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ぶんやさんの記録

『世界史的立場と日本』(中央公論社)メモ1

2015-08-19 14:38:17 | 雑文
高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高による座談会の記録『世界史的立場と日本」(中央公論社)

この4人で行われた3回の座談会が、太平洋戦争のスローガンとなった「大東亜共栄圏」の思想的バックボーンであった。第1回の座談会は昭和16年11月26日の夜に行われた。この13日後、12月8日、「大東亜戦争の大紹渙發」、つまり宣戦布告がなされた。この座談会は中央公論誌の昭和17年1月号に「世界史的立場と日本」というタイトルで発表された。これが大変な評判となった。勢いのある初戦の状況のなか、同年3月4日に「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」という主題で、同じメンバーによって開催され中央公論の4月の発表された。その後、少し間をおいて戦局は芳しくない状況において昭和17年11月24日、「総力戦の哲学」というタイトルで行われ、昭和18年1月号の発表された。当初、これが一冊の本として出版される予定はなかったが、世論の強い要望によって纏められたのが、この本である。初版は昭和18年3月25日である。この4人が西田幾多郎、田邊元に始まる京都学派の第2世代である。


第1回座談会 「世界史的立場と日本」 昭和16年11月26日

座談会は次のような発言で始まった。(以下、現代仮名遣いに改めている)
<註:これはあくまでの私の個人的なメモなので、全体を網羅していません。>

高坂正顕
先日、ある人に日本の歴史哲学とは一体どんなものかと訊ねられ、ちょっと返事に困ったのだが、考へてみると大体三つくらいの段階を経てきたように思われた。一番初めはリッケルト張りの歴史の認識論が盛んであった時代で、今ではもう一昔前のことになってしまった。その次がディルタイ流の生の哲学とか解釈学とかいったものから歴史哲学を考ヘようとした時代で、それが大体第二の段階と言ってよい。ところが今ではそれから更に一歩先に進んで、歴史哲学というものは具体的には世界歴史の哲学でなければならない、そういう自覚に到達している、それが第三の段階だと思う。では何故そうなったか。それは日本の世界歴史に於ける現在の位置がさうさせたのだと僕は考ヘる。その際、無論ヘーゲルやランケとかいう人の思想から多くを教えられた、けれども結局日本はどうなるか、今、できつつある新しい世界に対して、日本はどういう意味を持たせられているか、どういう意味を実現しなければならないか、即ち世界歴史の上における日本の使命は何かという点になると、西洋のどのやような思想家からも、無論教へられるわけにはいかない。そのためには日本人が日本人の頭で考えなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されてゐる所以だと思う。(4頁)


世界史の哲学と世界史学

鈴木
さうだと思うが、世界史の哲学というものと世界史学とはどこか違ったところが・・・・

高坂
ありますね、それが問題だ。

鈴木
世界史学というものは事実、確かに要求されている。世界史の哲学が要求せられているのとは別個に、歴史学そのものの内部から要求されているところがあると思う。例えば太平洋問題というものは、現在に於ては世界の政治の中心問題だが、ところでなぜそれが重要かというと、ただ時局的に緊迫した、時局的な重要さだけではなくて、非常に歴史性をもっている。そこにあると思う。ところがそういうところを本当に掴むのに従来の西洋史学にはちっとも用意がない、それは知識の多い少いという問題でない、立揚の問題だと思ふう。西洋史学の従来の立場ではどこか十分に掴めないところがある、しかし国史学も東洋史学もやはりそうなんで、そういふ点で世界史学の立揚というものがやはり要求されないと、このやうな問題は本当に掴めないのではないか、そういうことを痛感します。(10頁)


ヨーロッパ人の危機意識と日本人の世界史意識

西谷
ヨーロッパ人にとってはアジアの問題というものは、自分の身に迫ってくる痛切な問題ではなかった。我々にとってヨーロッパの問題が痛切であったというやうな意味でね。そこに違いがある。ヨーロッパにはアジアも自分のアクティヴィティ(活動)にとっての素材という風にしか観られていなかったのに、我々にとってはヨーロッパの能動性に対して能動的に対処することが問題だった。それはつまり「私」と「汝」という関係で、それに比べるとヨーロッパは「私」一方の立場だと言える。だからヨーロッパでは危機意識で、日本では世界新秩序ということになる。(12頁)


歴史主義の問題

高山
結局、歴史的のものと超歴史的のものとを別々の世界に考へない。だから明瞭に対立させたり対決させたりすることもない。だからまた歴史を価値相対性の意識で深めていくということも少い。いつでも超歴史的なもの、永遠とか不死とかいうものを歴史的なものに即してのみ考ヘる。だから歴史主義の危機というような意味の歴史意識は一般に東亜文化になかったのではないかな。

