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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 57

2024年03月31日 08時50分40秒 | 甲越軍記
 その後、安房守は家中の者共の非礼を勘助に詫びて、「今一度御屋形に貴殿を迎え入れるよう諭すので何卒、ここはこらえてお待ち願いたい」
というのに対して勘助は
「安房守さまのご厚情には感謝しかありませぬ、されども御屋形の気持ちが変わることは決してありません、それがしもまた義元公に仕官する気持ちは全くありませんので、どうか某を用いることはお忘れ下さい」と丁寧に断った。
そして言うには
「昔、鄭(てい)国に賢人あり、その名を列籞宼(れつぎょこう)と云う
家、至って貧しく、妻子共に飢えたる様子であるが少しも貧困を苦にすることは無かった。
その時の鄭の王は穆(ぼく)候という。 国の政治は宰相の子陽という者に任せていたが、子陽は国内に賢人のあることを知らなかった
ある人が子陽に列という賢人がいることを知らせると、子陽は驚いて早速に多くの米穀を牛車に積んで使臣を使わせて慇懃にこれを贈った

列子は、これを受け取らなかったので妻は嘆き、且つ恨み「世間では有能な人物は国に招かれて職を得て、妻子も何不自由なく暮らしているものを、国があえて米穀を下さり、しかも重職にて招いてくれているのにそれを断るとは、いったい何を考えているのですか?」と問い詰めた。
列子は「王が自ら儂を知っていて、これを贈り招いたのではない、人の口づてに知って招いたのだ、王や宰相と言う人は人の賢さ、狡さなどをきちんと見極めるのが仕事である、それを怠り、人が勧めたからと言ってすぐに採用するのは間違いである、人が儂を泥棒だと密告すれば、たちまち泥棒として投獄される道理である
人を信じて人を用いる者は、人を信じて捨てる危険も持ち合わせている」と言った、彼の言う通り、子陽は一年後に国人によって殺された、子陽に用いられることを拒んだ列子は命拾いをしたのである。

国を背負う人は、自ら人の良し悪しを探り、用いると決めたならば人の勧めを待たずに急ぎ用うるべきなり、また用うるべきでない者と見抜いたら、千人が勧めても用いてはならない。
此度、足下が再び義元公に某を推挙して呉れようとも、某一度不信を抱いた以上は当家に仕えることはありません」と言い、趙国の平原君の古話を持ちだして義元との器の違いを話した、そして今川家の法令規律の緩さが義元の性によることを話した。
その後、桶狭間にて義元が寡勢の織田信長に討たれたのも、今川家の法令規律の緩いことに原因があったのだ。

それでも諦めきれぬ安房守は再び城中に上がり、義元に思い直して勘助を召し抱えるように諌めたが、顔面に怒りをみなぎらせて、ありとあらゆる勘助への雑言を並べるだけで、席を去った。
それでも安房守は朝比奈、岡部の宿老にも義元説得を願い出たが、誰一人取り上げようとはしなかった。

 庵原安房守は、勘助のような逸材を手放すことに無念の心持であるが、義元、勘助ともに相容れぬこととなり、ついにはあきらめることとなった。

しかし、このような天賦の才を持つ策士が、もし今川の敵国に用いれられた時には我が国の危難となるのは必定と気づき、勘助をこの場にて殺すこともよぎったが、(いやいやそれは大丈夫のなすことではない)と思いとどまった。
そして考えを巡らせてみたところ、甲州武田家は当家とは縁家であることに気づき、これに勧めて仕官ともなれば今川家の後ろ盾ともなるであろうと思い、早速勘助に会って話した。





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