losungenj 2012.07.01(sun)
あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。(Isa47:13、口語訳)
おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。(1Cor7:17)
私の黙想:
連呼する「再稼働反対」の中での黙想。今、日本国民は「多くの計りごとによってうみ疲れて」ている。今日の聖句は、現在権勢を誇っている者に対する「突然襲う没落」の預言である。あなたたちは色々と策略を試み支配を維持しようとするが、それももうそこまでだ。
losungenj 2012.07.02(mon)
あなたは訴訟において、偽りの発言を避けねばならない。(Ex23:6,7)
悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。(1Pet2:1-2)
私の黙想:
「乏しい人の判決を曲げてはならない」という言葉を省略すると、裁判における建前を述べているに過ぎない。何故、偽証ということが起こるのか。何故歪んだ判決が出るのか。それは全て裁判に関わる人間の心の問題である。この句は、そのことを問題にしている。建前を掲げることによって社会的弱者は追い詰められる。裁判において重要なことは建前の正義ではなく、人間の心の回復である。生活保護という弱者救済のルールが建前論によって無意味化されよとしている。
losungenj 2012.07.03(tue)
恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。(Ps4:7)
キリストの言葉:わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(Joh8:12)
私の黙想:
絶対的な神が人間を、しかも具体的に一つの民族を、さらにいうと一人の人間に対して「恵みを示す」ということは、想像を絶することである。あまりにも立場(存在)が隔絶しすぎている。人間に比していうならば、人間がバクテリアに対するようなものである。そんなことはあり得ない。あり得ないと考える方が常識的である。だから詩人は言う。それらの常識を打ち破るために「わたしたちに御顔の光を向けてください」と。
私はここで言う「多くの人」とは信仰者も不信仰者も含め詩人自身も含めた「抽象的多くの人」を意味すると解します。つまり常識的に考えれば、その方が当然の判断であるということを意味する。つまり、神を信じるということは常識を越えた姿勢であるという自覚が重要で、その意味では詩14:1の「神を知らぬ者」とは異なり、神を知っているが故にそう思うということが重要だと思っています。
losungenj 2012.07.04(wed)
主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。(Isa50:7)
あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。(Eph2:13)
私の黙想:
自分の咎のために母親が身売りさせられることは、息子にとって最大の恥である。そのような私を神は助けてくださり、恥を雪ぐことができた。母なるエルサレム(神殿)の喪失と回復の歴史についての預言者による生々しい叙述。日本の歴史家は日本の敗戦と沖縄問題をいかに描くのだろうか。
このテキストの口語訳と新共同訳との違いについての門叶さんの解説を受けて。
文屋善明 今日のローズンゲンが口語訳を採用している理由がよく分かりました。イスラエルの民にとってエルサレムの神殿が破壊されるということは、それこそ「恥」であり、逆に再建するということは「恥を雪ぐ」ことであったのでしょう。他民族から「嘲われる」ことではなく、自分たちが「恥と思う」ということとは別のことでしょう。
門叶 国泰 納得!他人から「嘲られる」ことと、自分で「恥と思う」ことは明らかに別ですね。私が、「何故、この言葉に引っかかったか」が、これで分かりました。「髭はまた生えそろう(Ⅱサム10:5)」、こんなことは「恥でも何でもない」。本当に「恥じなければならないことは」!
