今週のローズンゲン 2017/09/17~09/23
2017 日々の聖句 9月17日(日)
神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。(詩56:11)
イエスの言葉:わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)
私の黙想:
今日の聖句は歌詞の一部だと思われる。ここで引用されている歌詞はこうなっている。
神の御言葉を賛美します。
主の御言葉を賛美します。
神に依り頼めば恐れはありません。
人間がわたしに何をなしえましょう。
これが口語訳ではこうなっている。「わたしは神によってその御言葉をほめたたえ、主によってその御言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません」。フランシスコ会訳も、新改訳もほぼ口語訳と同じ。関根訳では「ヤハウェにあって、その御言葉をわたしはたたえる、(ヤハウェにあって、その御言葉をわたしはたたえる。)ヤハウェに依り頼んで恐れない。人はわたしに何をなし得よう」。2回目の繰り返しを括弧の中に入れているの注目される。関根先生はこの詩について「個人の嘆きの歌。直接祭儀的背景に結びつけないで、一般的に精神化された表現と見る方がよい」と述べている。原文では「エロヒーム」と「アドナイ」とを使い分けている。
この詩についての最高の注解書は、マルチン・ルター作の宗教改革の時の讃美歌であろう。「神はわが櫓、わが強き盾、苦しめるときの近き助けぞ、おのが力、おのが知恵を頼みとせる陰府(よみ)のおさも、など恐るべき」(日本聖公会聖歌453番、讃美歌21の377番)であろう。
2017 日々の聖句 9月18日(月)
天は主のもの、地は人への賜物。(詩115:16)
多く与えられ者は、多く求められる。(ルカ12:48)
私の黙想:
今日の聖句簡単で単純すぎて、翻訳上に何の問題も無いであろうと思って、口語訳を見ると「天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた」となっている。かなり違うし、意味するところにもかなり含蓄がある。第1にここの「しかし」は何を意味するのか。新改訳はほぼ口語訳とおなじである。こうなってくると天は神の担当領域、地は人間の責任範囲というニュアンスになってくる。そこに明白は役割分担が感じられる。フランシスコ会訳では「天は、主に属するもの、地は、主が人の子らに与えてくださったもの」、関根訳では「しかし」がないが、ほぼ口語訳と同じである。岩波訳では天について「ヤハウェのための天」と訳され、だから神は地を「人の子らに与えた」と訳している。つまり、地は人間のためのものだというニュアンスである。天も地もすべて神が創造し、神に属しているという思想とはかなり異なる。屁理屈といえば屁理屈であるが、チョットした言葉の使い方でその意味するところはかなり異なってくる、というのは普段に私たちが経験するところである。
ここから「地」に対する人間の根源的な関係が読み取れる。神は天も地も創造されたが天については人間が立ち入ることのできない世界(領域)として確保しつつ、地については人間に対して「これはあなたたちに与えるから大切に生かして役立てなさい。そこはあなたたちの領分だ」という雰囲気がある。親が子どもに対して『子どもの領分を定める」という感じであろう。そうなると創世記2:15の意味するところもかなり違ってくる。しかし、ある限界を超えたとき、神は人間をエデンの園から「外の世界」追い出されたのである。「地」を生かすも殺すも人間の責任、環境問題は人間にとって根源的課題である。
2017 日々の聖句 9月19日(火)
わたしは諸国の民に、清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つになって主に仕える。(ゼファニヤ3:9)
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:11)
私の黙想:
ゼファニヤという預言者はユダ王国の王室に関係深い預言者でヨシヤ王のいわゆる申命記革命時代に活躍したとされている。当時、ユダでは異教が蔓延していた。その背景を考えると今日の聖句は複雑である。神の民の間に異教が蔓延している中で、これらの異教の祖国の人びとがすべて「主の名」を唱えるようになる。非常に矛盾した状況を背景にしている。しかし、このことが実際に実現したイエスの時代以後のキリスト教会はまさにこの矛盾した状況で生まれたのである。キリスト教は初めから「純粋培養」されたのではなく、異教的な状況の中でユダヤ教が生き残り、支配するという「一種の理想」として成立したのである。
2017 日々の聖句 9月20日(水)
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。(ヨエル3:1)
イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。(使徒2:33)
私の黙想:
ヨエル書2章冒頭部分で「主の怒りの日」のことが語られ、12節以下で主の「慈しみの言葉」語られる。その内容は「わたしに立ち帰れ」。続いて、18節以下で「その時」の「主の真情」が長々と吐露される。そこでの主は「シオンの子らよ、あなたたちの神なる主によって喜び躍れ」(23節)と述べられ、その結果「イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない」と宣言される。そして本日の聖句はそれに続く「その後」である。この言葉に続く言葉が、ペンテコステの日のメッセージとして有名な「あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」という言葉である。それは「その日」に起こることである、といわれている。
