神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

1945年3月10日 東京

2022年03月10日 14時19分32秒 | 時代検証
             韓国政権交代           

韓国大統領選、保守派野党のユン・ソギョル氏が勝利した、5年ぶりの政党政権交代だそうだ、だが大接戦で不安定な今後の政治が危惧されている。
ムン・ジェインの反日政治がどう変わるか興味あるところだ。

          悲劇をつくり続ける悪魔

いまロシアが15万の大軍でウクライナを一方的に侵略している、停戦会議が行われている、ウクライナは譲歩案としてプーチンが嫌がるウクライナのNATO加盟を取り下げると言った。
プーチンは、それだけでは不十分だと言って、ウクライナ軍の解体も要求している、これは日本が連合軍に負けて無条件降伏して軍隊を解体されたのと同じである。
軍が無いと言うことは、軍を持った勝利者にどんな不条理を行われても抵抗する術がない奴隷的な地位になるということだ。
1910年、明治の日本帝国は大韓帝国を解体して日本帝国に併合した、当時の大韓帝国は今の韓国と朝鮮を合わせた一つの国だったが朝鮮人すべてが日本人に転向させられた。国が無くなって、世界もそれを認めたのだ。
今、ウクライナはそうなるかも知れない、ロシアに併合されウクライナ大統領は処刑される恐れもある、世界は反対しながらも止めることが出来ない。
核戦争、77年前に終わった第二次世界大戦に続く第三次世界大戦をおそれてのことだ、しかも今度の戦争は最悪人類が滅ぶ核戦争の恐れがあるのだ。
核を持つ10カ国あまりの大国のいずれかが敵の攻撃で敗北しそうになった時、死なばもろともで核ボタンを押すだろう、それを欧米の強国が恐れてロシアに手を下せないでいる。

今、30歳未満の人に問いたい。 およそ75年前ころ、日本がアメリカと4年近く、中国と8年ほど戦争したことを知っていますか?
昭和16年の時点ではグアム島、サイパン島、台湾、韓国朝鮮、千島列島、中国の大連(遼東半島)、青島、ソ連の樺太の半分まで日本の管理下だったことを知っていますか?
東京が大正12年に地震で、昭和20年3月10日に戦争で一日で10万人以上の死者が出たことを知っていますか?

             首都防衛軍

昭和20年3月9日、アメリカと戦争している日本の敗戦がほぼ確定的になった。 一時はニューギニア、インドネシア、千島列島、太平洋の南の島々、ビルマ、現ベトナム。マレーシアまで進出していた日本軍。
それが20年には沖縄をアメリカ軍に占領され、グアム、サイパン、テニアンから全長30m乗員11人の史上最強の米爆撃機B29が出撃して、日本中の50以上の都市を連日爆撃した。
20歳の私の父は調布の高射砲隊に徴兵されてB29と毎日戦っていた、東京天文台のすぐ近くだ、同じ場所に調布陸軍飛行場があって、本州最強の陸軍飛行244戦隊も主力戦闘機三式戦飛燕(ひえん)でB29と戦っていた。

日本の戦闘機はゼロ戦を始め空冷エンジンが大部分だが、飛燕は同盟国ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットをモデルにした水冷式エンジンの戦闘機で、別名「メ式戦」ともよばれた。
水冷式の戦闘機は外国では多く、優れたものが多い、アメリカのムスタングP51、ロッキードP38、イギリスの名機スピットファイアーなどだ。
B29の性能は卓越していた、その巨大さと爆弾の搭載量、グアム島から東京を往復する長距離機、スピードも日本の戦闘機より遙かに速く時速600kmを超える、しかも日本機が届かない1万mの高度を飛んでくる。
もっともB29にしても1万メートルから爆弾を落としても目標に命中するのは至難の技だった。
こうした高空のB29は戦闘機ではなかなか撃墜できないから父たち部隊の高射砲の出番だ、しかし高射砲の弾も簡単には届かない高さだった。
それでも調布部隊の総司令部の久我山部隊には15cm口径の砲が合って、それは1万mに届きB29に命中したから久我山上空を避けるようになった。

