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一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

ある普及指導員の苦悩

2009-11-10 01:07:56 | 愛棋家
10月25日(日)の社団戦最終日のあと、わが「LPSA星組」は、選手6人で飲みに行った。私も含めた5人は「金曜サロン」の常連だが、最も年配のように見える紳士氏は「水曜サークル」に通っているとのことだった。
紳士氏は寺下紀子女流四段と旧知の仲で、それが縁で通い始めたらしい。水曜サークルはどちらかというと初心者向け教室というイメージがあったので、有段者の紳士氏では物足りない部分もあるのではと推測したが、蛸島彰子女流五段ら講師陣の指導は懇切丁寧で、なんの不満もないとのことだった。
さらに聞くと、なんと紳士氏は日本将棋連盟公認の普及指導員であった。
全国に500名いるといわれる普及指導員だが(もっといるかもしれない)、実際になるのはむずかしい。アマ三段の実力を持たなければならないうえに、免状を申請、取得しなければならぬ。連盟には年間にいくらかの会費を払わなければならないし(いただくのではない)、中には会費をつき返されるケースもある。
とにかく普及指導員とお話をする機会はなかなかないので、ここでいろいろな話を聞いた。
それらを総合すると、現在紳士氏は週末になると近くの公民館を借りて、おもに近所の子供たちに将棋を教えているらしい。普及指導員になると、カード型の「棋力認定証」を進呈できる特典があって、紳士氏によれば、子供たちにその認定証を手渡すとき、子供たちが見せる笑顔が、普及活動の最大の励みになっているという。
素晴らしいことだと思った。私だったら、大事な週末をボランティアみたいなもので費やさない。棋力向上よりも、女流棋士とお近づきになりたいとサロンに通っている私と紳士氏とでは、将棋に対する姿勢が違うのである。
ただ「普及」という点では、紳士氏も壁にぶつかっているという。現在公民館などへ定期的に通っている子供たちは、まあこれからも将棋を趣味にしていくだろう。しかしそれ以外、まったく将棋に触れる機会のない地域での普及をどうするか、それに頭を悩ませているという。
実はそれ、私も考えたことがある。たとえば金曜サロンやマンデーレッスンに通っている将棋ファンは、ほっといても将棋は続けるから、普及の必要はない。真の普及とは、将棋を知らない人へのアプローチではあるまいか。
紳士氏は、いまそれをやろうとしている。あまり将棋が浸透していない地域で、新たな将棋ファンを開拓しようとしているのだ。
しかしそれには、マンパワーが足りない。指導員さえ不案内な地で、将棋教室を行う場所の手配をし、参加する初心者を募り、テキストを作り、必要ならば別の講師にもお越し願わねばならない。なにしろ企画会社がやるような仕事を、素人がひとりで興そうとしているのだ。その熱意には、ただただ頭が下がる思いである。
では私にできることは何か。探せばあるのだろうが、前述したように、やる気は起こらない。私の将棋に対する情熱なんて、しょせんその程度のものである。
あとは、普及指導員の横の繋がりを密にすることであろう。500人も普及指導員がいれば、普及したい地域の近くに、指導員が在住しているのではないか。必要ならば、LPSA事務局に相談してみるのもいいだろう。
酒の席だったが、紳士氏の地道な活動が実を結ぶことを、私は願わずにはいられなかった。
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「西の谷川、東のK」

