学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

掃除と旅の夢想

2020-04-30 18:58:41 | その他
新型肺炎のおかげで、外出の自粛が求められるなか、休日、私も家の中で過ごす時間が圧倒的に多くなっています。このブログでも書いてきたように、家の中ではもっぱら本を読んだり、絵を描いたりして過ごしてきたのですが、さすがに飽きてきました。特に読書は、活字が頭に入らなくなって来たので、これはおそらく切り替えのサイン。いったん読書を止めて、部屋の片づけでもすることしました。

例年なら、今頃はゴールデンウィークで、観光地は人でごったがえし、私が勤める美術館も大勢の人でにぎわっていたはず。世の中はゆるい空気に満ちて心地よく、ずっとこういう余裕が続けばいいのに、などと思うものでした。私は学芸員になってからというもの、ゴールデンウィークの休みはほとんどなし。違う日にとぎれとぎれの休日があるばかりなのです。それでもこのときの世の中の空気は心地よく感じます。

部屋の片づけをしていると、今までに旅行で行ったアルバムを発見。アルバムは、見始めると、掃除が停滞する。そういえば、新型肺炎がなければ、今年は沖縄、青森へ旅行へ行くはずでした。私の人生にとって、旅行はなくてはならないもの。ちょっと大げさすぎましたか。旅行に行き、美しい風景にみとれ、美味しい料理を食べ、地元の人と会話をする。そのことによって、気持ちがとてもリフレッシュします。

掃除をして部屋を清潔に保ちつつ、いずれ行けるであろう旅先での遊びを夢想する。そんな1日を大切にしたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相棒のウエンディ

2020-04-29 18:55:18 | その他
新型肺炎はともかく、4月も末になって、暖かな日が続くようになりました。暖かな陽気に包まれて、我が庭の花々もとても元気です。ただ、ひと鉢だけ、調子の悪かった花が…それがウエンディです。

ウエンディは、カランコエの一種で、釣り鐘のような花が特長です。3年ほど前に、まさにその花弁がきれいだったので買ってきたのですが、我が家のリビングに来てからはずっと調子が悪く、花も二度と咲かないわ、葉はぽろぽろと落ちるわで、ただ枯れることなく茎だけはぐんぐん伸びるような状態でした。私もものぐさなので、3年間ほっておいたのですが、さすがに最近は哀れになってきたので調べてみました。すると、外に出して太陽の日差しを浴びせてあげるとよい、夜はなるべく蛍光灯の光が当たらないところへ置くとよい、とわかりました。

それから、1週間程度、アドバイスに従って成長を促しています。すると、ここ2、3日ばかり、葉の色が濃くなり、特にふちが青々としてきました。また、葉も肉厚に!早速、その効果が出始めてきたようでうれしい限りです。この調子で、久しぶりの花を咲かせて欲しい!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピーター・フォーブズ『ヤモリの指』を読む

2020-04-28 18:15:27 | 読書感想
学生時代の私は、科学館が大好きでした。地元の仙台市科学館には友達とよく通いましたし、夏休みに上京したら、必ず連れてってもらうのは上野の国立科学博物館。自分の背丈の何倍もある大きな恐竜の化石に胸をときめかせたものです。残念ながら、学校の科学の授業が肌に合わなくて、私はその道に進まなかったけれど、科学の道に進んだら、どんな人生を歩んでいたのか、今でも時々考えることがあります。

さて、ピーター・フォーブズさんの著書『ヤモリの指』(吉田三知世訳、早川書房、2007年)を読みました。これは生物の生態を解き明かすことで、新たな技術革新を起こす「バイオ・インスピレーション」について書かれています。ハスの撥水性、クモの柔らかく強靭な糸、ヤモリの指の接着性、ハエやガが持つ羽のメカニズムなどの分析はとても面白いもの。ただ、それを解き明かしたところで、新たな技術革新へすぐに結び付けるのはなかなか難しいよう。かろうじて、ハスの撥水性を活かす商品は開発されたようですが、技術的に困難な現状もしっかりと書かれています(近年、山形県鶴岡市のベンチャー企業、Spiber株式会社がクモの糸に注目した合成クモ糸繊維を開発しましたので、確実のその道は進んでいるといえましょう)。