調布、厚木の飛行部隊は近くにある中島飛行機工場を爆撃に来るB29を攻撃する。 命中率の悪さに業を煮やした新しいアメリカの司令官ル・メイはB29の飛行高度を3000mほどまで下げる命令を下した。
そのため命中精度は格段に上がって工場や港湾、軍事施設は次々と破壊された
しかしB29が撃墜される数も一気に増えた。
だが日本の最後の砦、硫黄島が占領されると護衛戦闘機が使えるようになりB29をP51など高速の重戦闘機がたくさんやってくるようになった。
日本機はB29になかなか近づけない、まずは戦闘機と戦わなくてはならないからだ、しかも敵は高速で防弾も優れている。

244戦隊の飛燕部隊は空中戦より体当たり攻撃に転換した、機銃を取り外しさらに不要部品も外し身軽になって飛び上がってB29に体当たりした、神風と違うのは生還も期したことだ。
体当たり直前に脱出してパラシュート(落下傘)で下りてくる、かといって難しいから戦死者もとうぜん増えていった。


             東京大空襲

話を3月10日に戻す、父の父母、すなわち私の祖父母はこの時、城東区亀戸に二人で住んでいた、祖父50歳、祖母45歳。
父は7日だったかに軍から休日をもらって一泊で家に帰ってきたので、祖父母は本当は5日頃には福島の三春へ疎開する予定だったのを日延べしたのだった。
それが結果的には命を失うことになった、父にとって痛恨の悔いとなった。
9日から10日になる深夜0時、東京は深い眠りに入っていた、そこに300機と言われるB29の編隊が次々と列をなして東京上空に入ってきた。
今の山手線の東側から千葉方面への一帯、上野、浅草、錦糸町、砂町、亀戸、千住辺りが爆撃目標だった。
最初に逃げ道を塞ぐために大きな四角形の四辺を爆撃して火災を起こした、それから四角の中に油をまき散らしたとい言う、それから焼夷弾爆撃を始めた。
不気味な音を立てて一ヶの親爆弾から多数の子爆弾が落下して屋根などにブスブスと刺さって火を噴く、木と紙の日本家屋はたちまち燃え上がった。
寝込みを襲われた人々は寝ぼけ眼で外に飛び出した、火がついた家を日頃の消火訓練どおりにバケツリレーで防火を始めたがそんなもので間に合うような火ではなかった。
町中が大火災になって、どうしようもなくなった頃、ようやく逃げ出したという。
祖父母も隣家の人と近くの香取神社に逃げたが、そこはもう一杯で入る余地がない、それで北十間川にかかる福神橋へと向かった、そこには駐在がいて「荷物は燃えるから捨てて逃げろ」と叫んでいた。
これは関東大震災の時の教訓である、地獄の炎で空気中の水分は蒸発して湿度は一桁であろう、走ってきた馬が突然燃え上がったという目撃者もいたそうだ。
千住方面へ逃げようと考えたがそっちも燃えさかっていて危険と感じて戻ったという、そこで隣家の家族と祖父母は別れた、祖父母は亀戸駅方面に行ったという。
隣家の家族は行き先に詰まって一か八かで千住方面明治通りを北上したら、ぽっかりと燃えていない奇跡の場所に出て助かったと言うことだ。
祖父母はそれっきり今日まで消息不明だ。