古代のユダヤ人たちは、世界の最後はこうなると信じて、生きていたのである。それは「待つ」ということが「生きる」という人生観である。初代教会の信徒たちは、ペンテコステの日にこのことが起こったのだと信じたのである(使徒2:14~21)。もう「待つ」という「生きる」は終わった。今はただ「喜びの日」だと語りあった。これがキリスト教信仰の「終わりの始まり」である。
2017 日々の聖句 9月21日(木)
朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。(詩127:2)
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)
私の黙想:
この詩は不思議な詩である。こんな詩が旧約聖書の中にあるだけでホッとする。詩編の中で「ソロモンの詩」と呼ばれているのは、この詩だけである。
ダビデと比べるとソロモンには詩人というイメージが欠けており、いかにもビジネスマンという感じなのであろう。ある意味でソロモンが王位に就いたの棚ぼた式であった。自分自身では何も働きかけずに(眠っている間に)王位が転がり込んできた。
今日の聖句の中で「焦慮して」という言葉が用いられているのは珍しい。新共同訳、口語訳を通して、ここだか。日本語にこんな言葉があるんだ。これは新共同訳独自の解釈から出て来た言葉であろう。他のどの訳にもこれに該当する言葉は見られない。「焦慮して」、広辞苑では「心をいらだたせること」、新明解では「あせって気をもむこと」と解説している。何か、その気分はわかる。要するに「イライラしている状況」、まさにビジネスマンの心の状況ではないか。まだ、親が生きているうちから、その遺産を勘定しているような子どもたち。原詩にそんな言葉はなくても、この文章の流れからそのような心の状況が伝わってくる。そして詩人はいう。何とむなしいことよ。王位など全然期待していなかったのに、棚ぼた式で手には入ったら、今度はイライラしてそれを先祖以上に増やそうとしている。あ〜あ、なんとなさけないことか。まさに私たちの国の王さまは。
2017 日々の聖句 9月22日(金)
聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。(箴言20:12)
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。(1テサロニケ5:21)
私の黙想:
今日の聖句、こういう言葉を読むと、障害者のことを思い、何故と問いたい気分である。しかし、私には何も言うことができない。イエスの「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)を思い起こし、その人を通して現れる神のみ業を、この耳で、この目で見たいと願うだけである。
つまらないことであるが、日本語には耳の働きについて「聞く」と「聴く」という二つの言葉がある。文語訳だけが「聴く」という字を用いている。これらの違いは何であろう。今、私の耳にはリビングからのテレビの音が聞こえてくるが、私は「きいていない」。この場合、どちらの言葉が正しいのだろうか。聴覚とはいうが、聞覚とは言わない。「聞こえる」とはいうが「聴こえる」とは言わない。確かに、違いがある。音楽の場合、どちらの「きく」なのだろうか。ヘブル語ではその違いがあるのだろうか。英語でもヒアとリッスンと二通りの言葉がある。門叶さんは説教を聴くとしことについて「聴聞学」と書いておられる。これには参った。岩波訳では「聞き分ける耳と、見分ける眼」と訳している。また新しい問題鈍っ使った「目」なのか「眼」なのか。
イスラエルでは「シェマー(聞け)」が重要な言葉だった。英語ではこれを「リッスン」と訳しているようだ。こういう種類の漢字の使い分けは文語約聖書は信頼出来る。文語訳は「聴け」である。
2017 日々の聖句 9月23日(土)
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(詩8:5)
神はわたしたちを愛して、(御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、)キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。(エフェソ1:4~6)
私の黙想:
今日の聖句「人間は何ものなのでしょう」は疑問の言葉ではない。驚きの言葉であり感嘆の言葉である。何を感嘆しているのか。神の業に驚き、賛美をしているのである。疑問文という意味ならば「神とはいったい何ものなのだろう」という驚きの言葉である。神は人間を創造し、その人間を愛の対象とされた。愛の対象とはもはや道具ではない。モノではない。人格的関係の相手である。このことに驚いているのは創られた人間である。人間が造り主である神に驚嘆している。
わかりやすい比喩を語ろう。いや、現代人だからそれが語れるのだ。人間はロボットを造った。いろいろ造った中でもっとも力を入れて造り出したのが「人間ロボット」である。しかも人工頭脳のロボット。考え判断し行動する人間ロボット。もし、このロボットが感情を持つことができたなら(これはSFの世界である)、そのロボットは何というだろう。
「人間とはいったい何ものなのか、人間自身よりすべての点で優れた存在を造り出すとは」。旧約聖書の詩人は人間を「神に僅かに劣るものとして人を造り」( 6節)という。詩人は決してSFの世界に生きていない。