この本にも書かれていることですが、私も今まで何気なく見ていた生き物たちへの見方がとても変わりました。これから暖かくなると、我が家の庭先にもいろいろな生き物がやってきます。彼らが何を食べ、どんな風に飛び、どんな生きているのか。自分と生き物たちとの新しい付き合いが楽しめそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論文を書き上げる

2020-04-27 18:09:19 | 仕事
昨年来から書いてきた論文を、本日ようやく書き上げました。参考文献の山をかきわけて、ああでもない、こうでもないと考えて、それから書き出し。そして、不思議なことに書き始めると、とたんに新しい資料が見つかったりする(笑)それを付けたり、なんだり、こねくり回して、なんとか完成しました。

学芸員は文章を書いてこそ評価されます(もちろん、それだけではないけれど)。それには、とにかくもまずはどんどん文章を書かなくてはいけない。書いた文章を色々な人が読み、褒めて下さったり(ときどき)、まだまだ勉強が足りないね(これが多い)と反応があるわけです。具体的な行動をすれば、具体的な答えが出る。これは確かシャーロック・ホームズの言葉だったと思いますが、その結果をしっかり受け止めて、次に活かしてゆく。たまに自分の書いた文章が、他の研究者の方の参考文献に出てくると、心から嬉しいのです!お酒の一杯もひっかけたくなる。

もはや頭脳はくたくた。というわけで、しばらく論文からは離れて、明日から母の日のプレゼントを作る予定です。母には、毎年何かしらのモノを送っていたのですが、今年は新型肺炎のため、そういう状況ではないので、はがきサイズの絵でも描いて送ってあげようかな、と思っています。気持ちが伝わるといいのだけれど。さて、本日も夜が更けました。おやすみなさい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野文子『ドミトリーともきんす』を読む

2020-04-26 18:07:44 | 読書感想
みなさんは本をどのように読みますか。私は目で文字で追い、気になるところには線を引きます。そうして、その本を読み終えると、忘れないように簡単なメモを記して、あとは本棚へとしまい込む。小説、ノンフィクション、学術書と、いずれもそういう付き合い方をしています。

高野文子さんの『ドミトリーともきんす』(中央公論新社、2014年)は、本とのとても素敵な付き合い方を表した作品です。とも子さんと、その娘でまだ幼いきん子さんが、ドミトリーともきんす、という架空の下宿を営む設定で、下宿人、すなわち、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹の4人の科学者と対話するストーリー。といっても、科学の難しい話が出てくるのではなく、もし彼らと会話ができるとしたら、こんなことを教えてくれるのではないか、という夢のようなお話なのです。もちろん、作者とこの4人は直接お話しをしたことはないので、彼らの本を読んだうえでの、想像された世界観で構成されています。しかし、それが面白い。

この本を読んだとき、同じく高野文子さんが書かれた『黄色い本』を思い出しました。あれは『チボー家の人々』の世界に入り込んだ女子高生のお話し。今回は科学の世界に入り込んだお母さんと娘のお話し。過去の本の著者と、友達のように対話しながら進んでいく手法はとても魅力的です。いまの私の読書の方法はとても事務的なのですが、本とのこういう付き合い方はいいなあ、と素直に思いますし、私もそういう方法で本を読みたい、と思うのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木下直之『美術という見世物』

2020-04-25 19:00:56 | 読書感想
私は本を読むたびに、目から鱗が落ちるのです。それだけ私は浅学なのだろうし、また、世の中は知らないことで満ちているのでしょう。そのなかでも、木下直之さんの『美術という見世物』(筑摩書房、1999年)を読むたびに、私はあまりの面白さにうならせられます。

今日の美術展は江戸時代からの見世物の延長線上にあるのではないか、というメッセージから、この本は始まります。生人形(この図版がかなり怖い)、油絵茶屋、パノラマ館など、江戸末期から明治時代にかけて「見世物」という形式がいかに人々のなかで根付いてきたのか。そして、それらが西洋の「美術」の概念に相対したとき、その多くが切り捨てられ、忘れさられてしまったという現状を述べてゆきます。また、これらを裏付けるための豊富な資料と図版もみどころ。この本でふれられていることは、いわゆるこれまでの日本美術の通史に埋もれていた過去の一面であり、そこへスポットを当てた著者の視点に、私は読むたびにうならせられるのです。

