戦後70年・安倍談話の危険性「戦争のできる国へ」

2015-01-27 10:22:29 | 日記

 戦後70年・安倍談話の危険性「戦争のできる国へ」

      頑なに主張する「8月15日を敗戦の日と」

 

  毎年の8月15日の報道に、ある紙は「終戦」、ある紙は「敗戦」と異なる表現が使われる。しかし、私は頑なに「敗戦」という表現を使い続けている。

  今年は戦後70年。歴代首相が表明をしてきた「談話」がとりざたされているが、これに対しする安倍首相の対応は極めて不可解である。

  村山談話のキーワードがある。それは「植民地支配と侵略・アジア諸国民に対する多大な損害と苦痛・歴史の事実を顕著に認める・反省とお詫び」である。ここに、かつての日本帝国が挑んだ戦争とその戦争で敗れ、国土は焦土化し310万人の犠牲を出したこと。その上に立った反省から「二度と戦争をする国になってはならない」とする日本国民の決意が「村山談話」となって表現され、小泉談話に引き継いだ。

  政治家・安倍晋三氏にとっては、それは「侵略戦争を挑んだことを認めることになり、そして敗れた」。それはなんとしても認められないというものとなるのだろう。しかし考えてみたい。これは安倍晋三氏も生まれる前のことである。かつて日本は朝鮮・中国に派兵し、そして傀儡政権「満州国」を設立した。これは厳然とした事実である。現に当時「軍国少国民」であった私たちは、大本営が発表する戦果に従い喜々としてアジアの地図を赤く染めていったことを忘れることはできない。そして日本の国土の広がりを喜んだ。しかし、その赤く染められた国の国民はどうであったのか。学校では日本語が強要され、護国神社が建てられ参拝が強要され、そして名前までも奪われ日本名とさせられた。さらに、建設・土木、そして炭鉱の現場の先端には多くの現地人が徴用された事実は消すことができない。軍の強制徴用の是非はあれ、そこに「慰安婦問題」も結び付く。

  さて安倍首相は例のごとく「談話の内容については有識者(御用)会議」で討論をすると述べている。しかし、日々の記者会見は黙認できない。

  年頭の記者会見(伊勢市)では、「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たすか、英知を結集して考え、新たな談話に書き込んでいく」と述べ、あわせて「アジア諸国に対する植民地支配と侵略への反省と謝罪を表明した1995年の村山富市首相談話(村山談話)の立場を継承する」考えを改めて示した。

  そして25日のNHK討論番組である。「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権としてこの70年をどう考えているかという観点から出したい」と述べた。また戦後50年の村山談話と60年の小泉談話がともに使った「植民地支配と侵略」や「痛切な反省」、「心からのお詫(わ)び」などの「キーワード」をそのまま継承することに否定的な考えを示したものとなっている。ここにも安倍首相の「サプライズ的政治演出」が見え隠れしている。

  だからこそ、今年の8月15日を頑なに「敗戦の日」と主張していきたいと思う。