約30年にわたって我が家のルーツを調べてきて、ようやく一昨年8月に完成した。 筆書きで137ページ+資料10ページほどの閉じ本で5冊だけ手作りした。
これで骨組みは一応出来上がったので、その後は肉付け作業に入った。
それはネットを中心にして、郷土史のアーカイブ資料、地方の民話や伝説、寺社の縁起とか建立までの言い伝えなどを調べているのです。
そうして得た資料を、これまでの骨組みと照合して、訂正したり、付け加えたりしていく、それをやっているうち点と点が線でつながっていくこともあるし
面にまで広がることも稀にある
これが実に楽しく面白い、そんな中で見つけた藤原道長とわが祖先の関連話。
昔の資料や伝説は多くは推測で書かれたものや、盛った話が多くて年代や人物の前後がつじつまが合わなくなることが多々ある。
郷土資料でさえ、1000年前ともなると結構あやふやなのだ、出典がなにかもわからない、そんな中で寺社の資料はわりと正しいかもしれない
ただし伝説、言い伝えは信用するかどうかは各々の判断と言うことになる。
わが祖先の姓Aは父の代で終わり、今は別の姓Bを名乗っている
昭和19年末まで父は、祖先A家の七つの分家の一つの嫡系だったが父の母が再婚した相手B氏に(子が無かったので)B家を継いでほしいと言われて継いでBの姓になった、もちろん私もBの姓である。
父は一人っ子だったからBになると言うことはA家を廃嫡することでもあった。
そのA家であるが、郷土資料では一番古い人物が登場するのが延喜3年(903年)となっていて、その年に一族の氏神を祀った氏子7軒の神社を創建した、その神社は今も在る。 私も5年くらい前に行って見て来た。
903年は大宰府天満宮、菅原道真公が亡くなった年でもある、更に言えば平将門が生まれた年とも言われる
また三大怨霊の内の二人が将門と道真というのも偶然で不思議である。
藤原道長の六男は歌人として名高い正二位権大納言藤原長家、そして長家の孫が藤原資家、彼は妾腹だったのか?(まひろの息子かも・・それはない!) 官位は従三位だが無役だった
その頃(1125年頃)下野国八溝の山の中に、「悪鬼」「蟹の化身」などと呼ばれる人でも獣でもさらって喰らう化け物がいて、周辺の人々を恐れさせていた。「岩嶽丸」という、
都にも、この話は伝わりほおってはおけなくなり、討伐の兵を送ることになった、兵と言っても僅かな人数で、足りない分は現地徴兵と言うことになった。
そして、その大将に選ばれたのが藤原資家だった。
現地で岩嶽丸に詳しい者を雇い、三十人ほどの兵を引き連れて山中に入っていった、その中にわが祖先「Aの治部太郎」と云う者も加わっていた。
岩嶽丸の棲み処を探すのに地元で勢子数百人を雇ったが見つからず、お告げがあってそれで見つけることが出来た
そして洞穴に潜む化け物をついに発見、正体は1000年も生きているカニの化け物、背丈2m足10本で前の足は、ハサミ状、しかし資家と勇士によって退治して首を切った、その首は飛んで行って
「どうこうした」という様々な伝説になって残っている。(平将門の最後にも似ている)
その為、祟りや霊魂を鎮めるためにいくつかの神社が作られた
藤原資家は、この功により名前を須藤権守貞信と改めて、下野国を任されることになった、彼が下野黒羽城を構えた那須氏の祖先である。
源平合戦の那須与一も一族である。
またわが祖先の「Aの治部太郎」も手柄を立てて褒美として、須藤貞信の領地の内、一地方(郡)の地域で最大の集落の郷士として長百姓(のちの地主、庄屋、村地頭)の地位を得た
その後、A家の本家は昭和の戦争が終わるころまでは確実に続いていた
分家の我が家は父が昭和19年に廃家にしたが、それ以前明治の40年代に家運が傾き福島県、栃木県の各地に家族は離散した。
だから今も、それらA家の子孫が住んでいることは確かである。
大した因縁ではないが、道長のひ孫とわが祖先が家来となって一緒に悪鬼を相手に戦ったという伝承は面白い。
九尾の狐を祀った「玉藻稲荷」にも祖先の一人、A又右衛門という人が寛政12年(1800年)に鳥居一基寄進したと資料にある。
我が家の一番古い公の戸籍には文政12年(1829年)生まれのA利右衛門という名がある、間もなく生誕200年か。
岩嶽丸討伐と、九尾の狐狩りでは約150年の差があるから別であろう、狐の方は三浦介、上総介、千葉介が1155年に行ったとあるので違う件なのは確かそうだ。
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