父がいる調布の基地からは東京方面の空が真っ赤に燃え上がっているのが見えた。 父に同僚が「亀戸辺りがやられているようだ」と言った。
夜が明けた、隊から被災地域出身の兵に半日の休暇が与えられて家族の消息を確かめてくるよう命令が出た。
父は鉄兜と靴の中に米を隠して持って出た、途中憲兵の検査があってひやひやしたが偶然近くでもめ事が起こって憲兵がそっちへ行ったので省線に無事乗ることが出来た。
上野駅で降りると目の前一帯が燃え落ちていて高層ビルなどほとんどなかった、上野駅から見えるはずがない筑波山が見えた。
上等兵が近づいて来て、「自分はどことかの(東京ではない)部隊から休暇をもらってやってきたが久し振りで方向がわからない道を聞きたい」と言った
「どこか」と聞いたら砂町だという、「それなら自分は亀戸まで行くから一緒に行きましょう」一緒に歩き出した。
どこもかしこも焼き
けただれて至る所に全焼、半焼けの犠牲者の遺体が転がっていて目を背けたくなる有様だった。
浅草の仲見世も焼け落ちて崩れさんさんたる有様だ、ここから浅草寺を越えて北にいけば叔母さんがいる浅草象潟町だが午後を過ぎているので亀戸へ急いだ。
亀戸で上等兵と別れて亀戸三丁目の自宅へ向かった、家の場所はわかったが焼け落ちていてまだくすぶって煙を上げていた。
そこで偶然、隣家の家族に会って先の話を聞いたのだ、亀戸駅から錦糸町公園へと探して歩いたが見つけることが出来なかった。
やがて時間切れになったので上野に戻って省線で調布の部隊に帰隊した。

翌日は再び休暇が出された、今回は一泊して良いとの事だった
それで浅草寺に向かった、叔母さんの安否を確かめるためだった、五重塔も何もかも焼け落ちていたが浅草神社は無事だったという。
境内には黒焦げの遺体が数えきれぬほどあって、山積みになっていたという、それでもと探してみたけれど顔がわからない遺体も多く結局わからなかった。
「ご本尊無事」という浅草寺が張り出した紙を見ると空しい気持になった、それから腹立たしくなった。
その時から神仏など信じるものかというかたくなな気持を持つようになった。
浅草象潟警察署の近く、浅間神社が目当てで象潟に着いた、叔母さんの家のあたりも全滅だった、それでも場所はかすかにわかったので行ってみると誰が立てたのか「**行方不明」と書いた板が立っていた。
そして父に仕事を見つけてくれた隣のお姉さんの父親がいて「**」も行方不明になったと言った。
叔母さんの旦那は偶然出張でここにいなかったので助かった。
浅草松屋デパート前を通ったとき一生忘れる事が出来ない悲惨な景色に遭遇した、松屋の防空壕の入り口は開いていて、中にはまだ遺体がそのままになっていた。
その人たちは酸欠で苦しんだのだろう、壕の中で蒸し焼きにされた人のその顔は、大きく口を開けて叫んでいるようだった、一人や二人ではない阿修羅の形相だったという。
それから亀戸に向かった、十間川では川に浮かんでいる死体をかぎ棒で引き上げているのを見た、結局両親は見つからず情報もなかった、救護所などで消息を聞いて歩いたがわからなかった。
錦糸町公園にも浅草寺と同じように焼死体が丸太を積み上げたように数えられないほど積まれていた。
3月10日深夜、二時間ほどの爆撃で10万人を越える無抵抗な東京市民が無残に殺された。 戦後、人道の罪を問うた者がいたが「勝者を被告ではない」と相手にされなかった。

それから足立に叔父さんの家族がいるのでそっちに回ってみた、幸いに叔父さんの家は焼けていなくて無事だった。
無愛想な叔父さんの後妻(後に中学生の私はこの夫婦に会ったが、その時でさえ水商売の匂いがする細くて小顔の冷たい美人だった)が出てきた、妊娠していた(翌年三女が生まれた)
叔父さんも出てきたが話しているうちに泣きだした「兄貴も妹もよお・・・」号泣するだけなのでどうしようもなく、隠し持ってきた米を叔母さんに渡したら急にえびす顔になった。
結局、何も得ることがなく傷心のまま帰ることにした、泊まるところを考えなければならなかったが東京の半分が焼け野原で簡単には見つからない。
結局、兵隊に行くまで働いていた品川田町の会社を訪ねた、そこも無事だったので工場の中で泊めてもらった。    おわり




 


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