今日は、市内の霊園にお墓参りに行ってきました。
まだ母が存命だった2007年10月22日にこのブログに
投稿した記事
「墓参日和(こちらのお墓参りに行ってきました。)」
に、
「母の実家の墓と、軍属で硫黄島に残って戦没した親戚の墓が近い
ということ」を、書きました。
今年の4月に96歳で亡くなった祖母の、七七忌、納骨が、5月末でした。
その時に、
祖母が入った母の実家のお墓のすぐ近くの、
硫黄島で亡くなった二人のお墓も見ました。
どちらにも、お花が無くて、長くお参りされていないことが
分かりました。
その日は祖母の納骨でしたので、二つのお墓には、そっと手を合わせた
だけで帰ってきました。
いよいよ、今年の硫黄島訪問が近づきました。
上陸して最初に慰霊祭がある平和祈念墓地公園(旧島民墓地)には、
新旧二つの、軍属として硫黄島に残って戦没した島民の名前が
刻まれた碑があります。そこを、今年も訪ねて、
お祈りする日がもうすぐ、というタイミングで、お花の上がっていない
こちらのお墓を見ましたので、
「硫黄島に時間をかけて行って、亡くなった現地で、手を合わせて
お祈りすることは、とても貴重な機会で、大事だが、
こちらにお墓があるのだから、そちらに先に墓参して「今年も行きますよ。」と
報告するのが先ではないだろうか?出発前に墓参したい。」と思いました。
今日は、父と二人で行きました。
まずは、納骨の時に手を合わせて以来の、祖父、祖母、伯父たちの、
母の実家のお墓をお参りしました。
次に、同じ一角にある、祖父の兄弟姉妹の一番上の姉の子供(母の従兄弟)
が、祖父の姉と一緒に眠るお墓を見ますと、きれいな花が供えれられて
いました。この土日で上げられたお花でしたので、お線香を上げて
手を合わせました。
それから、やはり同じ一角にある、母の実家と同じ姓の、
祖父のすぐしたの弟が眠るお墓に行きました。そちらは、
先月末の納骨の日に見たままで、お花、お線香の後はありませんでしたので
お花を備えてお線香を上げて、手を合わせました。
その二つのお墓の、硫黄島戦没の二人の、亡くなった日は、
同じ、「昭和二十年三月十七日」になっていました。
母の従兄弟(祖父の甥)は、享年十八歳とありました。
祖父の弟は、三十五歳でした。
昨日の投稿の記事で、「硫黄島で、子供がいた世代かどうか
と、生まれていたかどうか の関係」のことを書きましたが、
軍属として島に残り戦没した祖父の弟には、強制疎開の時に、
息子、娘がいました。私の世代が親しくお付き合いしている親戚では
ありませんが、話には聞いていましたし、
「長男」(母の従兄弟)の人は、何度か会ったことがありましたし、
4月の祖母の告別式に遠くから来て下さった、お話もさせてもらいました。
その「長男」の人 ご夫婦が、今回の硫黄島訪問のメンバー、ご一緒です。
私が住んでいる所から、車では15分かからないところにある、
硫黄島で戦没した二人の、お墓参りもせずに、硫黄島行きの小笠原丸に
乗り込むという、恥ずかしいことにならずに、良かったです。
母の生前には、自分の父や兄弟の実家のお墓参りに行きながら、
必ず、近くの、二つのお墓にも、お線香を上げて、手を合わせていました。
今日は、母方の、三つのお墓に手を合わせて、「もうすぐ、今年も行きます。」
と報告してから、
同じ霊園内の、ちょっと離れた場所にある、
うち(父方)の墓で、母に、「今年も、しっかり、島で祈ってくるので、
天気を頼む」と、手を合わせて、頼んできました。
「もう、一度、行っておきたいねぇ。」と、よく申していた母でした。
皆で、硫黄島に行く日が近づき、身が引き締まる思いがしています。
写真は昨年6月の訪問の時に撮影した鎮魂の丘の花。
( 以下、
このブログにメッセージをいただきました
横浜在住の「小笠原研究している」方への、通信 :
携帯電話番号は メッセージ送付いただいた通知のgooメールで分かりますので、
明日にでも、電話させていただきます。
メール返信しようとしましたが、エラーで送付できませんので、
この記事へのコメントでメールアドレスをお知らせいただければ、
(アドレス教えていただくだけの目的ですので、公開せずに削除します。)