西谷
歴史主義というものが日本にしっかり入らないうちに今のような情勢になったということが、果して日本のためによかったかどうか疑問だね。歴史主義の克服ということも、歴史主義を通しての歴史主義の克服だといいと思うのだが。

高山
それは良い議論だね。今日は実に非歴史的な物の考え方が横行しているが、これはいけないんで、もっともっと歴史意識を徹底していく必要があると思うね。例えばリベラリズムは国体に合はないとか、個人主義は日本精紳と反するとかいうことがよく言はれる。こういう人の考えをよく聞いてみると全く非歴史的な考え方をしている。自由主義や個人主義がどういう社会や歴史の現実から出て、どういう歴史的な役割を果して、なぜ今日こんな思想ではいけなくなったかということは少しも考えない。明治の功臣も皆国賊か逆賊になるようなことを言う。だから少しも建設的な面が出てこない。こういう具合に歴史から抽象された個人主義とか自由主義とかを考えるものだから、全く現実離れの観念論になってしまう。そして近代風の個人主義や自由主義を排斥すると一緒に、およそ個人の自発性・自主性というものまで悪いものとして排斥してしまう。これは非常な間違いで、これでは人間の責任感というものがなくなってしまう。強い責任感というものは個人の本当の自発性、自主性というものがあって出るものだ。個人がただ命令伝達の器官で機械の部分品のようなものなら、全体に対する責任の観念というものはなくなる。この責任感、2600年の歴史をもつ日本に対する現代人の責任、国家の全体に対する責任、こういう強い責任観念が欠けているのが、最近の日本の病弊なのではなかったのか。(46頁)



世界史とモラル

高山
ポテンツ(歴史の構成力)の問題だが、フランス敗れたりといわれる場合に、フランス敗戦の根本原因となったものは何か。ランケの言葉でいえば、つまりモラリッシェ・エネルギー、道義的生命力の欠乏にあったと思う。政治と文化との間に隙や対立ができてきて、文化と政治がバラバラに分離した。文化も政治も共に健康な生命力を失った。即ち道義的な生命力を失ってしまった。それがフランスの敗戦の根本原因だと思う。我々の望むものは過去的なパリの文化などではない。華のパリを灰燼にしても祖国フランスを守るという道義的エネルギーの中から新しく作られて行くフランス文化だったんだ。何も今日に限らず、いつでも世界史を動かしていくものは道義的な生命力だ。こういう力が転換期の政治的原理になりはしないかと思う。モラリッシェ・エネルギー、健康な道義感、新鮮な生命力こういったものを、もっともっと日本の青年達はもって欲しいように思う。


高坂
健康な生活威情が必要だ。古い考え方かも知れないが、現実に歴史を動かしているのは単なる経済とか学問とかいうものだけではなく、もっとズブイェクティーフな、主体的なもの、具体的には民族の生命力のようなものだ。無論、文化的なものを内容とするのだがね。それが世界歴史に対して決定的となるような場合には、どうしても民族の生命力、更にはモラリッシェ・エネルギーが有力になってくると思う。

高山
戦争といヘば直ぐ反倫理的だ、倫理と戦争とは永遠に結びつかないものだというように考えられる。こういう考えは倫理というものを単に形式主義的なものにしてしまう。しかしそれは既に本当の道義的なエネルギーが枯渇してしまったものなのだ。ランケなども言ってるように、戦争の中に道義的なエネルギーがある。形式化された正義感、実は旧秩序とか現状とかを維持しようとする不正義をいうものに対する健康な生命の反撃、それが道義的エネルギーというものだと思う。いろいろな面に於て客観的方面に果てしなく分裂していくような傾向、そういう分裂の傾向を主体性に於て統合する、こういうのが健全な道義的エネルギーだ。


高山
ドイツが勝ったということは、僕はドイツ民族のもつ道義的エネルギーが勝ったことだと思う。よく世界史は世界審判だ、といわれるが、それは何も世界史の外で神様が見ていてそれを審判する、というやうなことではない。国民自体が自己自身を批判する、自己自身を審判するということだと思う。国が亡びるということは、外からの侵略とか何とか外的原因に基くのではない。外患などというものは一つの機会因に過ぎない。国が亡びるのは実は国民の道義的エネルギーが枯渇したということに基づくんだ。敵国外患なければ国亡ぶというのも、つまりはこの意味だと思う。国家滅亡の原因は決して外にない、内にある。経済にしても文化にしても同じで、要するに国の亡びる究極の原因は、国民が健全な新鮮な倫理感、道義的エネルギーを失ったところにある。(105頁)


種族・民族・国民

高坂
その点で、評制は悪いがゴビノーというようなものも参考になる点があると思う。尤も、困るのは血の純粋性とか人種とかいうものを根本に置いて、特にアーリャン系が先天的に世界支配的と考えることだが、種族とか民族とかいうものを世界歴史の一つの基礎だと考ヘている点はちょっと面白い。ゴビノーは、文化の興亡を、それを負っている民族の血の純粋性で説明しようとし、不純な血が入ってくると民族の生命力は駄目になるという説明をしているのだが、血の純粋性を主体的に考へ、寧ろモラリッシェ・エネルギーで置き代えれば、全く無価値とも言えないと思う。


