神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

1945年3月10日

2024年03月10日 08時11分59秒 | 日本史
 毎年、毎年3月10日「東京大空襲」記事を書いている
昭和20年3月10日の東京大空襲は、半年後の広島や長崎への原爆投下の伏線で、降伏しなければ日本人は一般人でも皆殺しにするぞというメッセージだったのだ。 現在進行中のパレスチナ戦争に似ている。

先日、例の如しで映画を見た「戦場の教室」ナチスが占領地のユダヤ人(当時は国家無き放浪の民)を集めて来ては集団虐殺する映画、その中でペルシャ人に成りすまして生き延びた男の話(実際には600万人ものユダヤ人が無抵抗のまま銃や毒ガスで殺されたそうだ)
イスラエルの人々は、こうした皆殺しの危険から生き延びて国を作った
そして地域最大の軍事力を持ち、今やパレスチナ人を虐殺している
人間とは自分の痛みは当然知っているが、人の痛みに置き換えることができない生きものなのか? 考えさせられる

広島、長崎の被爆を知らない人は少ない、若い人でも知っている、けれども東京大空襲も広島、長崎と同じ10万人以上が犠牲になったことを知っている人は割と少ない。
現在の東京23区の東半分、日本橋、上野、浅草、両国、 本所、深川、亀戸、砂町一帯にサイパン、テニアン、グァムから325機のB29爆撃機が1665トンの焼夷弾を投下して焼き尽くした。
焼夷弾とは爆発の破片で破壊や殺人をする爆弾と違い、家を焼き尽くすための油と火の爆弾だ。

1万mを飛べるB29は僅か2000mまで下って、確実な命中精度で爆撃した
日本軍も迎撃機を発進させたが、数も少なく高度が低いのが逆に災いして、高射砲も効果が薄れた、そのため確実に撃墜されたB29は2機だけだったと言われる。(被弾したり、海上に不時着した機は数十機あったようだが)

この時、19歳の父は調布の高射砲陣地から真っ赤に燃えている東京を見ていた
その下には自分の家があり、両親がいるのだ
行くに行けず、ただ見ているしかないその気持ちは、どうだったのだろうか。

翌日、特別休暇をもらって行ったが、亀戸は焼け野原になっていて、いたるところに死体が転がっていた。
十間川では浮いている遺体を竿にひっかけて陸に上げる作業が行われていた
焼け残った浅草松屋近くの防空壕には遺体が折り重なって、苦悶の表情で天を見上げていた
高熱で窒息あるいは蒸し焼きになったようだ、父の生涯で一番怖い光景だったと言っていた。

自宅もわずかに柱が残って、まだくすぶって煙を上げていたという
この空襲で、亀戸両親、浅草の叔母さん、帝劇で働いていた隣家の美人おねえさんも亡くなった
遺体は見つからなかった、たった2時間で10万人以上を殺した空襲
人間とはいったい何者なのだろうか? 
                                                                    合掌






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