神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

戦争に負けて79年が経った

2024年08月13日 19時24分41秒 | 日本史
 日本が有史以来初めて対外国との戦争に負けたのは昭和20年(1945年)
それも軍、民あわせて300万人以上が戦争で死んだ、そして東京を始め主要都市50以上が爆撃、砲撃で壊滅的被害を受けたという悲惨な戦争
我が家の先祖代々の浜松の寺も艦砲射撃で住職ごと破壊(焼失?)されたという
数分で10数万人を殺した原子爆弾投下が2度、2時間で10万人以上を焼き殺した東京大空襲(祖父母が亀戸で犠牲になった)と世界でも例のない大虐殺を5か月で3度も受けた日本はそれ以上戦争継続をすることはできなかった。

もっとも一部軍の上層部では戦争継続を叫び、アメリカ軍を本土に上陸させて一気に殲滅する、あるいは刺し違えるといった考えもあったようだ。
そのために多くの航空機や燃料、武器弾薬を各地に隠しもっていた、父が入隊していた調布の陸軍飛行場にも掩蔽壕の中に戦闘機を隠して数十機が敵の攻撃を免れてあった
(終戦直後の8月末には武装解除の為、調布飛行場の飛行機が整列した、三式戦、四式戦ほか50機弱が残っていた。)

この場合、日本はいかなる被害を受けても降伏せず、一億総国民(一億はいなかったが)玉砕まで視野に入れていたようだ
皇居が爆撃される恐れもあり、天皇陛下を長野県の松代にお迎えするため地下要塞を作った(作っていた)
もし本土決戦が実行されていれば、ベトナム戦争、日中戦争、ヨーロッパ戦線同様に民間人も巻き込まれて日本人の何割数千万人が死ぬ事態が起こっただろう、アメリカ軍の死傷も100万人などと想定されたが、そうなればアメリカだって、のこのこと上陸しない
原爆を更に数発、制空権を握っているから爆撃も更に中小都市まで爆撃、制海権も握っているから日本沿岸から艦砲射撃と徹底的に無人の荒野としてからの上陸作戦となっただろう、軍隊が隠れていそうな最終決戦地、長野や岐阜、東北の山間部、山林は焼き尽くされたかもしれない、なにしろ国土の90%以上が山地山林の日本だから隠れ場所は多い

北からはソ連軍が北海道、東北に上陸してきたかもしれない
ソ連軍は世界初の社会主義国家であり、独裁国家であるからアメリカとは異なる非情な行動に出る恐れがある
事実、戦後日本軍を武装解除した後、日本に帰さず、労働力として極寒のシベリアに60万人以上を捕虜として連行して、強制労働を数年間させて6万人とも言われる病死、過労死、脱走死があった。

勝利国による日本分割案もあったようで、日本をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国で分割統治するという案だ。
北海道、東北はソ連が、中国は四国を、アメリカが関東、中部、沖縄など、イギリスは中国地方、九州を統治、北陸、関西は米中が共同統治
東京市は悲惨で4か国が共同統治となる、ベルリンを見ればわかるがソ連、中国が居留する区は社会主義、その他は自由主義区域となる
恐らくベルリン同様、「東京の壁」が作られただろう。

しかしアメリカは政治体制が異なるソ連の日本統治を恐れ、徹底的にこれを排除する様々な努力をした
日本に原爆投下したのも、ソ連を脅して発言力をけん制するためだったという話もある
あるいは現在の北方領土を含む千島列島、樺太の領有を無条件で黙視したのも懐柔策の一つだったかもしれない。
そもそも終戦まじかなタイミングで満州に突然攻め込んだのも、アメリカとの密約だったという話もある
国土が荒れ果て疲弊し1500万人近い死者が出た中国が日本統治に参加するのは現実的でなかった、しかも共産軍と国民党軍がいまだ内戦状態だった。

