私は本を読むたびに、目から鱗が落ちるのです。それだけ私は浅学なのだろうし、また、世の中は知らないことで満ちているのでしょう。そのなかでも、木下直之さんの『美術という見世物』(筑摩書房、1999年)を読むたびに、私はあまりの面白さにうならせられます。
今日の美術展は江戸時代からの見世物の延長線上にあるのではないか、というメッセージから、この本は始まります。生人形(この図版がかなり怖い)、油絵茶屋、パノラマ館など、江戸末期から明治時代にかけて「見世物」という形式がいかに人々のなかで根付いてきたのか。そして、それらが西洋の「美術」の概念に相対したとき、その多くが切り捨てられ、忘れさられてしまったという現状を述べてゆきます。また、これらを裏付けるための豊富な資料と図版もみどころ。この本でふれられていることは、いわゆるこれまでの日本美術の通史に埋もれていた過去の一面であり、そこへスポットを当てた著者の視点に、私は読むたびにうならせられるのです。
「明治の初年に美術という言葉を知り、というよりも新たに造語して以来このかた、日本人が、暮らしの中で、その美術なるものにどのような場所を与えてきたかという問題にからんでいるはずだ。それはまた、美術という言葉でくくるために、美術と呼んでよかったかもしれないものを切り捨ててきた歴史でもある」
本書はただ単に見世物の歴史を述べたものではなくて、江戸末期から明治時代にかけての美の概念の揺れ動きを捉えたものとして、そして今もなお盛んに使われている「近代」という言葉への違和感を記したものとして、私は美術書の中でもとりわけ好著であると思います。
今日の美術展は江戸時代からの見世物の延長線上にあるのではないか、というメッセージから、この本は始まります。生人形(この図版がかなり怖い)、油絵茶屋、パノラマ館など、江戸末期から明治時代にかけて「見世物」という形式がいかに人々のなかで根付いてきたのか。そして、それらが西洋の「美術」の概念に相対したとき、その多くが切り捨てられ、忘れさられてしまったという現状を述べてゆきます。また、これらを裏付けるための豊富な資料と図版もみどころ。この本でふれられていることは、いわゆるこれまでの日本美術の通史に埋もれていた過去の一面であり、そこへスポットを当てた著者の視点に、私は読むたびにうならせられるのです。
「明治の初年に美術という言葉を知り、というよりも新たに造語して以来このかた、日本人が、暮らしの中で、その美術なるものにどのような場所を与えてきたかという問題にからんでいるはずだ。それはまた、美術という言葉でくくるために、美術と呼んでよかったかもしれないものを切り捨ててきた歴史でもある」
本書はただ単に見世物の歴史を述べたものではなくて、江戸末期から明治時代にかけての美の概念の揺れ動きを捉えたものとして、そして今もなお盛んに使われている「近代」という言葉への違和感を記したものとして、私は美術書の中でもとりわけ好著であると思います。