2017 日々の聖句 9月17日(日)
神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。(詩56:11)
イエスの言葉:わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)
私の黙想:
今日の聖句は歌詞の一部だと思われる。ここで引用されている歌詞はこうなっている。
神の御言葉を賛美します。
主の御言葉を賛美します。
神に依り頼めば恐れはありません。
人間がわたしに何をなしえましょう。
これが口語訳ではこうなっている。「わたしは神によってその御言葉をほめたたえ、主によってその御言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません」。フランシスコ会訳も、新改訳もほぼ口語訳と同じ。関根訳では「ヤハウェにあって、その御言葉をわたしはたたえる、(ヤハウェにあって、その御言葉をわたしはたたえる。)ヤハウェに依り頼んで恐れない。人はわたしに何をなし得よう」。2回目の繰り返しを括弧の中に入れているの注目される。関根先生はこの詩について「個人の嘆きの歌。直接祭儀的背景に結びつけないで、一般的に精神化された表現と見る方がよい」と述べている。原文では「エロヒーム」と「アドナイ」とを使い分けている。
この詩についての最高の注解書は、マルチン・ルター作の宗教改革の時の讃美歌であろう。「神はわが櫓、わが強き盾、苦しめるときの近き助けぞ、おのが力、おのが知恵を頼みとせる陰府(よみ)のおさも、など恐るべき」(日本聖公会聖歌453番、讃美歌21の377番)であろう。
2017 日々の聖句 9月18日(月)
天は主のもの、地は人への賜物。(詩115:16)
多く与えられ者は、多く求められる。(ルカ12:48)
私の黙想:
今日の聖句簡単で単純すぎて、翻訳上に何の問題も無いであろうと思って、口語訳を見ると「天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた」となっている。かなり違うし、意味するところにもかなり含蓄がある。第1にここの「しかし」は何を意味するのか。新改訳はほぼ口語訳とおなじである。こうなってくると天は神の担当領域、地は人間の責任範囲というニュアンスになってくる。そこに明白は役割分担が感じられる。フランシスコ会訳では「天は、主に属するもの、地は、主が人の子らに与えてくださったもの」、関根訳では「しかし」がないが、ほぼ口語訳と同じである。岩波訳では天について「ヤハウェのための天」と訳され、だから神は地を「人の子らに与えた」と訳している。つまり、地は人間のためのものだというニュアンスである。天も地もすべて神が創造し、神に属しているという思想とはかなり異なる。屁理屈といえば屁理屈であるが、チョットした言葉の使い方でその意味するところはかなり異なってくる、というのは普段に私たちが経験するところである。
ここから「地」に対する人間の根源的な関係が読み取れる。神は天も地も創造されたが天については人間が立ち入ることのできない世界(領域)として確保しつつ、地については人間に対して「これはあなたたちに与えるから大切に生かして役立てなさい。そこはあなたたちの領分だ」という雰囲気がある。親が子どもに対して『子どもの領分を定める」という感じであろう。そうなると創世記2:15の意味するところもかなり違ってくる。しかし、ある限界を超えたとき、神は人間をエデンの園から「外の世界」追い出されたのである。「地」を生かすも殺すも人間の責任、環境問題は人間にとって根源的課題である。
2017 日々の聖句 9月19日(火)
わたしは諸国の民に、清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つになって主に仕える。(ゼファニヤ3:9)
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:11)
私の黙想:
ゼファニヤという預言者はユダ王国の王室に関係深い預言者でヨシヤ王のいわゆる申命記革命時代に活躍したとされている。当時、ユダでは異教が蔓延していた。その背景を考えると今日の聖句は複雑である。神の民の間に異教が蔓延している中で、これらの異教の祖国の人びとがすべて「主の名」を唱えるようになる。非常に矛盾した状況を背景にしている。しかし、このことが実際に実現したイエスの時代以後のキリスト教会はまさにこの矛盾した状況で生まれたのである。キリスト教は初めから「純粋培養」されたのではなく、異教的な状況の中でユダヤ教が生き残り、支配するという「一種の理想」として成立したのである。
2017 日々の聖句 9月20日(水)
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。(ヨエル3:1)
イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。(使徒2:33)
私の黙想:
ヨエル書2章冒頭部分で「主の怒りの日」のことが語られ、12節以下で主の「慈しみの言葉」語られる。その内容は「わたしに立ち帰れ」。続いて、18節以下で「その時」の「主の真情」が長々と吐露される。そこでの主は「シオンの子らよ、あなたたちの神なる主によって喜び躍れ」(23節)と述べられ、その結果「イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない」と宣言される。そして本日の聖句はそれに続く「その後」である。この言葉に続く言葉が、ペンテコステの日のメッセージとして有名な「あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」という言葉である。それは「その日」に起こることである、といわれている。
