住民の、意識の間隙をぬって進める「原発再稼働」の狙い

2014-06-10 12:30:47 | 日記

   住民の、意識の間隙をぬって進める「原発再稼働」の狙い

本日も、昨日に続き原発問題に触れてみたい。

昨日、わが市の6月市議会の開催を前にした会議に参加した。補正予算の審議を主要な議題とする議会ではあるが、当然にして徐せん問題も討論になるだろう。

徐せんの実施が叫ばれてから久しいがその進捗度は鈍い。徐せん作業者の確保が困難というのが大きな理由であると説明されている。よく見ると県外ナンバーの車両が目につく。

この徐せんには、地権者の同意が必要である。しかも、その所有が「共有名義)であれば、その双方の同意を必要とする。その同意が得られないというケースが多くなりつつあるのも原因の一つとなっている。10軒の家屋がある。この例を紹介すれば、そこで同意をしたのは5軒。内持ち家が2軒、3軒が不在地主の貸家である。同意をしなかった5軒すべてが持ち家である。ここでも明らかなように、徐せんをしてそこから出た廃棄物を敷地内に埋設(平均して2〜3メートル平方)されるのでは困る。それが大きな理由である。全員の同意がないこともあって、私道である通路は側溝を含めて徐せんはできない。このような事実は今後も拡大するだろう。つまり「仮置き場」が決まらないからである。

前記の会議であるが、放射能問題について「仮置き場の設置を急ぐ」が発言の口火となった。しかし、討議はもっぱら「低線量1ミリシーベルト/年」をめぐる実現の可否、そして甲状腺がんをはじめとする健康不安の論議に終始された。住民の関心は、もっぱら徐せんであり、健康不安であるが、それだけで済むのかという危惧を持つのが次の理由である。

本日の朝刊(地方紙)をめくる。そこには中間貯蔵施設の建設と、減量施設の建設についての住民説明会の報告が記されている。この中間貯蔵施設であるが容積が決められている。県内から集める廃棄物は東京ドームの23杯とも言われている。それとて見通しがつかない。当然にして、減量化を図らなければならない。それが減量施設である。さらに、「一歩進んだ仮置き場」とも言われる「管理型処分場」の設置がある。これら全てが、住民の同意を得ることが困難であるという報道になっている。八方塞がり、前に進まない。

しかし、一方では、避難地区の自治体が、首長を中心に「住民の帰還実現」に向けた取り組みが進められている。確かに一部で帰還者も実現している。狭い仮住まいから大きな我が家へ。だが、それは高齢者であり、家屋の損傷が少なかった家である。多くが「戻れない、戻らない」。この3年を超える期間は、新しい生活の道を求めても不思議ではない期間を意味する。

そして、政府の姿勢に危険を持つ。この帰還方針に対する全面的な後押しである。「福島から学び、福島を繰り返さない。福島の復興が無ければ日本の成長はない。その成長のためにも、二度と再び繰り返さない万全の体制で原発を再稼働する」ここに狙いがあると考えるがどうだろう。

健康不安も徐せんにも取り組まなければならない。また重要な課題である。しかし、その道は長く困難が伴う。さらに補償問題がともなえば、尚のこと住民間の対立と混乱が生じる。全国的な風化もある。その間隙をぬって進められる政府の「原発稼働容認」の巧みな動きに私たちはどう対処するのか。

あらためて考える必要があり、その時期にあるのではないかと提起したい。


原発・放射能を考える。5年先の絵が描く。その絵具を国に要求しよう

2014-06-09 21:53:20 | 日記

原発・放射能を考える。5年先の絵が描く。その絵具を国に要求しよう

       家族で・住民間で共有の絵画教室を開けないか

福島からの報告となれば原発・放射能の問題であろう。

毎日500トンが流れ込むと言われている地下水をポンプで汲み上げ、海に流す工法が関係者の了解が得られ実施している。そして梅雨を迎え雨水対策である。基地内にひしめくタンクに外側に「堰」をつくり、タンクにそそぐ雨水が外に流れ出ないようにしている。しかし、管理の不十分もあるが、予想以上の降雨により水が堰からあふれ出す。何故か、その水に高レベルの放射能物質が含まれている。「タンクに傘をさせば」と冗談を語っていたら、現場は本気になって考えていることが報じられた。また究極の対策と言われた「多核種除去設備アルプス」は未だに試運転の域を出ないでいる。そして、今回実施されるのが「凍土遮水壁工法」である。原発4基を囲み汚染水が外に漏れないようにしようとする。これとて、これほどの大掛かりの工法は未知の分野である。「本当に効果があるのか。これ以上悪い方向に動かないよう祈るしかない」という声も上がっている。さてこの工法であるが、地下に差し込む凍結管は合計で1550本、一本設置するのに5日は要するという。そして来年3月に完了、この算術をどのようにして解くのだろうか。いずれにしても、手探りの対策であることは間違いのない。