2009-09-15 00:49:48 | 愛棋家
7月31日、LPSA金曜サロンに行くと、事務所の入口で鋭い目をした男性と目が合った。私からは「眼」しか見えなかったのだが、もしや…と思った。
この日は深浦康市王位対木村一基八段との王位戦七番勝負第3局2日目が行われており、大盤ではその局面が並べられていた。
指導対局が終わって一息ついていると、その男性が出てきた。やっぱり、と思った。彼は全国的に有名な、アマ強豪のK氏だった。
K氏は中学生のころから頭角を現し、私の記憶が確かならば、「西の谷川、東のK」と言われたものだった。「谷川」とは、もちろん谷川浩司九段のことである。つまりK氏は、それほどの逸材だったということだ。
いまのアマチュア強豪でいえば清水上徹氏クラスで、私たちヘボクラスとは、一線を画していた。たしか昭和54年には、高校1年生ながら「第3回・読売アマチュア日本一決定戦」で、全国3位に食い込んだと記憶している。まさにK氏は、私たち同年代のヒーローであった。
当然マスコミも、彼が奨励会に入るものと思っていた。しかし本人は頑なに拒否した。その理由を私は、近年になって、どこかのサイトで読んだ。それは私から見れば実に他愛のないものだったが、本人にしてみれば、毎日の生活から将棋を遠ざける、必要にして十分な理由であった。
私が高校1年のとき、東京・将棋会館で高校生の将棋大会があった。K氏は3年生で出場し、個人戦では当然のように勝ち進み、決勝まで進んだ。決勝の相手は三五(さんご)という珍しい名字の選手で、たまたま私も対局の合間で観戦したのだが、決勝戦は角換わり腰掛銀になっていた。
ただ、その将棋は手詰まりになり、ここがいま考えてもおかしいのだが、(K氏が先手だったと仮定して)先手の歩が8五まで伸びていた記憶がある。
K氏が、玉を8八~8七の上下運動を繰り返すが、後手も似た手で応じる。最後はK氏が玉を8六まで上げて挑発したが双方打開には至らず、当時のルールである「同一手順3回」で、千日手になった。
ここで自分も新たな対局を1局指し、終わってしばらく経つと、「よっしゃあああ!!」という雄叫びとともに、ガッツポーズをする三五氏の姿があった。
なんと、その指し直し局は、三五氏が勝ったのだ。
いまは、いくら名の通った強豪に勝利しても、こんなあからさまに喜びを表現する高校生はいない。しかし不沈艦のK氏に勝つということは、それほどの勲章だったのだ。
「なんでやー!!」
と叫ぶK氏。このとき私は、K氏の「終焉」を見た気がした。
その後K氏は、19歳1級で奨励会に入会したと記憶する。しかしこれは方針が一貫していなかった。もし奨励会に入るなら、中学生のときに入るべきだったのだ。将棋の研鑽を積んだとはいえ、アマの世界とプロの世界での修行では、おのずと差が出るものだ。
K氏は三段まで昇段したが、年齢制限で退会した。やはり途中のブランクが響いたのだと思う。もしストレートに将棋の道を歩んでいたら、プロ棋士K、が生まれていた。
その後K氏は、「週刊将棋」の編集長などを経て、現在は奈良県在住と聞いていた。
そのK氏が、いま私の目の前にいるのだ。夢を見ているようである。
「いつもブログ読んでます」
と言われ恐縮する。以前片上大輔六段にも同じことを言われ、やはり恐縮したものだが、K氏はなぜ私がこのブログの書き手と判ったのだろう。胸のプレートを見たのだろうか。
「あのマイナビ女子オープンの観戦記は面白かったですよ。エンターテイメント性があってよかった」
以前このブログに書いたものである。お世辞だと分かっていても、週刊将棋の元編集長にそう言われれば、やはり嬉しい。
その後話を聞くと、どうも駒込サロンに遊びにきて、いままで「どうぶつしょうぎ」のシール貼りを手伝って(手伝わされて)いたらしい。
「どうぶつしょうぎ」は、現在はメーカーからも市販されているが、国産の木材を使ったオリジナル版は、LPSA女流棋士などが実際に加工した、文字どおり手作りのものである。こんな貴重な商品はほかにないのではないか。
K氏は、事務のアマ強豪であるS氏と、王位戦の検討をする。終盤のあらゆる変化が、めまぐるしく現れる。私もエラそうに口を挟むが、まったく読みが追い付かない。棋力の差を痛感する。
ふたりが親しそうに話しているのを見ながら、アマ強豪(プロ棋士も含む)にしか存在しない将棋の世界があることを感じ、私は少し、彼らに嫉妬した。
その後K氏は、「上野で用事があるので」と足早に退室した。
一度は将棋から離れたものの、再びプロ棋士を志し、その夢も半ばで破れ、現在も将棋の普及に従事しているK氏。
数奇な人生、と言ってしまえば、そうなのだろう。プロ棋士になることが幸せとは限らない。厳しい勝負の世界を味わわない幸せもある。しかし、K氏の人生の選択に悔いはなかったのだろうか。もし次にお目にかかる機会があったら、訊いてみたいと思う。
…いや、こういうことは訊かないのがスジというものだ。もしお会いできたら、またブログの感想でも聞くとしよう。

追記:読者のK氏から、「西の谷川、東のK」は、「東の泉、西の谷川」である、とご指摘をいただきました。記憶を呼び起こしてみると確かにそのとおりで、K氏および泉正樹先生にお詫び申し上げる次第です。
ただ、「西の谷川、東のK」は、私がかなり若いころから勘違いしたまま覚えていたので、本文はあえて直さないことにいたします。
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もしR氏のブログがなかったら