追記:
太平洋戦争で日本が負けたことは、無茶をした結果であり、弱かったから負けたのであるが、沖縄が占領されたままになっていることは、日本の恥である。本当の意味で取り返さなければ恥は雪がれない。
「恥を雪ぐ(すすぐ)」雪ぐが「雪」という字なのは面白い。白川靜先生の「常用字解」によると、この「雪(せつ)」は「刷(さつ)」(払う、ぬぐう)、および「拭(しょく)」(ぬぐう)と音が近くて通用し、「すすg、ぬぐう」の意味に用いられたのであろうとされている。雪辱(せつじょく)以前うけた辱めをぬぐい去ること。
losungenj 2012.07.05(thu)
彼には主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。(Isa11:2)
神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2Cor5:19)
私の黙想:
終末にダビデの末裔に現れる「謎の人物」。彼は人間としてパーフェクト。そういう人物が現れて初めてイスラエルの歴史は完結する。ヤハウェは彼を助け、彼によって理想社会を樹立する。そういうことを、あなたは信じますか、そんなことはあり得ないと考えますか。それを信じる者と信じない者とに国論は割れた。前者を「イスラエルの慰められるのを待ち望む者」(ルカ2:25)と呼ぶ。
losungenj 2012.07.06(fri)
あなたを贖う方はイスラエルの聖なる神、全地の神と呼ばれる方。(Isa54:5)
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(1Cor12:3)
私の黙想:
自分たちの「民族神」が「全地の神」であるという信仰は凄い。もし、この信仰が素直に受け継がれ発展していたら(歴史における「もし」は禁句、従って想像はできるだけ控えめでなければならない)、人類史は全く異なった様相を示していたであろう。この種の「もし」は深い反省を促す。日本の戦後史においても。
文屋 善明 問題点がよく分かりました。新共同訳では門叶さんの様な読み方をされることは想定外だったのでしょう。その意味では、日本語の文章としては問題があるが、逐語霊感説を背景にしている新改訳は信頼に値すると思います。
三浦 三千春 あ゛~、書き込みたくてうずうずしてしまいます。
門叶 国泰 三浦さん:どうぞ!!
三浦 三千春 原語が同じ「ケドーシュ」であるのに新共同訳では、第一イザヤの部分は「聖なる方」、第二、第三イザヤと言われる部分は「聖なる神」と訳出しているのは、聖書学の成果として分かった(ことになった)、それぞれの成立時の時代背景から訳し分けようとしたものなのでしょうか? 鍋谷氏の名前が出て懐かしいのです。氏が大きな流れを作ってきた神戸ルーテル神学校(KLTS)で10年前、勉強した思い出は深いのです。小さなエピソードですが、関根清三氏がKLTSの、信徒も対象の公開講座においでになり、第二・第三イザヤに言及し始められるようとする矢先、会場をきょろきょろ見渡して、「言って大丈夫なのかな」というような顔をなさったのが印象に残っています(集まった人々の間では、そういうハナシが出るのは「当然」ということであったのは、それまでのKLTSの路線の積み重ねかと思います)。
鍋谷氏自身は、授業の中では、我々学生を、「煙に巻く」ような感じもなきにしもあらずでしたが、書いていらっしゃることを読むと明確に、旧約の著者問題等についても、ご自分の見解を持ってらっしゃるような感じがします。イザヤ書については、学問として(信仰としてではなく)「イザヤ一人説」を採ってらっしゃるみたいです。一方、他のところが「ここはモーセでないとイケナイ」ということでもないみたいなのが興味深いです。学問として是々非々の姿勢でいらっしゃるように感じます。学問としてちゃんとやって、それで敬虔な(神への畏れを持つ)信仰も(が)成り立つ、という信念は、私も共感する次第です。
世界的な神学の中心地から物理的に遠く、日本の中でも東京から遠い場所で、しかし、世界の動勢に対してアンテナを張りながら神学・思索をすることが、このようなスタンスにつながっているように思えて、心強く感じた次第です。
とてもとても本題から横道に逸れ、シツレイ致しました。
文屋 善明 一寸失礼します。同じ単語(名詞)を時代背景が異なり、従って意味内容が異なるので、異なる訳語を当てはめるというのは、どうだろうか。たとえば、福音書でイエスが「人の子」という言葉を用いられている時、この「人の子」はイエス自身を意味するから「わたし」と訳し、別な時にはこれはダニエルの預言が背景にあるから「人の子」と訳してもいいのだろうか。それは解釈の問題であって翻訳の問題ではないだろうと私は思いますが、いかがでしょうか。
門叶 国泰 三浦さん:良く調べて見ないと分かりませんが(と言っても、調べる能力はないでしょうが)、時代背景で訳し変えたとは、一寸考えられない(ような気がします)。例えば、新共同訳が「聖なる神」と訳したイザヤ60:9,14は、フランシスコ会訳は「聖なる方」、RSVは「the Holy One of Israel」と、マソラ通りに訳しています。新共同訳は「偉い方々」ばかりが集まったので!