イギリスもアメリカに委任した形で、結局ソ連を黙らせたアメリカ一国の占領になったのは日本にとって不幸中の幸いだったかもしれない。
だが日本の軍備は解体されて日本は素っ裸にされた、明治憲法も焼却されてアメリカ指導の新憲法が作られて天皇の神格化は否定されて人間天皇となり、政治関与も禁じられて「国民の象徴」という?の表現に定められた
この憲法で軍備を持たない、戦争しない平和国家日本となった。
それに日米地位協定というのも作られ、日本はアメリカの言うがままに操られる立場となった、今も新憲法と同じく、その効力は続いている
占領されて支配され国内経済のみの日本国の主権は昭和27年まで消えたのだから、それも仕方ない。

一方でわれわれ戦後生まれは今日まで戦争の体験、あるいは軍隊生活を味わうことなく生きてこられた
これは新憲法によるものだ、アメリカは早くも昭和25年には、アメリカの支配下として利用できる日本軍を失くした失敗を感じただろう、それは日本の隣に起きた朝鮮戦争の為だ
韓国軍はあっという間に釜山に追い詰められた、敵は北朝鮮軍とそれを支援する中国共産党軍だった
歴史上初の自由主義陣営と社会主義陣営の戦争が始まった、アメリカは何が何でも朝鮮半島が共産化するのを阻止する必要があり、軍を仁川に上陸させて逆転に成功した。
日本占領軍からも朝鮮に派遣された部隊は多かっただろう、そのため日本の進駐軍が減った、それを補うため苦肉の策で日本人による予備軍を創設させて「警察予備隊」という名を冠した。
航空機や戦車は持たないが軍備は軍隊そのもので警察などと言うレベルではない、しかも5年前までアメリカ相、中国相手に戦争していた現役兵だから戦争の仕方を知っている。  今の自衛隊の前身である、こうして海外派兵しない、戦争に参加しない軍隊が日本に誕生した
今や世界でも10本の指に入る軍隊となっているが憲法上、軍隊とはならず敵からの攻撃に対しての反撃にも国会の承認が必要な組織となっているから、現場からも自民党からも憲法を改正して世界各国と同様な軍隊として認め、明記しようという気運がはっきりとでてくるようになった。
一方では日本の再軍国化を懸念する勢力もあり、なかなか難しい問題となっている、平和に慣れた国民に軍隊はピンとこない、だから三島由紀夫が決起した衝撃的な行動にも同調者は少なく、関心を持つた人は僅かであった
国民の間では憲法改正、軍隊の承認などの話はほとんど出てこない
敵国家が攻めてきたらアメリカ軍と自衛隊が何とかしてくれるだろうくらいに思っている
核攻撃をちらつかせる敵国家があっても、アメリカの核の傘に入っていれば攻撃はないだろうと思う人が多い
それに核攻撃があれば「おしまい」と割り切る人も多い、そもそも核シェルターがどこにあるかも知らないし、地方には地下の横断歩道くらいしかないのだから
東京、大阪などには地下街や、地下鉄が発展しているから上野駅の新幹線ホームや大江戸線に逃げ込めば少しは気休めになるかもしれないが、やはり多くの犠牲は出るだろう、だからじたばたしても仕方ないという気分はある。

国民に祖国防衛の思想はまだまだ根付かないようだ、だがオリンピックなどの国家の威信をかけたスポーツには熱くなる人が多い、私もそうだ
日本が勝てば大いに舞い上がり、負けると腹立たしい、どんなに大人しく、穏やかに見えても使命感や恨みが芽生えると人間は一瞬で変わる
日本人が戦争や軍隊を嫌うのは、あの鉄拳制裁と軍体調言葉、粗暴な上官の命令を映画やドラマで見て、あの封建的、前近代的なイメージを持っているからだろう、それと悲惨な戦争フィルムも嫌と言うほど見ている
おそらく世界でもっともそういう映画や写真、本を見ている国民が日本人なのだろう、そのくせウクライナやパレスチナの現実の悲惨な戦争には同情するが、それ以上ではない。