高山
モラリッシェ・エネルギーの主体は僕は国民だと思う。民族というのは19世紀の文化史的概念だが、今日は、過去の歴史はたとえどうあろうと「民族」というものでは世界史的な力がない。本当の意味で「国民」というものが一切を解決する鍵になっている。モラリッシェ・エネルギーは個人倫理でもなければ入格倫理でもなく、また血の純潔というようなものでもない。文化的で政治的な、「国民」というものに集中しているのが、今日のモラリッシェ・エネルギーの中心ではないかと思う。

高坂
そうなのだ。民族というものも単に民族としてだけではつまらない。民族が主体性をもった場合にそれはどうしても国家的民族の意味を持たなければならない。主体性をもたず自己限定性をもたない民族、つまり「国民」にならない民族は無力だ。(以下、民族名を上げて例証しているがこれは省略する)世界史の主体は、そんな意味で国家的民族だと思う。(107頁)


現代日本と世界

高坂
随分いろいろと論じ合ってきたわけなのだが、このような世界の動乱の中で、現代日本に課せられた課題は何か。それについて僕はこんな気持をもつ。
この頃、明治大正というものに対していろいろと批判がされているが、明治大正を通じて日本が世界史的意義を明確にしたことは争えない。日本が世界の中に乗出したのだ。その頃言はれた東西文化の融合という理念にしても、古くさいけれど、目のつけ所は誤ってはいなかったと思う。世界を睨んでいた。ただ単なる融合では困る。新たなる世界的日本文化の創造でなければならない。また文化と言えば、とかく現実の地盤から離れ、政治性から離れ、根のない花のようなものを考えていた。主体性のない文化を考えていた。しかしそれでは駄目だ、現実の地盤を欠いた文化では駄目だ。ところが現在は広い東亜の全体を地盤としてもっている、支那から南の方の島々まで広がっている。そこに現実のモラリッシェ・エネルギーを発見していく地盤がある。無論それには新しいプリンシプルが必要だ。しかしだからといって、今まであるものを単に否定するだけでなく生かしていかなければならない。新しい秩序が立てられなければならない。今世界中がそのような新しい力をもったプリンシプルを要求している。ドイツにせよ、ロシヤにせよ、支那にせよ、皆そのような新しい世界史の原理を樹立しようとして苦悶していると言える。
この動乱の世界に於て、どこが世界史の中心となるか。無論、経済力や武力も重要だが、それが新しい世界観なり新しいモラリッシェ・エネルギーによって原理づけられなければならない。新しい世界観なり、モラルなりができるかできないかということによって世界史の方向が決定されるのだ。それを創造し得たものが世界史を導いていくことになりはしないか。日本は今言った風な意味でもって、かかる原理を見出すことを世界史によって要求されている、後ろから押されている、世界史的必然性を背負っているという気もするんだ。
世界史的必然性というのは、単に人間の愚劣さを展開させる揚所ではない。人間の無智と無力の隠れ場ではない。前にも語ったように歴史的必然性というものは、問題と解決の間の必然性なのだ。解決は創造であり、建設であるのだ。人間の歴史には実に愚劣な点も多い。しかし我々の努力は、ややもすれば愚劣に陥らうとする人間歴史を、少しでも正しく導こうとする点にあるのではないかね。人間の秘密は世界史の中に現れている。我々の課題はそれを多少とも解決しようとする点にあるのではないかね。そのために現実の地盤と結びついた世界観を求めているのだ。(126頁)

その後、それぞれが一言づつ口を開き、最後に高坂がまとめの言葉を以下のように述べる。

高坂
実際、小さな人間の魂の救済を人類そのものの苦悶の救済から切離して考ヘるかのような態度はどうだらう。西田先生も先日言っておられた、世界歴史は人類の魂のプルガトリオだ、浄罪界だ、戦争というものにもそうした意味があるだろう、ダンテは個人の魂のプルガトリオを描いた、しかし現在大詩人が現れたならば、人類の魂の深刻なプルガトリオとして、世界歴史を歌うだろう、って。
人間は憤る時、全身をもって憤るのだ。心身共に憤るのだ。戦争だってそうだ。天地と共に憤るのだ。そして人類の魂が浄められるのだ。世界歴史の重要な転換点を戦争が決定したのは、そのためだ。だから世界歴史はプルガトリオなのだ。(131頁)

文屋註:プルガトリオとは、ダンテが『神曲』の中で触れている天国と地獄との間にあるとされる「煉獄」の意味である。西田先生はそれを仏教用語で「浄罪界」としておられるようである。

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