我が国の最高責任者が、国外で「コントロールされています。ご安心を」と語った。しかし、今なお、その訂正はない。

今、県内各地で徐せんが進められている。その廃棄物の処分であるが、袋に入れたまま、住宅の敷地などにおかれているのが5万カ所。残り3千カ所は学校や公園などに集められている。(福島民報6・7)いわゆる「仮置き場」が決まらないからである。また、あってもそこから持ち出さなければならない。そこで「中間貯蔵施設」の建設となるのだが、今回、候補地の住民向け説明会が実施された。しかし、その結論は出ていない。提案説明の不十分もあるが、根っこには「おらがところに作るのは反対だ」、「その補償を具体的に示せ、最終処分場にならないか。不安だ」というところにあることは間違いない。いわゆる「先が見えないのである」。

また、現在示されている「設置期間30年」という数字がある。これはその地権者のほとんどが、この世にはいない期間である。また、働いている現役も、退職をしていることを意味する期間である。生き方も環境もがらりと変わる。とても先を見通せるものではない。ならば、国は、せめて5年先の将来を考えられる材料を示す責任があのではないか。また示すことができるだろうと考える。それが住民の判断を可能とする物差しではないかと思うがどうだろう。

「当事者でない者が何を言うのか」という批判の声が聞こえそうである。当事者をどうとらえるかはあるが、私の居住地も低線量とはいえ、被ばくの心配、不安が無いと言えば嘘になる。そこであえて述べたい。

人生いろいろではないが、望まない事態に直面するのも人生である。考えてもいなかった環境にも直面する。70代の人生である。私自身もそのような場面に直面もした、また幾つも見てきた。何も福島県民、あるいは双葉地区住民だけが特別ではないということである。大変であり、難しいことではあるが、5年先の人生計画であれば描くことができるのではないか。その絵画教室が、家族間、住民間での話し合いの場ではないかと考えたい。

100人いれば100通りあっても良い。その中から、新しい人生計画を描く「キャンパスと筆と絵具」を国に、自治体に、そして東電に要求したら良い。

そのような場面づくりが「中間貯蔵施設」の討論から生まれればと考えるが、いかがだろうか。

 

 


大企業はほくそ笑み・国民は長期の負担を負い続ける

2014-06-08 15:05:43 | 日記

   大企業はほくそ笑み・国民は長期の負担を負い続ける

安倍首相の熱心度を示す一つに「法人減税」がある。どこに行っても、また外国での発言にもこの言葉が飛び出す。とりわけ、外国においての発言は「国外投資家」向けのものである。「今や日本は買いだ」。この発言は記憶に新しい。

今後は、その下げ幅と、歳入減を補う財源確保が焦点と報じられている。

さて、その下げ幅であるが、経済界は中国や韓国並の25%程度までの引き下げを求めている。甘利経済再生担当相は5年程度で20%台まで引き下げると発言をしている。法人税削減に手をつけることの是非については、報道機関や専門家の意見は分かれているが、推定される代替え財源の確保については「厳しい」との解説で一致している。また、自民党内及び閣内においても対立のあるのがこの財源である。いみじくも、麻生財務相は「代替え財源については経団連が回答を示してくれるだろう」という皮肉った発言をしているのもここに理由がある。

法人税1%当たりの税収は4700億円(国と地方の合計)と言われている。ということは、仮に5%下げれば2、5兆円弱の歳入減となる。あることには反対だが、もし経団連が要求している課税率となれば何と5兆円である。法人税の削減が、企業の体質を強め、投機を生み、全国隅々まで、その利益が及ぶだろうとの安倍首相お得意の主張はあるが、それは「柳の下にドジョウ」の譬えである。

そこで、どうしても今回取り上げたいのが、東日本大震災の復興税である。すでに2013年1月からは、個人が納める所得税の2.1%が上乗せ徴収されている。このことは平成25年度の確定申告時に「復興特別所得税」として処理済みの事である。この納入期間は25年間である。納税者の3割は収めきれずに去っていくだろう。「残念だが、あちらには税務署はない」。さらに、この6月から納める住民税に年間1000円が上乗せされる。その期間は10年間である。