三浦 三千春 >訳した人が違い、かつ、統一が取れなかった と冒頭部に書いてらっしゃるような事情だと推測してらっしゃるのでしょうか? リサーチするとしたら(^^)、新共同訳の翻訳委員であった方々にインタビューして訊いてしまうのが早いかも知れないと言う気がします(する必要があるかは別として)
門叶 国泰 三浦さん:この種の質問は、聖書教会に殺到しています。私の仲間も何度か纏めて質問しています。翻訳委員は高名でもあり、既に亡くなられたこともあって、具体的に言葉にすることは皆さん遠慮しておられます。
文屋 善明 その必要はないでしょう。原則的には「公の聖書翻訳」は「匿名」が原則だと思っています。その意味では私も結構保守的ですね。もちろん、個人訳は別です。
門叶 国泰 新しい翻訳が間もなく出るでしょう(私がそれまで生きているかどうか、は別として)、楽しみに待っています。
三浦 三千春 某N氏が、詩篇のどのあたりであったか、「〇〇さんは人の意見に耳を傾けない人で~」と、ちらっとこぼしておられたことがありました(^^)。
三浦 三千春 日本聖書協会と、新改訳の方と、2つ別個にプロジェクトが進んでるみたいですね。ちなみに、KLTSのチャペルにずっと置いてあるのは「口語訳」です。私自身の信仰としては、和訳の段階でも、また私がこの日、この訳で、この箇所を読むことも、全て神の導き(聖霊の干渉?)のなかにあり、自分にとって、また会衆にとって必要な「みことば」は与えられると素朴に信じています。
三浦 三千春 >この種の質問 聖書を良く読んでいる人でないと、質問自体が出てこない質問ですね。口語訳の時代にも、いろいろ具体的な訳文に対する疑問や、問題提起があったと伺っております。それを踏まえて新しい翻訳がなされることは、キリスト教というものの性質にきわめて相応しいような気が致します。
門叶 国泰 私は信仰心も疑問だらけ、聖書学には全く無知な一介の信徒です。ただ単にヘブル語で読んで、文法的な分析をし、そして、LXX・英訳・英訳・日本語訳を十数冊読み比べ、直訳と意訳を楽しんでいるだけです。(ドイツ語は学生時代のままで進歩なし、ラテン語は85歳から始める予定です)これはこれで結構楽しめます。
三浦 三千春 神を畏れ、愛し、聖書を愛し、私のような若輩者に対しても、分け隔てなく「真理を分かち合おう」という姿勢を示して下さっているお二人こそ、真の聖書の学者の姿だと感じ入っております。本当に、対話して頂いて感謝致しております。悩み、疑問、回り道の多い自分自身の歩みも、真摯に求める姿勢があり続けるのなら、「それでいいじゃないか」と、大事なヒントを頂いたような感じで有り難いのです。
門叶 国泰 恐縮して、隠れる穴を探しています。探すまでもないか、狐には用意されていました。
losungenj 2012.07.07(sat)
なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ、天を広げ、地の基を据えられた主を忘れたのか。(Isa51:13)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(1Pet1:23)
私の黙想:
この「なぜ」という言葉は強烈である。この「なぜ」によって、本文全体が「あなた」への問いかけになる。問われた者は考え、答えなければならない。この「なぜ」は「あなた」を追い詰める。ここでの語り手は「あなたたちを慰めるもの」であって追い詰める者ではない。神は人間を追い詰めない。
文屋 善明 新共同訳の翻訳者は、ここで語っている語り手が「わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」と宣言していることを忘れている。それこそ、「あなたはなぜ、それを忘れたのか」と追求したい。つまり、「なぜ」と問うことの文脈上の意味が理解出来ていない。日本語能力と人間関係についての理解に疑問がある。
門叶 国泰 昨日のイザヤ54:5と今日のイザヤ51:13の訳者は同一でしょう。かなり、個性豊かで、妥協を一切なさらず自己主張をなさったようです。考えるヒントを多く与えてくださったことに感謝!(決して皮肉ではありません、念のため)
文屋 善明 門叶さんは、本物のクリスチャンですね。(決して皮肉ではありません。心から尊敬の念で)
門叶 国泰 自他共に認める「似非」の段階です。しかし、「こんな形でも神様は用いて、そして、少しずつでも本物に導いて下さっている」と信じているのですから、この「信仰」は何とも有難い賜物です。
門叶 国泰 明日の懇話会用にデニッシュの調達に出かけます。吉祥寺の店は10時開店。その前に着かないと駐車場が一杯になってしまいます。12時過ぎに帰宅、それから下拵え、来週は求道者会と教会学校の説教を抱えている、サー気合を入れて!
安永 玲子 雨の一日になりそうですが、ご奉仕に感謝です!
あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。(Isa47:13、口語訳)
おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。(1Cor7:17)
私の黙想:
連呼する「再稼働反対」の中での黙想。今、日本国民は「多くの計りごとによってうみ疲れて」ている。今日の聖句は、現在権勢を誇っている者に対する「突然襲う没落」の預言である。あなたたちは色々と策略を試み支配を維持しようとするが、それももうそこまでだ。
losungenj 2012.07.02(mon)
あなたは訴訟において、偽りの発言を避けねばならない。(Ex23:6,7)
悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。(1Pet2:1-2)
私の黙想:
「乏しい人の判決を曲げてはならない」という言葉を省略すると、裁判における建前を述べているに過ぎない。何故、偽証ということが起こるのか。何故歪んだ判決が出るのか。それは全て裁判に関わる人間の心の問題である。この句は、そのことを問題にしている。建前を掲げることによって社会的弱者は追い詰められる。裁判において重要なことは建前の正義ではなく、人間の心の回復である。生活保護という弱者救済のルールが建前論によって無意味化されよとしている。
losungenj 2012.07.03(tue)
恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。(Ps4:7)
キリストの言葉:わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(Joh8:12)
私の黙想:
絶対的な神が人間を、しかも具体的に一つの民族を、さらにいうと一人の人間に対して「恵みを示す」ということは、想像を絶することである。あまりにも立場(存在)が隔絶しすぎている。人間に比していうならば、人間がバクテリアに対するようなものである。そんなことはあり得ない。あり得ないと考える方が常識的である。だから詩人は言う。それらの常識を打ち破るために「わたしたちに御顔の光を向けてください」と。
私はここで言う「多くの人」とは信仰者も不信仰者も含め詩人自身も含めた「抽象的多くの人」を意味すると解します。つまり常識的に考えれば、その方が当然の判断であるということを意味する。つまり、神を信じるということは常識を越えた姿勢であるという自覚が重要で、その意味では詩14:1の「神を知らぬ者」とは異なり、神を知っているが故にそう思うということが重要だと思っています。
losungenj 2012.07.04(wed)
主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。(Isa50:7)
あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。(Eph2:13)
私の黙想:
自分の咎のために母親が身売りさせられることは、息子にとって最大の恥である。そのような私を神は助けてくださり、恥を雪ぐことができた。母なるエルサレム(神殿)の喪失と回復の歴史についての預言者による生々しい叙述。日本の歴史家は日本の敗戦と沖縄問題をいかに描くのだろうか。
このテキストの口語訳と新共同訳との違いについての門叶さんの解説を受けて。
文屋善明 今日のローズンゲンが口語訳を採用している理由がよく分かりました。イスラエルの民にとってエルサレムの神殿が破壊されるということは、それこそ「恥」であり、逆に再建するということは「恥を雪ぐ」ことであったのでしょう。他民族から「嘲われる」ことではなく、自分たちが「恥と思う」ということとは別のことでしょう。
門叶 国泰 納得!他人から「嘲られる」ことと、自分で「恥と思う」ことは明らかに別ですね。私が、「何故、この言葉に引っかかったか」が、これで分かりました。「髭はまた生えそろう(Ⅱサム10:5)」、こんなことは「恥でも何でもない」。本当に「恥じなければならないことは」!
