ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/02/21~02/27

2016-02-27 17:34:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/02/21~02/27

2016 日々の聖句 02月21日(日)
大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。(Ps.46:5~6)
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(Eph.2:22)

私の黙想:
美しい句だ。「大河」、「神の都」、「都は揺るがない」。どの句をとっても美しい。光り輝くエルサレムの神殿を思う。そこを訪れ、中に入り、祈りをする。もうそれだけで、「天国の心地」がするだろう。それはまさに非日常性の世界だ。一般に「宗教施設」というものはそうでなければならないと思う。まだ行ったことがないが、サクラダ・ファミリアに行った人はほとんど誰でも「もう一度行きたい」という。それだけ魅力があるのだろう。
ささやかでもいいから、私たちの聖堂もそうであって欲しいと思う。たとえそこで語られる説教がつまらなくても、そこに居るだけで「天国の心地」がするような場所であって欲しい。日本の教会はその意味で、私たちの「手の内」にあるように思う。いや、「取り扱い自由」と言うべきか。聖堂は「手に負えない」ものでなければならない、と夢見る。

2016 日々の聖句 02月22日(月)
わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。(1Chr.29:15)

わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。(Heb.13:14)

私の黙想:
歴代誌上29は歴代誌上の最後の章で、ダビデが人生を振り返り、仕残した神殿建築という大事業の準備を整え、息子ソロモンに王位をゆずり、神に祈りを捧げて死ぬという厳粛な場面である。仕事を全部完成した上で思い残すことがなく死ぬよりは、仕残してそれを後継者に譲り死ぬということは聖書の理想的な死に方である。アブラハムもそうであったし、モーセもそうであった。こういう死に方がいい。今日の聖句はその最期の祈りの中の一節である。「あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません」という部分、口語訳では「旅びとです、寄留者です」と訳している。他のいろいろな訳と比べて、この口語訳が最もピッタリくる。それにしてもこの場面で「人生は影のようなもの」はいかがなものでしょうか。だいたい「人生」という言葉がモダンすぎて時代錯誤のような気がする。やはりここでは口語訳のように「世にある日は影のようで」はピッタリくる。新改訳のように「地上での我々の日々」では、現代の宇宙観を感じさせあの時代「地上」というような言い方をしただろうか。ここは思いっきり文学的な表現がいい。

2016 日々の聖句 02月23日(火)
大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。(Isa.61:11)

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。(2Cor.9:10)

私の黙想:
聖書の中に「萌え」がある。フランシスコ会訳でも「萌え出でである。新しい。さすがに口語訳の時代はこの言葉は流行っていなかったのか、「地が芽をいだし」で、新改訳は流行を追わず「地が芽を出し」だ。何時、どこから、この「萌え」が流行りだしたのか、よく分からない。
「萌」という言葉は昔からある言葉だが、これは現代では特殊な響きを持っている。「萌え」の現代的用法はNHK教育テレビの『天才てれびくん』(1993)で放送されたアニメ『恐竜惑星』に 登場するキャラクター名「萌」に由来するといわれている。俗語としての「萌え」はオタク特有のスラングとさ2004年、流行語大賞ノミネート、2005年は「萌え~」として流行語大賞トップテン入りした。一般に「架空のキャラクターに対する愛情」として 理解されることが多い。
新共同訳の出版は1987年だから、現代的用法の影響は受けていないと思う。ただそういう言語感覚には関係があるのかも知れない。検索してみると新共同訳では旧約聖書に「萌え」は6回用いられている。さすがに口語訳には出て来ない。

2016 日々の聖句 02月24日(水)
御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。(Ps.51:13)

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。(1Tes.5:9)

私の黙想:
ダビデの懺悔の祈り。ダビデは主の霊が取り上げられたサウル王の最期を見ている(1Sam16:14)。「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」。当時サウル王に仕えていたダビデは、悪霊がサウル王を襲ったとき、竪琴を奏でて慰める役であった。主の霊が離れるということは王としての最高の悲劇である。
宗教的指導者であれ、政治的指導者であれ、本人は気が付いていないかも知れないが、すべて「上に立つ者」は主の霊によって支えられている。現代的な用語でいうならば「カリスマ」である。カリスマを失った指導者は悲劇である。神の言葉を無視したサウル王は、預言者サムエルからこっぴどく叱られながら、なおも国民の前に威厳を保とうとして、「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します」(1Sam.15:30)と言わねばならないほど無力になっていた。

2016 日々の聖句 02月25日(木)
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。(Ps.139:4)

イエスの言葉:あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(Mt.6:7~8)

私の黙想:
今日の聖句、これは神についての「実感」なのか。「理解」なのか。これが問題だ。そこに「ユダヤ人(聖書の民)」と「異邦人(非ユダヤ人)」との違いがあるようだ。もちろん、私は「異邦人」。アブラハムはユダヤ人、ヨブはユダヤ人か、異邦人か。

2016 日々の聖句 02月26日(金)
災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。(Isa.5:21)

たとえ、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(1Cor.13:2)

私の黙想:
この「災い」は誰の災いだろう。ご本人は「うぬぼれて、賢い」と思っているのだから幸いだ、というより「お目出度い」ことだ。災いなのは周囲であろう。ひとりでうぬぼれているだけなら害はないが、そういう奴は必ず、いろいろなことで周囲の人間を馬鹿にして、いろいろ口出しして、迷惑極まりない。たとえば、いや本当に例えばの話、その人間が組織の長になったら、もうその組織は壊滅的な打撃を受け、災いがその組織に属する全員に及ぶ。そうなって、初めて自分が馬鹿だということに気づいても、もう手遅れだ。シャープも然り、日の丸銀行も然り、なんとかミクスも然り、○○教団も然り、××教区も然り。良きリーダーとは常にひょっとしたら自分は間違っているのかも知れないと謙虚に成り、部下の言い分や意見に耳を傾けるものである。

2016 日々の聖句 02月27日(土)
主よ、あなたが祝福してくださいましたから、それはとこしえに祝福されます。(1Chr.17:27)

祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1Pet.3:9)

私の黙想:
ダビデ王の王権が確立したとき、ダビデは王宮にて預言者ナタンに言う。神殿建設の相談である。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、主の契約の箱は、天幕を張ってその下に置いたままだ」。その世の預言者ナタンは神にダビデの願いを報告するが、神は神殿建築という事業はダビデの役ではないという。その時、神は預言者ナタンを通してダビデに宣言される。「わたしはあなたに告げる。主が、あなたのために家を建てる。あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」。この言葉を聞いたときのダビデの感謝の言葉が今日の聖句である。
「私が主の家を建てたい」という、ダビデの「善意の発案」には危うさが含まれている。そうではなく、主がダビデの家を建てるのである。しかもその家は、今ダビデが住んでいる「王宮」ではなく、ダビデの子孫の時代に確立される「王国」であるという。この主の「約束」とダビデの「願望」とのズレが重要である。ここに「永遠」ということと「時代」ということの関係を読み取るのは無理だろうか。

最新の画像もっと見る