住民税の上乗せは、自治体の学校の耐震化や避難道路の整備などに使われるという。目に見える形で使われるということで納得したい面もあるが、それでも我慢ができないものに、法人に科せられた「復興特別法人税」が1年前倒しで廃止されたことである。

大手の企業である「JT・日本たばこ産業」は、この特別法人税が廃止されたことによる原資20億円を社員に分配した。一律20万円の一時金である。支払うべきものが支払わずに済んだ。それを内部留保の金庫に収めることなく社員に吐き出したことには賛意を表したい。だが、法人税を納める上場企業の3割にあたる大企業が、大震災の復興への社会的負担を、僅か2年で済まそうとするところに我慢できないものがある。

企業が、企業として成り立つ所以は、事業を通した社会、地域との共存共栄があってはじめて成り立つものである。1000年に一度と言われる大震災の復興にあたっての「社会的責任」はどこにいったのか。破壊されたとはいえ、堤防、港湾、道路、そして建造物などの公共事業、あるいは民間事業で利益を得てきた企業が、その復興という名の負担に応ずるのは当然である。だから企業に復興税を課したのである。しかし、その社会的負担を僅か2年でチャラとしてしまった安倍政権。そして逃げ切ってしまった大企業。それだけではない。逃げ切った企業に、さらに法人税引き下げという追加のおまけまでつく。そして国民は25年間、10年間という長期間の負担を続ける。加えて消費税の増額が続く。まさに、片や「ほくそ笑み」、片や「踏んだり蹴ったり」である。そんなことは許されない。

あらためて考える。このような政治を変える選択権を奪われていることに強い怒りを持ち、同時に、その体制をつくったしまった自分たちの責任も痛感する午後のひと時である。

 


男性の一人暮らし増加・そして「レンタル・フレンド」を考える

2014-06-06 18:43:27 | 日記

   男性の一人暮らし増加・そして「レンタル・フレンド」を考える

衆議院を通過、そして参議院へ。配布された資料に、不備や誤りがあったという「尾ひれ」も付いた医療・介護法改正法案も、残念だが参議院通過は時間の問題となった。この法案は、介護保険サービス料の削減を目的とするものであり、在宅介護への傾斜に直結するものである。とりわけ、要介護度を重くしないためにも、予防介護が必要とする「要支援サービス」を自治体に丸投げするものであり、「この世で一番 無責任と言われた男」の歌文句ではないが、政府の無責任ぶりを示したものと言わざるを得ない。

今後、高齢者を苦しめ、在宅へ押し込む新しい介護方針を、どれだけの人が、そして家族が受け入れられるだろうか。

各種の報道は、これと関連付けて「公民館活動」の紹介や、地域の絆づくりというものを盛んに取り上げている。趣味の会、小旅行、勉強会などなど。また「空き家の古民家」を活用した一日居場所づくり、高齢者宅見守り隊といったボランィア活動である。でも、150万人とも言われている要支援者をこの種の地域活動で対応できるのだろうか。

そして、特に取上げなければならないものに「男性の一人暮らし」がある。2009年の内閣府調査によれば、独居男性の近所の人との付き合いは僅かに11.9%。ほとんどが近所の皆さんとの接触がない。また日常生活の中での会話の頻度にいたっては、男性は2〜3日に1回以下しか会話をしない人が41.2%もいる。しかも1週間に1回以下、またはほとんど話をしないが11.8%。もはや言葉を失っていることになる。さらには、病気になったり、頼みたいことがあったりした時に「頼れる人がいますか」の問いに対しては24.4%が「いない」と答えている。(女性の場合は9.3%である)

平均寿命の延びは余命年数の伸びにも連なる。かつては先に逝ったのが男性であった。しかし、最近は男性が残る、あるいは妻の介護にあたるというケース増大しつつある。そこに新しい高齢者問題が生まれてきた。

ここに「レンタル・フレンド」いうものがある。読んで字の如し「貸し友」を提供する人材派遣会社の誕生である。その友の相手は、もっぱら男性であるから、言い換えれば「レンタル・ガールフレンド」か。一人暮らしの寂しさを補うために女性の友達を派遣する。テレビでは次のような場面を報じていた。

一人の男性が、妻をディサービスに送り出した後に外出した。その先にやや中年の女性がいた。「今日一日の友達である」。喫茶店でのお喋り、公園での散歩、そして海上遊覧船での回遊、そしてサヨウナラ。当日の諸経費二人分を含めて4万円。「大変楽しかった」と男性は満足。そして妻が帰宅する前に自宅に戻っていった。

