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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

武田勝頼が真田の岩櫃城に行っていたら

2016年01月12日 09時58分18秒 | 明治維新の整理

武田勝頼は真田昌幸の進言を受け入れ、上州岩櫃城(いわびつ)に落ち延びた

従った家臣は3000、勝頼が落ち延びて2日後には徳川、織田の連合軍は甲斐に入り

武田重臣の小山田信茂を攻めたが、戦わずに小山田は降伏した

関東に強大な領地を持つ北条氏政は、徳川に連動して甲斐を攻めたが徳川.織田に

後れをとり、仕方なく真田の沼田城に兵を進めた。

真田昌幸は加津野信昌に1000の兵をつけ、沼田の後詰めに送った、戦意の低い

北条勢は、犠牲を出すばかりで退却した。

一方、甲斐全土を支配した織田、徳川はすぐには真田を攻めようとはせず、民心を

得る政策、残党狩り、軍団の整備を優先して1ヶ月を過ごした。

徳川家康は甲斐に、支援の1部隊4000を織田軍に残して、領地の駿府に戻った

織田の嫡男、織田信忠は兵6万を率いて真田の本拠、岩櫃城を目指した

遊撃として上田城にも1万5000を送った

こうなると武田の頼るのは、同盟を結んでいる越後の上杉景勝であるが、上杉も越中と

信濃深志(松本)の両面から伺っている織田勢に備えて身動きがとれない

ただ上杉、武田(真田)共に、背後だけは安心できるのが唯一の救いである

真田昌幸は、越後の宰相、直江兼続に密使を送った

越後はまだ天下の険「親不知」が要害になっているため、越中の佐々勢が攻め込む様子が無い

もはや、甲越は同じ宿命を背負って一心同体になるしか生きる道は無い、頭は2つでも体は1つ

として動くしか無い、今は必死の信濃に越後勢を密かに遊軍として送ってほしい

兼続は快諾した、そして越後勢としては精一杯の5000の兵を兼続自ら率いて、川中島を経て

地蔵峠越えで上田の東に散開させた

早朝、上田城からおよそ500騎が打って出た、寝込みを襲われた織田勢だが15000の圧倒的

兵力である、先陣は切り崩されたものの二陣の1000の部隊が真田勢を押し返した、といより真田が

退却を始めた、織田勢が追うとその横から突然、別の真田の一隊およそ300騎が突いてきた

これは上田城の西の葛尾城から押し出した部隊である

これにより、不意を打たれた織田の先陣が乱れた、そこに上田城からも入れ替わった新手の400騎が

押し出す、織田方も第二陣の右備え1000騎の新手を繰り出すと正面から激しいぶつかり合いとなった

真田勢は小勢故、次第に退きだしついに逃げ出した、葛尾勢は千曲川の北岸の丘まで下がったが

そこで体制を立て直す、それを南岸で織田方先陣1000騎が深追いせずに睨んでいる

一方、上田勢は城に逃げ込む、それを追った織田方1500騎が遮二無二に大手口まで攻め寄せたが

城方の弓鉄砲に反撃されて200騎を失い、後退した

後退をしたところに、今度は800騎あまりの城方がどっと追い打ちをかけると、慌てた織田勢は転がるように

逃げだし、パニックになったそれでまたもや100騎ほど失った

織田方は第3陣の2000騎を新手に一気に真田勢を殲滅せんと繰り出した、たまらず真田勢は敗走

しかし半分は城に逃げ込んだが、逃げ遅れた半数は川沿いに東を目指して敗走を始めた

手柄のたて時と織田勢の2000騎は追いすがる、およそ300騎の真田勢は千曲川の浅瀬を渡ると

織田勢も佐瀬を追いかける、真田勢は河原の小山の陰に逃げた、織田勢がそこに入った途端、一斉に

鉄砲が鳴り響いて、先頭の数十騎がたちまち打ち落とされた、正面右手からも再び鉄砲の音、これで

織田勢は合計100騎が犠牲になったが終わらない、3方向からどっと攻め寄せる大軍、僅か300騎と

高をくくっていた織田勢は目の前の大軍に腰を抜かした、それは上杉軍の援軍直江隊5000騎のうちの

1500騎であった、勢いが違う、作戦で敗走してきた真田300騎も加わりどっと織田方に攻めかかると

織田勢は立て直す間もなく、討ち取られ川を渡って敗走煮かかったが、土地勘の無いことと慌てているために

深みにはまって溺死する者、足を取られているところを討ち取られる者、おびただしい犠牲を出した

ようやく半数が川を渡って上田原の本陣を目指して逃げたが、上杉勢は付け入りどっと攻め込むと、すわ何事と

不意の出来事に、本陣の1万の備えは動転した、そこに敗走する織田勢が乱入してくる、さらに同時に上杉勢が

