ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ローズンゲンについて

2012-07-11 10:20:57 | ローズンゲン
1.ローズンゲンとは
「ローズンゲン(日々の聖句)」はドイツのヘルンフート兄弟団が1728年から発行している聖書日課です。旧約聖書の中から、短い聖句を選び出し、断片化し、混ぜ合わせ、そこから籤(くじ)で、一日一句の聖句を選び出します。その聖句は「人間の思いを超える神意として、わたしたちに与えられるものです。その上で、その聖句に見合う新約聖書の言葉を、今度は聖書の専門家たちが協議して選び出して付け加えます。従ってあくまでも籤によって選び出された旧約聖書の言葉が中心です。なぜ旧約聖書なのか何の説明もありませんが、わたしは旧約聖書だからとても良いと思っています。新約聖書の言葉はそれを補うものですが、決して解説や説明を加えていません。なぜ、そんな言葉が選ばれたのかということも黙想のヒントになります。考え、理解し、納得するのはあくまでも日毎にそれを読む者の課題です。この方法は1728年以来、280年以上変わっていません。現在ドイツ語圏では毎年100万部以上が発行され、ドイツ語以外では43の言語に翻訳されていると言われています。おそらく全世界では200万人の愛読者がいると推測されています。
ドイツ語の「ローズンゲン」という言葉は「合言葉」という意味です。これを日毎に読むことによって一つの共同体に属していることを確認するという意味もあるのかもしれません。

2.ヘルンフート兄弟団とは
これを発行しているヘルンフート兄弟団は、ドイツ敬虔主義の伝統を受け継ぐプロテスタントの共同体で、1727年にニコラオス・L・ツィンツェンドルフ伯(Zinzendorf 1700-1760)によって設立されました。伯爵が設立したというよりも、宗教改革と反宗教改革のうねりの中で、祖国を追われたモラヴィア(ドイツ語ではメーレン、現チェコの中部)から国境を越えてドイツのザクセン地方へと逃れてきたプロテスタントの人々に、伯爵が領土の中で保護し、住む場所と働き場所を提供したのが始まりです。「ヘルンフート"Herrnhut"」という言葉は「主の守り」を意味いたします。もちろん、この場合のヘルン(主人)とは伯爵ではなく「主イエス・キリスト」です。日本語では「同胞教会」と訳され場合もあります。この団体はメソジスト教会の創立者ウェスレーにも大きな影響を与えました。
日本語のローズンゲン2010年版の「あとがき」によりますと、ドイツ語版では新約聖書の後に、祈りや瞑想のために役立つ賛美歌の一節やいろいろな人の祈りなどが第3のテキストとして続いているとのことですが、日本語版ではそれは省略されている。わたしは省略されて正解だと思っています。

3.ローズンゲンとツイッター
わたしがツイッターを始めて思ったことは、ローズンゲンというデヴォーションはツイッターというメディアと相性がいいということで、わたし自身のモーニングセットの中にローズンゲンを組み込むことにいたしました。ローズンゲンを読み、ただ1人思ったことを呟くだけではなく、その呟きを他の人たちとも分かち合い、また他の人たちの呟きも聞きたいと思います。ローズンゲンはどんな読み方をしてもOKです。読まない日があってもかまいません。もともと籤で選ばれた言葉です。一日の分は一日で終わりです。ある意味では聖書の断片的な読み方です。基本的には文脈とか背景からも独立しています。続いているのは、読む人の生活だけです。
できるだけ毎日掲載しますが、時には欠けるときもありますがお許しください。また、聖句の長さによっては、新約聖書の言葉はただその箇所だけにする場合もあります。

4.ローズンゲン論
ローズンゲンについての日本語の文献としては、宮田光雄先生の『御言葉はわたしの道の光――ローズンゲン物語』(新教出版社)がありますが、現在のところ版元切れになっており古本屋を探すしかありません。宮田先生は政治思想史の専門で、とくにドイツにおける政治思想について『西ドイツの精神構造』で学士院賞を受けられた方です。先生がキリスト教に始めて接せられたのは旧制第三高校1年生の時で、その翌年1946年12月に「郷里の小さな伝道所」で洗礼を受けられたとのこと。三高を卒業し東大法学部に進み、南原繁先生と出会い、「国家と宗教」を専攻することとなります。先生が著された著作としては『権威と服従――近代日本におけるローマ書十三章』という名著があります。先生がローズンゲンと出会ったのは1960年代の初め頃ドイツに留学されたときのことで、「それ以後40年近く、毎日、それを用いている」(85頁)とのことです。
宮田先生はこの著書の中で「『日々の聖句(ローズンゲン)』の精神史」と題して、ローズンゲンが生まれた事情、聖句の選び方、読まれてきた歴史、現代の証言、正しく読むためのサジェスチョンを分かりやすく書いておられます。
この書が現在絶版ということなので少し詳しくご紹介したいと思います。