2009-06-09 00:34:34 | 愛棋家
日本女子プロ将棋協会(LPSA)ファンクラブ会員のR氏といえば、同じLPSAファンなら知らない人はいないと思う。
LPSAが開講しているマンデースクールや金曜サロンでの指導対局、1DAYトーナメントやファンクラブイベントなどを、自ブログで詳細にレポートしてくれているあの方、といえば、「ああ!」と膝を打たれるはずだ。
豊富な写真を掲載し、イベントに参加しなくても参加した気分に浸れる各レポートもいいが、このブログの白眉は、LPSA棋士との指導対局を紹介する自戦記であろう。
将棋はすべて飛車落ち。図面を多く載せているため、将棋盤なしでも棋譜が追える。R氏は有段者だから快勝譜も多いのだが、やはり面白いのは、優勢の局面を造りながら、逆転される将棋だ。上手の妖しい勝負手に困惑し、追い込まれていく描写は絶妙を極める。思わず「その気持ち分かる!」とニンマリしてしまう。山口瞳の名著「血涙十番勝負」に匹敵する名稿と思う。
R氏の素晴らしいところは、女流棋士に畏敬の念を持って接していることである。勝って驕らず、負けて腐らず、いつも女流棋士に教えを請うという姿勢を貫いている。勝って驕り、負けて熱くなる私とはエライ違いだ。
R氏はまた、白扇を用意し、指導対局に勝つとサインを頂戴することでも知られていた。かつてはR氏個人で臨んでいたが、現在はそのシステムが発展し、「扇子サイン勝負」として、多くの会員が楽しんでいる。基本的に女流棋士のほうは、会員にサインをしたくない、というスタンスである。ゆえに単なる指導対局から、多少なりとも真剣勝負の面白さ、張り合いみたいなものが加味されることになったわけで、これはR氏の大ヒットといえよう。
そんなR氏だからブログの愛読者も多く、私も何回かコメントを書かせていただいた。
しかし私はそのコメント欄に、昨年暮れに行われた1DAYトーナメント「フランボワーズカップ」の感想を長々と書いたり、私と女流棋士との詳細な対戦成績を書いたりした。これはヒト様のブログに書く内容ではない。
この時、それなら自分のブログを作ってそこに書こうか、と考えたのだった。だからもしR氏のブログがなかったら、私の将棋ブログはなかったかもしれない。そのキッカケを作ってくれたR氏には、とても感謝している。
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もしM氏が言わなかったら