「明治の初年に美術という言葉を知り、というよりも新たに造語して以来このかた、日本人が、暮らしの中で、その美術なるものにどのような場所を与えてきたかという問題にからんでいるはずだ。それはまた、美術という言葉でくくるために、美術と呼んでよかったかもしれないものを切り捨ててきた歴史でもある」

本書はただ単に見世物の歴史を述べたものではなくて、江戸末期から明治時代にかけての美の概念の揺れ動きを捉えたものとして、そして今もなお盛んに使われている「近代」という言葉への違和感を記したものとして、私は美術書の中でもとりわけ好著であると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵は偉そう…なのかな?

2020-04-24 18:42:26 | 仕事
数年前に同窓会があったときのことです。久しぶりに再会した友人に、私が美術館で働いていることを話すと、美術館はなんであんなに偉そうなのだ、と言われました。彼曰く、それはスタッフの態度ではなく、館内は薄気味悪いほど静かだし、中で食べ物を食べてはいけないし、特に絵をガラスケースや額に入れてあるのがよろしくない、偉そうだと言うのです。

すべては鑑賞と保存という相反することをすり合わせる必要があるため、と私は考えるし、どの美術館もそう考えているからこそ、そういう対応をとっているわけです。でも、確かに彼のいうことも一理ある。もともと、江戸時代までの日本の美術は私たちの生活とともにあったわけで、床の間には掛け軸、部屋の屏風絵、襖絵などの調度品は見事に装飾であふれていたのです。彼がそこまで考えて話をしたとは思えない(失礼!)けれど、そういうことで考えれば、掛け軸をガラスケースで鑑賞するのは違和感があるし、浮世絵を額に入れて鑑賞しても、江戸時代の人たちが楽しんだような絵との付き合い方はできませんよね。

こうしたことについて、私は思い切った展示方法をした展覧会を見たことがあります。ひとつは板橋区立美術館で、掛け軸をガラスケースなしで飾り、鑑賞者は畳の上に敷かれた座布団に座って楽しむという方法。もうひとつは、10年ほど前に府中市美術館で見た、近代版画を壁に飾り、額装なしで楽しむという方法です。もちろん、いずれも作品にさわることはできないけれど、かなり近い位置で楽しめ、それだけで絵と自分との距離が縮まったような気がして面白かった覚えがあります。これなら、彼がいうような偉さはまったくない。ただ、おそらく、セキュリティの部分で相当難しい選択があったと思いますし、私も万が一のことを考えると怖くてとてもできません。

同窓会での彼のひょんな言葉から、私は、美術館の形作られたあまり良くないイメージの一端と、そして、かつては生活に溶け込んでいた絵をどのように見せるのがベストなのかを、ときどき思い出しては考えるのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休みの日のすごしかた

2020-04-23 18:21:13 | その他
新型肺炎のおかげで、休日も出かけられない日々が続いてます。私も食料品の買い物以外は、ほぼ家で過ごすようになりました。おそらく、大多数の人が同じような暮らしをしていることでしょう。こういう生活が続くことにストレスを感じる人もいるようです。私も初めはストレスがありましたが、慣れてくるにしたがって、それほど苦にもならなくなりました。

それで思い返せば、学生時代の私はインドア派でした。外へ出かけるのが億劫でたまらない性質で、日曜日、親から無理やり買い物に付き合わされるのが、なにより苦痛でたまらなかったのを記憶しています(行けば行ったで楽しめるのですが)。家で何をしていたのかというと、テレビゲーム、ビデオ、兄弟とのカードゲーム遊び、読書(ただし漫画です)で、これだけあれば家の中でも十分幸せな時間となりました。それらが無くても、子供というのは不思議で、遊ぶものがなくても、自分で遊びを作って楽しんでしまう。さて、それから数十年経ち、よもやの新型肺炎で外出が控えられる今、私はアマゾンプライム、読書(本棚からあふれ出た本をここぞとばかりに読んでいます)、絵を描く(鉛筆、色鉛筆、水彩画、日本画、版画、ちぎり絵など)、ときどきラジオ体操をして体を動かすなどをして過ごしています。趣味というのは変わるものですね。