5.現在、どのようにしてローズンゲンは作られているのでしょうか。
現在ローズンゲンはどのようにして作られているのかということについて、宮田先生は次のように述べておられます。私は、ヘルンフート兄弟団を訪ねたとき、本部管理棟に案内され、その特別の会議室で行なわれる慣行について説明してもらいました。ローズンゲンのため集成された膨大な数の旧約聖書の聖句カードが、たくさんのボックスに収納されていました。これらの聖句集成は、折にふれて再検討されるとのことでした。兄弟団指導部のメンバー、ヘルンフートの教会牧師、さらにローズンゲン作成担当者などによる特別の会合がもたれ、祈りののちに、来たるべき三年後の日毎のローズンゲンが、順次、ボックスから引き出されて確定されるのです。世界の各地でなされる多くの翻訳に備えるためにも、すでにそんなに早い時点でローズンゲンの編集作業がなされねばならないのです。
この会議の議事録は慎重に記録にとどめられ、引き出されたローズンゲンの聖句は一つ一つその本文が読み上げられます。旧約聖書から引き出されたローズンゲンの聖句にたいして新約聖書からの《教えのテキスト》がつけ加えられます。その選定には、ヘルンフート兄弟団の指導部から特別に選ばれた兄弟団のメンバーが当たります。その衝に当たる責任者によれば、第一に、ローズンゲンと「教えのテキスト」は、その日の合言葉になるように考慮されなければなりません。そのためには、いずれも余り長すぎてはならないでしょう。第二に、「教えのテキスト」はローズンゲンの聖句に並べられて、その新約聖書的解釈となるものでなければならないでしょう。この関連づけは平行法や対照法、さらに継続法といった仕方で展開されています。>(28頁)

6.ローズンゲンの愛用者――カール・バルト――
宮田光雄先生の『御言葉はわたしの道の光――ローズンゲン物語』(新教出版社)の中で紹介されているローズンゲンの愛用者の筆頭はカール・バルト先生です。世に言う「バルト神学」のバルトです。バルト神学は、好き嫌いは別として20世紀を代表する神学であることには異論がないことでしょう。バルト神学の登場により、それ以前とそれ以後の神学はすっかり様変わりをしました。とくに、日本ではやっとキリスト教神学というものに目覚め始めた頃に紹介されたため、一時は神学と言えばバルト神学を意味するほどで、バルトにあらずんば神学に非ずという勢いでした。
宮田先生はカール・バルトについて、ローズンゲンとの関わりを、次にように紹介しておられます。
<ヒトラー支配下のドイツでナチの宗教政策に反対する教会闘争がくり拡げられたことは、よく知られています。そのリーダーとなったバルトは、ナチ当局からすれば全体主義的な国家統制を妨げる「敵」として最大の標的とされました。
1934年の夏のころ、ドイツの国防軍の全将兵から官吏全員まで、総統ヒトラーにたいする無条件の服従を宣誓するように求められます。しかし、ボン大学教授だったバルトは、キリスト者として、何らの留保条件なしにその命令に応ずることはできませんでした。そのため彼は、ボン大学から職務停止を命じられ、さらに懲戒裁判に付されます。予審の過程では、この宣誓問題ばかりでなく、バルトが授業をする際に教室で「ドイツ式敬礼」、右手を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶナチ式の儀礼を行なっていないという事実も問題とされていることがわかりました。これにたいするバルトの抗弁の中にローズンゲンが登場してくるのです。当時、彼は、すでに2年前から、いつも短い礼拝で講義を始めるようにしていたのでした。それは、ローズンゲンの朗読と讃美歌の一節の斉唱からなるものでした。バルトのローズンゲンとの関わりは、彼が若い日にシュヴァーベンの敬度主義者ブルームバルト父子から大きな影響を受けていたことを考えれば、不思議ではないでしょう。ともかくバルトは、神学の講義で行なわれていることは一種の礼拝であり、その場合、「ドイツ式敬礼」はふさわしくない、と主張したのでした。
このときの裁判では、バルトは奇跡的に勝訴することができました。しかし、その結果如何にかかわらず、ナチ当局は、しゃにむにバルトを免職して、やがてスイスへ出国するように追い込むのです。そこで明らかになったのは、もはや宣誓その他は問題ではなく、まさに告白教会の指導者バルトをドイツから追放することこそが意図されていたという事実でした。いずれにしても、ナチ権力との闘いの中で、バルトにとってローズンゲンが一つの役割を果たしたというのは、まことに興味深いところです(K・クーピッシュ 『カール・バルト』新教出版社)。>
宮田先生は、聖書の主題を「恵みによる解放のメッセージ」として受け取ることをカール・バルトから学んだと言っておられます。これはその後のいわゆる「バルティアン」と言われている人からはあまり耳にしないことですが、晩年のバルトは神の「大いなる肯定」と「神の人間性」ということを強調した、と宮田先生は述べておられます。「生ける神は、この世のため、また人間のための神でありつつ神なのである」。実に含蓄に富んだ言葉です。また、こんな言葉も紹介されています。
「人間は夕べにいたるまで労働や耕作にたずさわることを許されている。それには、むろん、人間がその五官や悟性を用い、2掛ける2は4という計算をすることも入っている。それだけでなく、詩をつくり思索すること、音楽を楽しみ飲み食いすること、喜んだり、またしばしば悲しんだり,愛したり、ときには憎んだり、若かったり年老いたりすることも。・・・・・こうした人間を妬むのは誤った神々のであろう。人間にとって無条件の主である真の神は、神が人間を創造した目的にふさわしくあることを人間に対して許されるのである」。
こういう言葉と発想はローズンゲンから生まれてくるに思います。わたしは基本的にはバルト神学の立場には立っていませんが、こういうことを語るバルト先生は大好きです。毎朝、ローズンゲンを読みながら、バルト先生もこうして読み、考え、言葉をつづり、祈っておられたのかなぁ、と想像しています。