2009-05-26 01:48:13 | 愛棋家
ごく平凡な社会人が、ある業界では有名というケースはよくある。将棋ペンクラブ幹事のM氏はまさにそんな方で、将棋関係者でM氏の名前を知らなければモグリだろう。私もペンクラブ会報などで、名前だけは記憶していた。しかし交流会にはあまり参加していなかったので、顔までは存じ上げなかった。
M氏はブログを開設しているが、初めて見たのはいつだったか。昨年6月に船戸陽子女流二段が日本女子プロ将棋協会(LPSA)に移籍表明したときは、M氏のブログでその見解を読んだ記憶があるから、その前から愛読していたことになる。
トップページには「近代将棋」に連載されていた「将棋ペンクラブログ」のネット版、と説明があり、なにより毎日更新されているのが素晴らしい。1回あたりの文章量はそれほど多くないが、「将棋」というキーワードから題材は四方八方に拡がり、毎回違った話題が楽しい。この、もう少し読みたい、という文章量が絶妙なのである。
やがて「船戸陽子女流二段の決心」が載った将棋ペンクラブ秋号が発行されると、「将棋ペンクラブ秋号を読む」というタイトルの記述があり、注目して読むと、私の拙稿のあらすじが、コンパクトに紹介されていた。
やはりM氏の文章力はタダモノではない、と思った。
その数日後のブログでは、10月に行われる「将棋ペンクラブ大賞贈呈式」の話題になり、このときは私も初参加の予定だったので、お会いできることを楽しみにしていた。
そして当日。船戸二段に拙稿を読まれておろおろしたあと、私は会場内で、M氏の姿を見つけた。
いままでお会いしたことがないのに、なぜM氏が分ったのか――。
当時M氏は同誌に「広島の親分」というノンフィクションドキュメンタリーを連載しており、バトルロイヤル風間画伯が描くイラストの中に、M氏のイラストが掲載されていたからだ。
さすがバトル氏である。そのイラストと、会場にいる男性があまりにもそっくりで、思わず噴き出してしまった。
一言挨拶に行くとやはり同一人物で、その絵のとおり温厚な方だった。M氏は私の文章も好意的に捉えてくれていたようだった。
その日は二次会にも参加しM氏も同席したと思うのだが、テーブルが違ったため、確たる記憶がない。
その後M氏とは今年3月に「LPSA府中けやきカップ」の会場で5ヶ月振りにお会いし、将棋ペンクラブ春号の発想作業で再びご一緒する機会に恵まれた。
このときの酒席で私は、以前書いたとおり湯川博士統括幹事に質問攻めに遭うのだが、その中に「キミはブログをやっているか?」というのがあった。
まあ休眠状態のブログはあったのだが、めんどうなので「否」と応えると、「それは良い」と、なぜか褒めてくれた。だがここでM氏が、「一公さんもブログやってくださいよ」と何気なく言ったのが、意外に私の心に響いた。
告白すれば、それまで将棋のブログを考えなかったこともない。しかし書くべき将棋の話題はそんなにないし、いついつにタイトル戦があって、誰々が勝ったから良かった、などとお茶を濁すのも、それが自分のスタイルとは思えない。だから開設を躊躇していたのだ。
そこへM氏の一言があったわけだ。湯川統括幹事とは違うタイプの、文章の達人が所望したということは、私にブログを書き続けられるチカラがあると、M氏が見極めたことにならないか。
私は勝手にそう解釈し、本年4月1日、ブログを開設するに至った。だがこの事実はごく一部の人に知らせただけで、しかも決して口外するな、とキツく釘を刺しておいた。だからこのブログの存在は、誰にも知られていなかったはずなのだが…。
あれは5月9日(土)、駒込のLPSAサロンで「中井塾1日体験会」に参加したときだった。同じく講習を受けていたM氏にまたもお会いし、「ブログ見てますよ」と告げられたときは、さすがに私も驚いた。
たぶんM氏は、ふだんから将棋関係の記事をチェックしているのだろう。まあ、読者がいるのは有難いことではある。
そして私はといえば、いざこのブログを開設してみると、将棋に関する雑感や金曜サロンでのエピソードなど、書く話題には事欠かず、「記録」として残すには、絶好のツールとなった。
もしM氏があのとき、「一公さんも書いてくださいよ」と言ってくれなかったら、このブログはなかったかもしれない。その意味で、M氏にはとても感謝している。
いまはただ、ブログを嫌っていた?湯川統括幹事の反応がコワいだけである。
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加賀さやかさんと話した

2009-04-21 19:05:21 | 愛棋家
加賀さやかさんは著名なイラストレーターだが、かつて「近代将棋」や「NHK将棋講座」に連載も持っていた、熱烈な将棋ファンである。現在は「将棋世界」で、内藤國雄九段のイラストを見ることができる。
おしゃれな着物の数々や小梅ちゃんのような髪型など、一度見たら忘れられないお姿だ。
加賀さんは将棋の各種イベントやタイトル戦などにも精力的に参加されていて、将棋関係者との交友範囲もかなり広い。アマ高段者で加賀さんの名前を知らなければモグリであろう。
私も何度か日本女子プロ将棋協会のイベントにお邪魔したが、加賀さんの姿はよくお見かけした。
将棋ペンクラブの幹事もされていて、関東交流会には必ず顔を出される。しかし私は、加賀さんと話をしたことが一度もなかった。
私は極度の人見知りなので、自分から声をかけることはない。
また加賀さんのほうも、私がペンクラブ会報に駄文を載せているので、顔と名前は認識しているはずだが、声をかける人物にまではランクされていないようだった。
とはいうものの、加賀さんとはこれからも各所で顔を合わせそうである。いずれどちらかが話しかけるときが来るのだろうが、ここまでくると我慢くらべだ。
私は、こちらから話しかけたら負け、と勝手に「勝負」していた。
そんな折、3月の将棋ペンクラブ最新号の送付作業で、加賀さんと席を同じくする機会がきた。そのときはお互い黙々と作業をしていたので会話はなかったが、その後入った居酒屋で、ついに話をした。
内容はなんだったか。大した話ではなかったのだが、ついに加賀さんと言葉を交わして、前々からの課題をひとつクリアした気がしたものだった。
あ、肝心なことを忘れていた。
今回、どちらから話しかけたのだったか――。
それがいまもって、まったく思いだせない。
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