追記:
太平洋戦争で日本が負けたことは、無茶をした結果であり、弱かったから負けたのであるが、沖縄が占領されたままになっていることは、日本の恥である。本当の意味で取り返さなければ恥は雪がれない。
「恥を雪ぐ(すすぐ)」雪ぐが「雪」という字なのは面白い。白川靜先生の「常用字解」によると、この「雪(せつ)」は「刷(さつ)」(払う、ぬぐう)、および「拭(しょく)」(ぬぐう)と音が近くて通用し、「すすg、ぬぐう」の意味に用いられたのであろうとされている。雪辱(せつじょく)以前うけた辱めをぬぐい去ること。
losungenj 2012.07.05(thu)
彼には主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。(Isa11:2)
神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2Cor5:19)
私の黙想:
終末にダビデの末裔に現れる「謎の人物」。彼は人間としてパーフェクト。そういう人物が現れて初めてイスラエルの歴史は完結する。ヤハウェは彼を助け、彼によって理想社会を樹立する。そういうことを、あなたは信じますか、そんなことはあり得ないと考えますか。それを信じる者と信じない者とに国論は割れた。前者を「イスラエルの慰められるのを待ち望む者」(ルカ2:25)と呼ぶ。
losungenj 2012.07.06(fri)
あなたを贖う方はイスラエルの聖なる神、全地の神と呼ばれる方。(Isa54:5)
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(1Cor12:3)
私の黙想:
自分たちの「民族神」が「全地の神」であるという信仰は凄い。もし、この信仰が素直に受け継がれ発展していたら(歴史における「もし」は禁句、従って想像はできるだけ控えめでなければならない)、人類史は全く異なった様相を示していたであろう。この種の「もし」は深い反省を促す。日本の戦後史においても。
文屋 善明 問題点がよく分かりました。新共同訳では門叶さんの様な読み方をされることは想定外だったのでしょう。その意味では、日本語の文章としては問題があるが、逐語霊感説を背景にしている新改訳は信頼に値すると思います。
三浦 三千春 あ゛~、書き込みたくてうずうずしてしまいます。
門叶 国泰 三浦さん:どうぞ!!
三浦 三千春 原語が同じ「ケドーシュ」であるのに新共同訳では、第一イザヤの部分は「聖なる方」、第二、第三イザヤと言われる部分は「聖なる神」と訳出しているのは、聖書学の成果として分かった(ことになった)、それぞれの成立時の時代背景から訳し分けようとしたものなのでしょうか? 鍋谷氏の名前が出て懐かしいのです。氏が大きな流れを作ってきた神戸ルーテル神学校(KLTS)で10年前、勉強した思い出は深いのです。小さなエピソードですが、関根清三氏がKLTSの、信徒も対象の公開講座においでになり、第二・第三イザヤに言及し始められるようとする矢先、会場をきょろきょろ見渡して、「言って大丈夫なのかな」というような顔をなさったのが印象に残っています(集まった人々の間では、そういうハナシが出るのは「当然」ということであったのは、それまでのKLTSの路線の積み重ねかと思います)。
鍋谷氏自身は、授業の中では、我々学生を、「煙に巻く」ような感じもなきにしもあらずでしたが、書いていらっしゃることを読むと明確に、旧約の著者問題等についても、ご自分の見解を持ってらっしゃるような感じがします。イザヤ書については、学問として(信仰としてではなく)「イザヤ一人説」を採ってらっしゃるみたいです。一方、他のところが「ここはモーセでないとイケナイ」ということでもないみたいなのが興味深いです。学問として是々非々の姿勢でいらっしゃるように感じます。学問としてちゃんとやって、それで敬虔な(神への畏れを持つ)信仰も(が)成り立つ、という信念は、私も共感する次第です。
世界的な神学の中心地から物理的に遠く、日本の中でも東京から遠い場所で、しかし、世界の動勢に対してアンテナを張りながら神学・思索をすることが、このようなスタンスにつながっているように思えて、心強く感じた次第です。
とてもとても本題から横道に逸れ、シツレイ致しました。
文屋 善明 一寸失礼します。同じ単語(名詞)を時代背景が異なり、従って意味内容が異なるので、異なる訳語を当てはめるというのは、どうだろうか。たとえば、福音書でイエスが「人の子」という言葉を用いられている時、この「人の子」はイエス自身を意味するから「わたし」と訳し、別な時にはこれはダニエルの預言が背景にあるから「人の子」と訳してもいいのだろうか。それは解釈の問題であって翻訳の問題ではないだろうと私は思いますが、いかがでしょうか。
門叶 国泰 三浦さん:良く調べて見ないと分かりませんが(と言っても、調べる能力はないでしょうが)、時代背景で訳し変えたとは、一寸考えられない(ような気がします)。例えば、新共同訳が「聖なる神」と訳したイザヤ60:9,14は、フランシスコ会訳は「聖なる方」、RSVは「the Holy One of Israel」と、マソラ通りに訳しています。新共同訳は「偉い方々」ばかりが集まったので!