付け入ったので大乱戦となった、1万対2000であるが、こうなると攻め込む方に勢いがあり互角の戦いとなった

そこに上田城からも1000騎が押し出して横を突いたから、織田勢は崩れた、織田の本陣の備えから救援を送る

そのため大将の周りは、後詰めの500騎と本陣の2500騎のみとなった、その右後方から大音響が響いた

それは直江兼続自ら率いた上杉援軍の3500騎であった、名将兼続の采配の基、一糸乱れぬ勇敢な越後勢は

どっと、本陣に殺到してあっけなく織田方の大将、滝川一益の首を挙げたのである。

この上田原の戦いで織田方15000は壊滅した、生き残った兵は上州を目指して落ち延びた

 

この大敗北は、岩櫃城を囲んでいる織田信忠の本隊に程なく届いた

しかも上杉勢2万騎と上田勢2000が、ここを目指して進軍中という尾ひれまでついていた

織田信忠はこの城を攻めあぐねた、あまりにも険しい山城に加え、地の利を生かした真田勢

それに昌幸の知謀がものを言う

すでにここに攻め込んで3ヶ月、織田勢はいたずらに、この地にとどまったが成果がない

この別働隊の敗報を聞き、将兵の中には厭戦気分が怒り出している

そこに沼田城から矢沢頼康が率いる1500の精兵が闇に紛れて背後から夜襲をかけた

後に川越夜戦、桶狭間の奇襲と並び3大奇襲戦と言われる「吾妻真田夜襲戦」である

この戦で織田方は重臣を含め戦死480、負傷者1150、真田方は戦死50という

被害数としては少ないものの、織田の総大将の陣が僅かな真田勢に攻め込まれたショックは

大きかった、さらに兵糧を甲府から運ぶ織田の輜重隊が真田軍に襲われて、一部を奪われ

運べないものは真田によって焼却された

これによって織田方は甲府へ退却を余儀なくされた

そして1ヶ月後、織田信長が家臣の明智光秀によって殺された報が入った

信長の長男、織田信忠は供回り50騎のみで急いで安土に向かったが、塩尻峠で

武田の残党に襲われて戦死してしまった、あまりにも軽率であった

 

これを知った真田昌幸は直ちに甲州に兵を進めた、武田勝頼も同行したが一本の矢が

勝頼の、のど元を貫いた、これによって武田家は少年である武田太郎信勝に受け継がれ

真田昌幸が後見人となった。

矢が誰から放たれたかは今も歴史研究家の推測の範囲でしかない。

真田勢が武田の御曹司を擁して甲斐府中に舞い戻った、そして霧散していた武田家臣を

再び吸収すると瞬く間に30000の兵力になった。

同時に駿府の徳川家康も信濃に兵を進めて南信濃から木曽まで領地に加えた

真田は沼田からも、今の月野夜付近まで領土を広げた

そして、上杉への返礼に5000の兵を送った、上杉景勝は越中攻めを行って、越中半国を

手に入れた。

その頃、上方では大返しで明智を殺した羽柴秀吉が織田に変わって力を蓄えていた

それを快く思わない越前の柴田勝家とのにらみ合いが起こった。

これを知った真田昌幸は、今や親友となった上杉家宰相の直江兼続に持ちかけて

上杉、武田連合軍で越中に攻め入る事を決めた

昌幸35歳、兼続22歳の新進気鋭のコンビが誕生した

上杉軍12000、武田軍1万、合計22000を派兵、瞬く間に越中の織田家臣、佐々成政を

敗走させた、そして越中加賀の土豪士5000を加えて、越前に攻め込んだ

真田信幸、信繁兄弟も初陣として参加、大活躍を見せた

ここの領主、柴田勝家は羽柴秀吉との大戦で大半の兵を引き連れて出陣していたので

背後はがら空き、甲越連合軍は易々と越前北ノ莊まで手に入れた

一方、羽柴秀吉も賤ヶ岳で柴田勝家を破り越前に乱入した、そして逃げ道のない柴田は

自害した。

九頭竜川を境に羽柴と甲越連合がにらみ合う、だが秀吉は敵対は損とばかりに懐柔

してくる、真田昌幸、直江兼続との駆け引きは誠に面白いものだっった

それは皆さんも歴史教科書で習った通りです

その後、どうなったかは私から聞かなくても皆さん学校で勉強したから知ってますね

 

 

 

 

 



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (つー君)
2016-01-13 09:51:58
JIS-○○○とは何ですか?
先日にも出ていましたがU+2049
文字化けかなU+2049
返信する
Unknown (yottin)
2016-01-13 22:37:30
ときどきありますね
私も何だか知りません
文字化けじゃ無いと思います
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