7.ローズンゲンの愛用者――ボンヘッファー――
宮田光雄先生の『御言葉はわたしの道の光――ローズンゲン物語』(新教出版社)で紹介されている第2の神学者は先に紹介したバルト先生よりも約20歳若いディートリヒ・ボンヘッファー牧師です。彼もバルト先生と並んで告白教会の中でもっとも明確なヒトラー反対の立場に立っていました。彼について最も有名なことは、ヒットラー暗殺計画に加わり、ナチスによって逮捕され投獄されたということでしょう。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐナチスにより、フロッセンビュルクの収容所で刑死いたしました。
ディートリヒ・ボンへッファーもローズンゲンの愛用者でした。彼にとってはローズンゲンは単にデヴォーションの助けというよりも文字通り「道の光」でした。宮田先生は彼とローズンゲンとの関係について、こんなことを紹介しています。

<第2次大戦の始まる直前、1939年初夏の頃、(ナチスから追われる彼に対して)、アメリカの友人たちの好意で一度は亡命のチャンスをあたえられて渡米します。しかし、ふたたび決意してドイツに帰国し、ナチ政権をくつがえすため、抵抗運動に加わる道を選ぶのです。帰国への決意をするにあたって、彼は、アメリカ滞在中にローズンゲンと対話をくり返しています。彼がローズンゲンを知るようになったのは、すでに幼い日に、敬虔主義的だった彼の母あるいはお手伝いの女性から受けた影響によるものと思われます。アメリカにとどまるべきか、それとも帰国すべきかという厳しいディレンマの中で、日毎のローズンゲンは、彼に励ましと導きとをあたえるものでした。6月26日に、彼は、その日のローズンゲンの中に 「冬になる前に急いできてほしい」(2テモテ4:21) という言葉を発見しています。「この言葉が一日中、私の頭にこびりついて離れなかった。それは、戦場から休暇で帰ってきた兵士が、自分を待っていたすべてのものをふり棄てて、また戦場に引き戻されるときのようなものだ。……『冬になる前に急いできてほしい』……これをもし私が自分に言われたことだととらえても、それは聖書の乱用ではない」。2日前の日記にも、ローズンゲンの聖句「信ずる者は逃れることはない」(イザヤ28:16)をかかげ、「私は家郷での仕事のことを思う」と記しています。こうして帰国の決意を固めるとともに、彼は良心的葛藤から解放され、晴れやかな気持ちで、ただちにドイツに引き返すのです。それは殉教の死に通じていました(宮田光雄『ボンへッファーを読む』岩波書店)。>
宮田先生はボンヘッファーの研究者でもあり、この本でも獄中からの書簡でローズンゲンに関わる記録を残しておられます。

※ この文章はフェイスブックのノートに掲載した文章と同じです。


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