三浦 三千春 >訳した人が違い、かつ、統一が取れなかった と冒頭部に書いてらっしゃるような事情だと推測してらっしゃるのでしょうか? リサーチするとしたら(^^)、新共同訳の翻訳委員であった方々にインタビューして訊いてしまうのが早いかも知れないと言う気がします(する必要があるかは別として)
門叶 国泰 三浦さん:この種の質問は、聖書教会に殺到しています。私の仲間も何度か纏めて質問しています。翻訳委員は高名でもあり、既に亡くなられたこともあって、具体的に言葉にすることは皆さん遠慮しておられます。
文屋 善明 その必要はないでしょう。原則的には「公の聖書翻訳」は「匿名」が原則だと思っています。その意味では私も結構保守的ですね。もちろん、個人訳は別です。
門叶 国泰 新しい翻訳が間もなく出るでしょう(私がそれまで生きているかどうか、は別として)、楽しみに待っています。
三浦 三千春 某N氏が、詩篇のどのあたりであったか、「〇〇さんは人の意見に耳を傾けない人で~」と、ちらっとこぼしておられたことがありました(^^)。
三浦 三千春 日本聖書協会と、新改訳の方と、2つ別個にプロジェクトが進んでるみたいですね。ちなみに、KLTSのチャペルにずっと置いてあるのは「口語訳」です。私自身の信仰としては、和訳の段階でも、また私がこの日、この訳で、この箇所を読むことも、全て神の導き(聖霊の干渉?)のなかにあり、自分にとって、また会衆にとって必要な「みことば」は与えられると素朴に信じています。
三浦 三千春 >この種の質問 聖書を良く読んでいる人でないと、質問自体が出てこない質問ですね。口語訳の時代にも、いろいろ具体的な訳文に対する疑問や、問題提起があったと伺っております。それを踏まえて新しい翻訳がなされることは、キリスト教というものの性質にきわめて相応しいような気が致します。
門叶 国泰 私は信仰心も疑問だらけ、聖書学には全く無知な一介の信徒です。ただ単にヘブル語で読んで、文法的な分析をし、そして、LXX・英訳・英訳・日本語訳を十数冊読み比べ、直訳と意訳を楽しんでいるだけです。(ドイツ語は学生時代のままで進歩なし、ラテン語は85歳から始める予定です)これはこれで結構楽しめます。
三浦 三千春 神を畏れ、愛し、聖書を愛し、私のような若輩者に対しても、分け隔てなく「真理を分かち合おう」という姿勢を示して下さっているお二人こそ、真の聖書の学者の姿だと感じ入っております。本当に、対話して頂いて感謝致しております。悩み、疑問、回り道の多い自分自身の歩みも、真摯に求める姿勢があり続けるのなら、「それでいいじゃないか」と、大事なヒントを頂いたような感じで有り難いのです。
門叶 国泰 恐縮して、隠れる穴を探しています。探すまでもないか、狐には用意されていました。
losungenj 2012.07.07(sat)
なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ、天を広げ、地の基を据えられた主を忘れたのか。(Isa51:13)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(1Pet1:23)
私の黙想:
この「なぜ」という言葉は強烈である。この「なぜ」によって、本文全体が「あなた」への問いかけになる。問われた者は考え、答えなければならない。この「なぜ」は「あなた」を追い詰める。ここでの語り手は「あなたたちを慰めるもの」であって追い詰める者ではない。神は人間を追い詰めない。
文屋 善明 新共同訳の翻訳者は、ここで語っている語り手が「わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」と宣言していることを忘れている。それこそ、「あなたはなぜ、それを忘れたのか」と追求したい。つまり、「なぜ」と問うことの文脈上の意味が理解出来ていない。日本語能力と人間関係についての理解に疑問がある。
門叶 国泰 昨日のイザヤ54:5と今日のイザヤ51:13の訳者は同一でしょう。かなり、個性豊かで、妥協を一切なさらず自己主張をなさったようです。考えるヒントを多く与えてくださったことに感謝!(決して皮肉ではありません、念のため)
文屋 善明 門叶さんは、本物のクリスチャンですね。(決して皮肉ではありません。心から尊敬の念で)
門叶 国泰 自他共に認める「似非」の段階です。しかし、「こんな形でも神様は用いて、そして、少しずつでも本物に導いて下さっている」と信じているのですから、この「信仰」は何とも有難い賜物です。
門叶 国泰 明日の懇話会用にデニッシュの調達に出かけます。吉祥寺の店は10時開店。その前に着かないと駐車場が一杯になってしまいます。12時過ぎに帰宅、それから下拵え、来週は求道者会と教会学校の説教を抱えている、サー気合を入れて!
安永 玲子 雨の一日になりそうですが、ご奉仕に感謝です!