古代のユダヤ人たちは、世界の最後はこうなると信じて、生きていたのである。それは「待つ」ということが「生きる」という人生観である。初代教会の信徒たちは、ペンテコステの日にこのことが起こったのだと信じたのである(使徒2:14~21)。もう「待つ」という「生きる」は終わった。今はただ「喜びの日」だと語りあった。これがキリスト教信仰の「終わりの始まり」である。
2017 日々の聖句 9月21日(木)
朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。(詩127:2)
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)
私の黙想:
この詩は不思議な詩である。こんな詩が旧約聖書の中にあるだけでホッとする。詩編の中で「ソロモンの詩」と呼ばれているのは、この詩だけである。
ダビデと比べるとソロモンには詩人というイメージが欠けており、いかにもビジネスマンという感じなのであろう。ある意味でソロモンが王位に就いたの棚ぼた式であった。自分自身では何も働きかけずに(眠っている間に)王位が転がり込んできた。
今日の聖句の中で「焦慮して」という言葉が用いられているのは珍しい。新共同訳、口語訳を通して、ここだか。日本語にこんな言葉があるんだ。これは新共同訳独自の解釈から出て来た言葉であろう。他のどの訳にもこれに該当する言葉は見られない。「焦慮して」、広辞苑では「心をいらだたせること」、新明解では「あせって気をもむこと」と解説している。何か、その気分はわかる。要するに「イライラしている状況」、まさにビジネスマンの心の状況ではないか。まだ、親が生きているうちから、その遺産を勘定しているような子どもたち。原詩にそんな言葉はなくても、この文章の流れからそのような心の状況が伝わってくる。そして詩人はいう。何とむなしいことよ。王位など全然期待していなかったのに、棚ぼた式で手には入ったら、今度はイライラしてそれを先祖以上に増やそうとしている。あ〜あ、なんとなさけないことか。まさに私たちの国の王さまは。
2017 日々の聖句 9月22日(金)
聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。(箴言20:12)
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。(1テサロニケ5:21)
私の黙想:
今日の聖句、こういう言葉を読むと、障害者のことを思い、何故と問いたい気分である。しかし、私には何も言うことができない。イエスの「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)を思い起こし、その人を通して現れる神のみ業を、この耳で、この目で見たいと願うだけである。
つまらないことであるが、日本語には耳の働きについて「聞く」と「聴く」という二つの言葉がある。文語訳だけが「聴く」という字を用いている。これらの違いは何であろう。今、私の耳にはリビングからのテレビの音が聞こえてくるが、私は「きいていない」。この場合、どちらの言葉が正しいのだろうか。聴覚とはいうが、聞覚とは言わない。「聞こえる」とはいうが「聴こえる」とは言わない。確かに、違いがある。音楽の場合、どちらの「きく」なのだろうか。ヘブル語ではその違いがあるのだろうか。英語でもヒアとリッスンと二通りの言葉がある。門叶さんは説教を聴くとしことについて「聴聞学」と書いておられる。これには参った。岩波訳では「聞き分ける耳と、見分ける眼」と訳している。また新しい問題鈍っ使った「目」なのか「眼」なのか。
イスラエルでは「シェマー(聞け)」が重要な言葉だった。英語ではこれを「リッスン」と訳しているようだ。こういう種類の漢字の使い分けは文語約聖書は信頼出来る。文語訳は「聴け」である。
2017 日々の聖句 9月23日(土)
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(詩8:5)
神はわたしたちを愛して、(御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、)キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。(エフェソ1:4~6)
私の黙想:
今日の聖句「人間は何ものなのでしょう」は疑問の言葉ではない。驚きの言葉であり感嘆の言葉である。何を感嘆しているのか。神の業に驚き、賛美をしているのである。疑問文という意味ならば「神とはいったい何ものなのだろう」という驚きの言葉である。神は人間を創造し、その人間を愛の対象とされた。愛の対象とはもはや道具ではない。モノではない。人格的関係の相手である。このことに驚いているのは創られた人間である。人間が造り主である神に驚嘆している。
わかりやすい比喩を語ろう。いや、現代人だからそれが語れるのだ。人間はロボットを造った。いろいろ造った中でもっとも力を入れて造り出したのが「人間ロボット」である。しかも人工頭脳のロボット。考え判断し行動する人間ロボット。もし、このロボットが感情を持つことができたなら(これはSFの世界である)、そのロボットは何というだろう。
「人間とはいったい何ものなのか、人間自身よりすべての点で優れた存在を造り出すとは」。旧約聖書の詩人は人間を「神に僅かに劣るものとして人を造り」( 6節)という。詩人は決してSFの世界に生きていない。