社会人になってからの私は、車という圧倒的な機動力を得てから、アウトドア派になりましたが、たまにこうしてインドアを楽しむのも悪くない。こうして自分の過去を振り返り、懐かしいことに心を遊ばせてみるのもまた一興。新型肺炎にかからぬよう気を付けつつ、家の中での生活を満喫していきたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石牟礼道子『苦海浄土』を読む

2020-04-22 18:46:12 | 読書感想
今年の東京オリンピックは中止となりましたが、新型肺炎拡大の前まで、国内はオリンピックの話題で沸騰していました。1964(昭和39)年の前回大会から56年ぶりの自国開催となる予定でしたから、それは無理もありません。1964年という過去を振り返るとき、日本はまさに高度経済成長期の真っただ中にいました。この時代を知らない世代である私には、まったくピンときませんが、確かに好景気に沸いた時代であったのです。しかし、そうした一方で、人間の命を脅かす公害という大きな問題が出てきていたのでした。

この時期の、特にひどい公害を、いわゆる四大公害と呼び、そのひとつが熊本県水俣市沿岸部で起こった水俣病です。企業が有機水銀を含んだ排水を海に流し、それによって汚染された魚介類を食べた人たちが病にかかったのです。石牟礼道子『苦海浄土』(藤原書店、2016年)は、その水俣病に長年関わった著者の取材に基づくノンフィクションです。しかし、それは淡々と事実を列挙するようなノンフィクションの手法では書かれていません。そこには文学的な手法が使われ、水俣地方の自然のありかた、その地方に生きる人たちの方言、長文にわたる行政や裁判、病院の記録文書の挿入、などが盛り込まれています。この手法によって、この水俣病という事柄が、鋭い槍のようになって私たちの心に突き刺さるのです。いかに言葉が強い力を持つのかがわかります。

「進歩する科学文明とは、より手の込んだ合法的な野蛮世界へ逆行する暴力支配をいうにちがいなかった。」

こういう言葉に対して、私はどう答えたらいいのかわかりません。科学文明が世の中を便利に、豊かにしたことは間違いありませんし、私もその恩恵を享受しています。でも、果たしてこの世の中の在り方が正解だったのでしょうか。現在、海の汚染といえば、プラスチックごみが大きな問題になっています。細かく砕かれたこのごみを取り込んだ魚介類を食べれば、それが人体にも蓄積されることになる。約50年前の水俣病が、現在の事柄とリンクすることに、私は背筋に冷たいものを感じるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外山滋比古『思考の整理学』を読む

2020-04-21 18:15:19 | 読書感想
就職して間もないころ、私はドイツ文学に夢中になりました。特にフランツ・カフカが好きで、今は亡き池内紀さんの翻訳で親しんだ覚えがあります。朝、昼休み、そして夜。おろかながら、美術の勉強もそっちのけで読んでいたのです。ところが、あるとき、活字が頭に入らなくなるということが起きました。例えるなら、箪笥のなかに衣服がぎゅうぎゅうに入っていて、もうどこにも隙間がない感覚。今考えると、どうもそれは、インプット(当時はそんなことは考えていませんでしたが)のし過ぎだったようなのです。

外山滋比古さんの『思考の整理学』(筑摩書房、1986年)を読みました。考えるということがいかに楽しいことなのかを教えてくれる本です。この本のなかでも、「整理」の項を読み、目から鱗が落ちました。著者によれば、「勉強し、知識を習得する一方で、不要になったものを、処分し、整理する必要がある」とのこと。そのためには「忘れる」ということを恐れてはいけないというのです。私は本を読んだら、その知識をいつまでも頭の中にとどめておきたいと考えます。だが、それではだめだと。本当に大切な知識は頭の中に残る。頭の中を知識でぎゅうぎゅうにしてはいけないというのですね。私はドイツ文学の件があったので、自分の経験から、とても腑に落ちた次第です。

「整理」を総合すると、知識をインプット(これは必要以上にしない)したら、忘れる、またはアウトプット(文章を書く)して、頭の中から余分なものを出してしまう。そうして頭の中に絶えず空きを作っておくことが大切であると学びました。近頃、書店にいくと、インプット、アウトプットの本を多く目にします。この本が書かれたのは1986年で、今から34年前というから驚きです。そういう意味では、時代を先取りした本だったのだと思います。著者の慧眼には感服します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする