
2014日々の聖句 07月11日(金)
主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される。(詩103:19)
キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。(1コリント15:24)
私の黙想:
ここで用いられている「主権」という言葉に違和感、あるいは時代錯誤を感じるのは私だけであろうか。口語訳では「まつりごと」、新改訳は「王国」、岩波訳では「王権と訳されている。フランシスコ会訳ではこの語を避けて、動詞「統治する(マシャーラ)」に含め、「その統治はすべてのものに及ぶ」と訳している。つまり万物(人間を含めて)は神の統治のもとにあるということを言っているのである。述べられていることは非常に単純である。しかし考えてみると、何時からか、何処からか聖書(創世記2:15)によると、神は万物の支配と管理を人間に委ねられたのだという思想が広まり、それが西欧文化の根拠となっていると喧伝されている。しかし聖書にはそんな思想は見られない。もしあるとしたら、神は「東の方のエデンに園を設け、人をそこに置き」(2:8)、「住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)のである。つまり、エデンの園が人間の最初の住まいであり、そこを住みやすいようにしなさいと命じられたにすぎないのである。その上で「園のすべての木から取って食べなさい」といわれた。何処にも万物の管理・支配などないし、しかも結局、人間はそのエデンの園から追放されたのである。どうも人間は一寸したことを手がかりに「拡大解釈して」、自分勝手なことをしたがるらしい。西欧文明の自然支配の根拠が聖書にあるという単純すぎる思想は、根本的に根拠が無い。万物は、人間を含めて、創造者なる神の支配下にある。
2014日々の聖句 07月12日(土)
神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます。「わたしの誉れよ、目覚めよ。」(詩108:2)
詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16)
私の黙想:
私の大好きな言葉「我が心定まれり」が変な訳語になっている。口語訳では「わが心は定まりました。わが心は定まりました」と2回も繰り返されている。フランシスコ会訳でも新改訳でも「わたしの心は揺るぎません」。1~3は詩57:7~9とほとんど同じ。岩波訳では「我が心は確かです」となっている。原語ではどちらが正しいのか、私はわからない。それぞれ言い分があるのであろう。新共同訳では頭が少し変調をきたしている者に対して「大丈夫か」と問いかけた時の返事のような訳である。しかし、「わたしの心は定まりました」という言葉には将来に向かっての強固な確信が感じられる。わたしの心は定まった。もう再び迷わない。これこそ、入信の決意である。私の場合は、聖職者として生きることを決断した時の言葉である。あれか、これかではない。「この道一筋に生きる」。