いせ九条の会

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日本の支配層は沖縄を捨石と考えていた/山崎孝

2007-08-14 | ご投稿
8月13日付朝日新聞「窓」―論説委員室から―(大矢雅弘編集委員)という記事には、《沖縄県うるま市の県立養護学校の敷地内に米軍の装甲車が侵入する事件があり、知事は「非常識の極み」と批判した。それから3週間も経たないのに、今度は同市の県立高校に米軍のトラックが侵入した。あまりにも傍若無人な行為だ。こんな事件が続くと、「現在もなお、沖縄は軍事植民地だ」という那覇市の吉田健正さんの主張にうなずかざるをえない。》という書き出しで、吉田健正さんと著書を紹介し、《植民地政策の研究の先駆者であった矢内原忠雄氏が、沖縄の本土復帰前の一九五七年「沖縄は米軍の軍事植民地である」と述べた。その言葉がすでに通用しなくなった今、あえて書名に採用したこのことからも、沖縄の現状への憤りが痛いほど伝わってくる》と書かれています。

戦前から沖縄を日本の支配層は捨石と考えていました。(豊下楢彦著「集団的自衛権とは何か」より抜粋)

悲惨な沖縄戦が最終段階を迎えた一九四五年六月二二日に、昭和天皇はそれまでの徹底抗戦方針を自ら転換し、ソ連を介して連合国側と和平交渉にはいる決断を行ない、近衛文麿元首相を「天皇の特使」としてモスクワに送る手はずを整えた。その際、近衛がまとめた和平交渉の「条件」には、「固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原島、樺太を捨て…」と明記されていた。つまり、本土防衛のための「捨て石」として地獄の地上戦を強いた日本の指導層は、今度は和平交渉のために、沖縄を日本から「捨てる」という選択に踏み切ったのである。結局、近衛の訪ソは実現できず敗戦を迎えたが、戦後になって米軍が沖縄を支配すると、昭和天皇が一九四七年九月に米側に送ったメッセージでは「二五年から五〇年、あるいはそれ以上」、吉田茂が一九五一年一月末にダレスに提示した案では「九九年」もの長期にわたって沖縄を米国に”貸し出す”という方針が明示されていたのである。

日本本土の政府から半植民地のように扱われてきた沖縄は、植民地支配をうけた朝鮮半島や侵略をうけた中国に相通ずるような歴史を体験してきたのである。つまり、日本に属しながら同時にアジア諸国の歴史認識を”共有″できる沖縄は、偏狭なナショナリズムを克服し、新たなレベルにおいて「歴史の対話」を重ねていくことができる最適の場なのではなかろうか。東アジアにおける歴史認識問題に関する共同研究機関の設置など、沖縄を信頼醸成の拠点として打ち出していくことを考えるべきである。