返信させていただきます。 )
まだ母が存命だった2007年10月22日にこのブログに
投稿した記事
「墓参日和(こちらのお墓参りに行ってきました。)」
に、
「母の実家の墓と、軍属で硫黄島に残って戦没した親戚の墓が近い
ということ」を、書きました。
今年の4月に96歳で亡くなった祖母の、七七忌、納骨が、5月末でした。
その時に、
祖母が入った母の実家のお墓のすぐ近くの、
硫黄島で亡くなった二人のお墓も見ました。
どちらにも、お花が無くて、長くお参りされていないことが
分かりました。
その日は祖母の納骨でしたので、二つのお墓には、そっと手を合わせた
だけで帰ってきました。
いよいよ、今年の硫黄島訪問が近づきました。
上陸して最初に慰霊祭がある平和祈念墓地公園(旧島民墓地)には、
新旧二つの、軍属として硫黄島に残って戦没した島民の名前が
刻まれた碑があります。そこを、今年も訪ねて、
お祈りする日がもうすぐ、というタイミングで、お花の上がっていない
こちらのお墓を見ましたので、
「硫黄島に時間をかけて行って、亡くなった現地で、手を合わせて
お祈りすることは、とても貴重な機会で、大事だが、
こちらにお墓があるのだから、そちらに先に墓参して「今年も行きますよ。」と
報告するのが先ではないだろうか?出発前に墓参したい。」と思いました。
今日は、父と二人で行きました。
まずは、納骨の時に手を合わせて以来の、祖父、祖母、伯父たちの、
母の実家のお墓をお参りしました。
次に、同じ一角にある、祖父の兄弟姉妹の一番上の姉の子供(母の従兄弟)
が、祖父の姉と一緒に眠るお墓を見ますと、きれいな花が供えれられて
いました。この土日で上げられたお花でしたので、お線香を上げて
手を合わせました。
それから、やはり同じ一角にある、母の実家と同じ姓の、
祖父のすぐしたの弟が眠るお墓に行きました。そちらは、
先月末の納骨の日に見たままで、お花、お線香の後はありませんでしたので
お花を備えてお線香を上げて、手を合わせました。
その二つのお墓の、硫黄島戦没の二人の、亡くなった日は、
同じ、「昭和二十年三月十七日」になっていました。
母の従兄弟(祖父の甥)は、享年十八歳とありました。
祖父の弟は、三十五歳でした。
昨日の投稿の記事で、「硫黄島で、子供がいた世代かどうか
と、生まれていたかどうか の関係」のことを書きましたが、
軍属として島に残り戦没した祖父の弟には、強制疎開の時に、
息子、娘がいました。私の世代が親しくお付き合いしている親戚では
ありませんが、話には聞いていましたし、
「長男」(母の従兄弟)の人は、何度か会ったことがありましたし、
4月の祖母の告別式に遠くから来て下さった、お話もさせてもらいました。
その「長男」の人 ご夫婦が、今回の硫黄島訪問のメンバー、ご一緒です。
私が住んでいる所から、車では15分かからないところにある、
硫黄島で戦没した二人の、お墓参りもせずに、硫黄島行きの小笠原丸に
乗り込むという、恥ずかしいことにならずに、良かったです。
母の生前には、自分の父や兄弟の実家のお墓参りに行きながら、
必ず、近くの、二つのお墓にも、お線香を上げて、手を合わせていました。
今日は、母方の、三つのお墓に手を合わせて、「もうすぐ、今年も行きます。」
と報告してから、
同じ霊園内の、ちょっと離れた場所にある、
うち(父方)の墓で、母に、「今年も、しっかり、島で祈ってくるので、
天気を頼む」と、手を合わせて、頼んできました。
「もう、一度、行っておきたいねぇ。」と、よく申していた母でした。
皆で、硫黄島に行く日が近づき、身が引き締まる思いがしています。
写真は昨年6月の訪問の時に撮影した鎮魂の丘の花。
( 以下、
このブログにメッセージをいただきました
横浜在住の「小笠原研究している」方への、通信 :
携帯電話番号は メッセージ送付いただいた通知のgooメールで分かりますので、
明日にでも、電話させていただきます。
メール返信しようとしましたが、エラーで送付できませんので、
この記事へのコメントでメールアドレスをお知らせいただければ、
(アドレス教えていただくだけの目的ですので、公開せずに削除します。)
返信させていただきます。 )