スポーツ選手が「勇気を与える」というのはおか
しいーーというブログに、コメントをいただきました。
通りすがりさん
aguriさん
さすらい人さん
トモさん
ありがとうございます。
せっかくなので、コメントにコメントを返すだけではなく、こ
のブログで、改めて、いま、書いておきたいと思います。
みなさん、賛意をいただき、ありがとうございます。
大感謝です。
さすらい人さん、トモさんは、「勇気を与える」という言葉だ
けではなく、「勇気づける」という言葉であっても、おかしいの
ではないかというご意見です。
私も、同感です。
おっしゃる通り、言葉の問題ではありません。
選手の気持ちのありよう、そして、たたずまいの問題でしょう。
「勇気」や「感動」は、スポーツを見る側が、自然に感じたり
受け入れたりするものです。
東北高校の監督が
「被災地のあの状況で、元気づけるとか勇気づけるとかそ
んな大それたことはできない。君たちはただ全力でプレーす
ることだけだ」
とお話されたのは、私は聞き逃しましたが、さすがに立派
な言葉だと思います。被災地から来た監督は、ごく自然に、
こういう言葉が出たのでしょう。
1945年8月15日に、太平洋戦争は終わりました。
日本は、敗戦に打ちひしがれ、東京は一面の焼け野原と
なっていました。
これからどうやっていけばいいのだろう。
実に、そんな中で、翌46年の夏には、甲子園で高校野球
の夏の大会が開かれたのです。
食べるものとて、ろくにありません。
当然、アメリカの占領下にあります。
スポーツどころではないでしょう。
しかし、このとき開かれた夏の甲子園で、プレーをする若
い選手たちを見て、日本人は、我々の父親たち、母親たちは、
「これなら、日本はまたやっていける」
と喜び、涙を流したのです。
このとき、スポーツ、この場合は高校野球ですが、スポー
ツが日本人に大きな力を与えました。
これこそ、スポーツの持つ力でしょう。
もちろん、このとき、選手はだれひとりとして、
「日本人に勇気を与える」とか
「日本人を勇気づける」とは言わなかったのです。
しかし、食べるものさえろくにない時代に、ただひたむきに
プレーする姿を見て、人々は
「ああ、これなら日本は大丈夫だ」
と勇気づけられたわけです。
スポーツとは、そういうものなのでしょう。
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