世界から武器が無くなれば戦争も無くなる
戦いたければオリンピックでカタを付ければよいと思うが、そうはいかない
火を噴いて飛び交うミサイル、都市に落下して爆発、吹き上がる炎と煙
あれの代わりに花火を打ちあえば、どれだけみんなが喜ぶだろうかと花火の季節になるといつも思う。



心もよう  井上陽水






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (168) 長尾家 81

2024年08月13日 09時11分14秒 | 甲越軍記
 天文二十一年、景虎は二十三歳と相成った
昨年のことを思うに、ついに国内を平定し朝廷の公家衆、足利将軍家の覚えもめでたく、国内の諸将もみな景虎になびいた。
すべてはうまくいったと思われたが、人心は永遠不動ではない、景虎に真髄する将も多けれども、心から服従しているわけではない将も多い
越後は北西の羽前(山形)から南東の越中(富山)まで長く伸びていて今風に言えば凡そ300kmに渡る広大な国である
それゆえに府中がある上郡、栃尾、三条の中郡、阿賀野川以北の下郡では人の心、風俗、方言も異なり、特に新発田から北は揚北(あがきた)と呼ばれて独立独歩の将が少なくない。

人心測りがたく、今は服従しているが、誰ぞが反旗翻せば、それに同調する者も多い
そもそも越後の国人とは、それぞれに出自が違い、しかもそれぞれが祖先を誇りに思っている
それらの出自を申せば、右大将頼朝の家人として累代伝わる士、桓武の後胤、三浦、畠山、城の嫡流、宇多源氏の大江、中原の子孫、南家北家の藤原氏、為憲、秀郷の後胤、二階堂、工藤の類、または池大納言につながる者、新田義貞の士、また上杉憲顕のもとで武功を挙げた者共の家柄などなど、それぞれにわが家系を誇り、管領上杉家をこそをまことの主と思い、長尾家は上杉家に属し我らと同輩と侮る者も出て来た。

(時代は16世紀半ば、まだ日本中に数千の大名、小領主らが独立独歩している時代である
ある程度有力な者が出てくると、淘汰が始まり敵対した者は滅ぼざれ、味方した者はその強者の家臣団に組み込まれていく
甲斐の武田家などはその典型で、すでに一国の王者となっており、そもそも武田家は守護の家なので甲斐の支配者になっても誰も威をとなえられない
しかし越後は違う、越後守護は上杉氏であり、上杉氏は関東一帯を支配する(はずだった)関東管領の一族で、景虎の家は守護を補佐する守護代の家であるから武田家よりワンランクも2ランクも家柄は低い
因みに織田信長の家は守護代の一族だが分家で、守護代の代官に過ぎない

ともあれ、当時の越後は広大でなかなか守護と言えども隅から隅まで支配できない、それゆえに小領主らは国法を無視して勝手に戦をして侵略したり、あるいは謀反を起して越後の主になろうとする者もいた
景虎の父、為景もまた守護を襲って殺している
しかしここに景虎が有力な領主を味方に反乱者を次々と成敗して、その強さを小領主たちに見せつけたため、みな景虎を恐れてその傘下に入った
これで治まるかと思ったが、それぞれが家柄を誇示して長尾家を侮り命令に従わない横着者があちこちに出てきたのだ
そもそも景虎の家臣などと思っていない、ただ景虎の味方として協力している程度の思いだ、同じ国主であっても武田晴信と長尾景虎では支配力がまるで違っていた)

景虎は三略の一文「主従と同じき者は栄え、主従と同じからざる時は滅ぶ」を思い、君臣が信無き時は、いかにしてこれを防がん
諸将に起承文を書かせ、人質を取るのが良いが、これを実行すれば諸将は我の若輩を侮ってたやすく従うとは思えず、逆に乱を招く恐れありと躊躇する
さりとてこのまま放置すれば諸将は思い思いに行動して、心はますます離れてしいては我が家を滅ぼす者も出んとは言えない。
景虎はかれこれ思いを巡らし、ついに一計を案じた。