これをどう見るか。「なかなかいいんじゃない。でも4万円は出せないな」。「うーん。それって援助交際じゃない」。「確かに厳格なシステムで派遣するのだから信用できるのでは」。「いやいや、いろんな人もいるだろう。高齢者だましも出てくるのでは」。この話題を出した時の周囲の発言はいろいろであった。世間の状況を考え、知恵を働かして立ち上げた事業と言えばそれまでだが、何故か、それが「派遣事業」となるところに、人生のひずみと高齢者問題の深刻さを感じてしまうのは私だけであろうか。間違いなく「老いの確立は100%」である。かく言う私も、その一人であることは間違いない。

一週間早めの梅雨入りである。鬱陶しい日が続くだろう。そしてこの時期、またしても考えさせられた一つの事例である。

 


名指しした米国が許され、避けた日本に批判が強まる。この違いは何か

2014-06-06 11:38:23 | 日記

  名指しした米国が許され、避けた日本に批判が強まる。この違いは何か

昨日4日のブロに、1906年に起きた「衝撃的なロシアの砲撃」に対する江戸幕府の対処について書いた。当時の日本人にとっては、海の向こうの知識は皆無に等しかったであろう。政治を司る役人に至っても、キリシタン宣教師が持ち込む知識の範囲であったろうと思う。その役人が「外交上のメンツ、あるいは無意味な戦争を避けるためには、事件の発端にさかのぼり、見直し、再検討の中で、お互いの誤解を解いていくことが重要だと述べている」。時代は異れ、ここから学ぶべきだという藤田教授の言葉を紹介した。

ところで記憶に新しいことであるが、4月24日東シナ海の上空で、自衛隊機に異常接近(30メートル)してきた中国戦闘機のニュースがある。飛行機の速度はマッハである。前方でピカッと光った飛行機が、瞬きした瞬間通り過ぎているという速さである。事件に至らなかったのが幸いであった。日本の抗議に対し、中国は「自衛隊機が中国の防空識別圏に侵入し、中露の軍事合同演習を偵察し、妨害した」と反論している。さらに一歩踏み込み、中国国防省の報道官が「昨年11月23日に中国空軍機が防空圏をパトロール中、自衛隊機のF15戦闘機2機が34分間にわたり追跡し約10メートルまで近づいた」と主張した。小野寺防衛相はそのような事実は一切ないと否定している。

さて6月2日 に開催されたアジア安全保障会議。安倍首相は名指しを避けながら中国批判の演説をした。そしてヘーゲル米国防長官は名前を上げて中国批判をしている。それに対する中国代表である王冠中副参謀長の発言がある。それは私見と断りつつも「歩調を合わせた日米の挑戦を受けたが、名前を上げての米国の批判は許せるとしても、名前を上げずに批判した日本は許せない」ということである。新聞も報道しているので事実であろう。

戦闘機の異常接近とその説明の食い違い。さらに、そのことに付け加えること半年前にさかのぼり、「日本の自衛隊機こそ、かつてはこんなことをしたではないか」という反論。それに対する反論合戦を見る。よくある「犬も食わない」夫婦間の口論や、子どもの口ケンカならいざ知らず。それでも、そのことが離婚、あるいは自殺という破局を迎えたとなれば大変なことであるが、同次元の口論のような気がする。

そこで考えてみたい。このズレは何なのだろうか。

日中間。日韓間もそうだが過去にあった忌まわしい歴史がある。そのことは、残念ながら時間の経過の中でも歴然として残っている。またかつては、世界の列強国から虐げられてきた中国が、今や世界第二の経済大国として名乗り上げるまでに至った。良し悪しはあれ、軍事力も拡大増強を続けている。その中にあって、とりわけ日中間のわだかまりは消えるどころか、むしろ拡大しつつある。このように考えると、そのズレは理解できる。

2001年、米偵察機と中国戦闘機の衝突事件があった。米中間は、すばやく再発防止のルールづくりに取り組み成功させている。共謀しての中国批判をしつつも、名前を上げた米国は許され、名を伏せた日本に批判の矢があてられる。この違いを考えるべきではなかろうか。

高度な外交とは、案外と双方の「メンツ・プライド」を保ちつつ平和的な解決を見出すというところに眼目があるのではなかろうか。その意味では、今、江戸幕府の姿勢を学ぶ必要があると思うがどうだろうか。

「歴史とは現在と過去との対話である」。再度吟味したい言葉である。