いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

記者のたたずまい・・・「保育所落ちた」のツイッターにテレビ番組で拍手した記者は。

2016年04月10日 23時04分07秒 | 日記

 きのう、政治家の言葉が汚くなったという話を書きました。
 ついでに、記者のたたずまいについても書いておきます。

 民進党の山尾議員が国会で取り上げた「保育所落ちた。日本死ね」
というツイッターのことです。
 もう一度書いておくと、どこかの母親が、子供を保育所に入れよ
うとしたが、残念ながら、受け入れてもらえませんでした。
 そこで、この母親は、自分のツイッターに、「保育所落ちた。女
性が活躍できる社会を作るんじゃないのか。全然活躍できないじゃ
ないか。日本死ね」というような言葉を書いたのです。
 それを、山尾議員が、国会で取り上げ、政府を批判したのです。

 簡単に紹介すると、そういうことになるのですが、ご覧のように、
非常に曖昧な内容で、どこか、ふわふわした感じがします。
 というのも、「どこかの母親」「どこかの保育所」「なんらかの理
由で子供が入れなかった」ということになって、とらえどころがな
いのです。
 文章を書くときの要素として、よく、5W1Hというようなこと
を言います。
 実際に、原稿を書いているとき、5W1Hを意識しているかとい
うと、意識しているわけではありませんが、でも、できあがった原
稿は、自然に5W1Hが入っています。
 わざわざ、5W1Hなどという言い方をしなくても、「だれが」
「いつ」「どこで」「何を」「なぜ」(5W)、「どうした」(1H)と
いうようなことは、普通に原稿を書いていると、文章の中に自然と
入ってくるものなのです。

 しかし、この「保育所落ちた」のツイッターには、この5W1H
が、ほとんど、ありません。
 どこの母親が、何年何月に、どこの市町村の保育所で、なぜ落ち
たのか。
 「どこの」とか「何年何月に」とかが分かっていないので、なに
か曖昧になってしまうのです。

 でも、この母親が、自分の感情を、そうやって、自分のツイッタ
ーに書くのは、別にかまわないのです。
 自分の思うところをツイッターで発信するというのは、個人の行
動としては、おかしなところはありませんし、批判されるようなこ
とでもありません。

 ただし、きのう書いたように、国会議員が、それを国会で取り上
げるとなると、話は違う。そうなると、非常に公的な話となってし
まいます。個人のつぶやきではなくなってしまうのですから、どこ
の保育所なのか、なぜ落ちたのか、つまりは、5W1Hを、山尾議
員が、しっかり把握しておく必要があったのです。

 それが、きのう書いた話です。

 このツイッターがすっかり有名になった後、4月の初めでしたが、
TBSの夕方のニュース番組で、キャスターの堀尾氏が、このツイ
ッターの全文を読み上げたのです。
 すると、コメンテーターとして、系列の新聞社から出席している
女性記者が、うれしそうに、ぱちぱちと拍手したのです。
 このツイッターを、よく書いた、と言いたいような拍手でした。

 この拍手と、そのうれしそうな顔には、がっかりしました。
このコメンテーターは、新聞記者です。この記者は、ツイッター
の「保育所落ちた。日本死ね」という言葉を、政権批判ととらえ、
よく批判した、という感じで拍手したのでしょう。
 しかし、このコメンテーターは、新聞記者です。
 新聞記者であれば、保育所の待機児童の問題は、自分で調べて自
分で原稿を書き、世に問うのが本当です。
 それをせず、「保育所落ちた。日本死ね」というような個人の感
情論に、拍手を送るとすれば、それは、新聞記者ではないだろうと
思うのです。
 この記者は、このツイッターの内容が、正確なのかどうか、いっ
たい、どこの保育所なのか、なぜ落ちたのか、取材して確認したの
でしょうか。
 していないと思います。
 もし万一、このツイッターの内容が正確ではないとしたら、拍手
を送った自分の行動に、どう責任を取りますか。
 この記者は、記者として、あまりに軽率だったと思います。
記者なら、拍手などしていないで、自分で取材して、原稿を書く
のが本当です。
それは、記者としてのたたずまいの問題です。







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