学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

贋作について

2014-08-28 20:36:09 | 仕事
ここ数日、涼しくて過ごしやすい日が続いています。夏のうだるような暑さは辟易しますが、それが落ち着きだすと寂しさを感じる不思議。季節は少しずつ秋に向かっているようです。夜、虫たちが静かに鳴き始めました。それに混じって聞こえる笛の音。そう、私の住む街は秋になるとお祭りが始まるのです。笛の音はお祭りのために地元の方々が練習しているもの。秋の夜は、気持ちがとても落ち着いてきます。

『美術手帖』(2014年9月号)の特集は「贋作」、つまり偽物の絵がテーマです。誌面では、贋作の巨匠たちや贋作にまつわる事件について紹介されています。

私が美術館に勤務していた時にも「贋作」の見極めは重要なことでした。美術館には作品の収集という仕事があります。収集方法は購入、寄付、寄託などが挙げられますが、そこで真贋がからんでくるのです。特に購入については慎重に進めていきました。なぜなら私個人が買うならまだしも、美術館が購入するということは公的なお金を使うということ。作品の全体的なイメージ、色、筆の流れ、モチーフ、サイン、媒体などありとあらゆる方向から分析をして判断をしていました。

私の場合、購入判断基準の根拠にはなりえませんが、作品を見たときの第一印象を「感覚」としてつかむことも重要と考えていました。つまり、どこか違和感を感じるかどうか。美術館でいろいろな作品を扱ってきていること、いわゆる「本物」を間近で見てきていることの経験から「感覚」が働いたのかもしれません。

困ったのは、なかなか微妙で判断がつかない作品があること。私の勤務していた美術館は、少しでも疑義があれば購入を見送りました。判断がつかないときは、この作家が生きていてくれさえしたら!と心の中で何度も思ったものです。

ああ、こうして書いてきていると、美術館での仕事が懐かしい(笑)

『美術手帖』を読んで、美術館での仕事を思い出したので書いてみました。でも、本当、真贋を見極めるのは難しいものです!

夏のさんぽ

2014-08-20 22:17:49 | その他
連日、暑い日が続いています。春は散歩を楽しんでいたのですが、夏は暑くて戸外へ出るのさえ億劫になります。お盆前、少し暑さがやわらいだときに久しぶりに近所の公園を歩いてきました。

職場が変わって扱う仕事が自然系になったこともあり、散歩をしながら周りの動植物を観察する面白さを感じています。

まずは「キジバト」。人間慣れしているせいか、近くまで寄っても木から離れていきません。観察した時には意識しませんでしたが、写真にしてみると意外に羽の色がはっきりしていることに気が付きました。上品、というほどのものではないですが、くっきりしたきれいな色ですね。

つぎは「ヤマユリ」。大きな花です。私の手のひらの2倍はあったでしょうか。白い花びらのなかに、ところどころ点々がついているのが、なんともおしゃれできれいな花。ときどき虫が花弁に留まっていました。

最後はたまたま撮影できた「二ホントカゲ」の子供。以前に見たことはあったのですが、動きがすばやいためになかなか写真を撮ることができず。今回はたまたま私の足元に寄ってきたので撮影することができました。なんといっても、この深いメタリック調のブルーのグラデーションが美しい。(大人になると、この色は消えてしまいます)

自然系はまだ勉強を始めたばかりなので、詳しい生態などはまだ書けないのですが、ときどきブログでは私が散歩の最中に出会った生きものたちについてもご紹介していきたいと思います。




キジバト





ヤマユリ




二ホントカゲ



『小出楢重随筆集』のななめよみ

2014-08-18 21:04:28 | 読書感想
今日も引き続き、小出楢重のお話。『小出楢重随筆集』の紹介です。彼は画家としての本分を努めながらも、一方で随分と文章を書きました。この随筆集は、生前に刊行された5冊の本のなかから芳賀徹さんが選び抜いたものを掲載しています。

そういえば、小出楢重に限らず、明治から昭和を駆け抜けた作家たちはよく文章を書いたものでした。いま私の頭のなかで思い浮かぶだけでも岸田劉生、中川一政、日本画の鏑木清方、陶芸の河井寛次郎、濱田庄司らの名前が浮かびます。プロではありませんが、版画家の川上澄生も詩や小説、技法書など全集が出るくらいよく書いた。岡本太郎も評論などをたくさん書いていますね。現役では、昨日のブログでも紹介した横尾忠則さんの本もよく見かけます。作家が文章を書くということはどういうことなのだろう…と考えてみましたが、これはおいそれと結論はでなくて、私の宿題です(笑)ただ、確かなことはペンを取る作家が意外に多いということ。

小出楢重の文章、特にエッセイはとにかくうまい。ユーモアとアイロニーが満ちていて、しかも話にオチもある(笑)小出がどんな小説を好んで読んでいたのかはわからないけれど、私は夏目漱石の『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』あたりの文体をエッセイ風にすると、こういう内容の文章が書けるのではないかな、と思いました。きっと小出楢重は夏目漱石の小説を読んでいたに違いない、とまた根拠のない想像をしてみたりして。ちなみに小出と谷崎潤一郎とは関わりがあります。小出は谷崎の『蓼食う虫』の挿絵を手掛けていましたから。では、谷崎の文体の影響を受けている?とも考えてみましたが、谷崎の計算された文体とはどうも違うような気もする。

さて、私が学芸員の立場なら、ここで「油絵新技法」や「ガラス絵の話」を取り上げるべきなのでしょうが、せっかく文章の面白さを書いてきたところですから、面白いと思ったおススメのエッセイをひとつ。

それは…


「怪説絹布団」


これは小出が美術学校を卒業して、奈良へ風景写生へ出かけたときの背筋も凍るおはなし。しっかりオチもついています(笑)

例のごとく、話があちらこちらに飛んでしまいましたが、私のおススメのエッセイに限らず機会があればぜひ読んでみてください。

小出楢重《枯木のある風景》

2014-08-17 20:50:02 | その他
本棚にあった『小出楢重随筆集』(岩波文庫)を読んでいたら、久しぶりに小出楢重(1887-1931)の絵を見たくなり、図書館で画集を借りてきました。図版をペラペラとめくっていくと、気になる1点が。それが《枯木のある風景》です。

この作品は、自身のアトリエ南側から見た空き地を描いたとされます。手前側にごろごろした枯木の固まりがあり、遠景には阪神電鉄の架線がかかっているのが見えます。一見、なんの変哲もない絵。ところが、この絵には奇妙なことが…、それは、なんと架線に男性らしき人影が乗っているのです。ミステリアスですね。私が「気になる」と申し上げたのは、このことなのです。

謎を発したばかりですが、この人影の正体を申し上げましょう(笑)

図版の解説には、この奇妙な人影はたまたま架線を工事していた人夫の姿である、と書いてあります。なあんだ、と思われたでしょうか(笑) 事実を知らないと、何でもないことがとても奇妙に見えてしまう。人間は面白いものです。

さて、いつも余計なことばかり考えている私…。正体を知っても、どうも「気になる」。そこで自宅の本棚にある本の背表紙を眺めていたら、横尾忠則さんの展覧会図録『未完の横尾忠則』が目に止まりました。ああ、「気になる」原因はこれかなと。図録には画家アンリ・ルソーの作品をパロディにした横尾さんの作品群が載っており、まさにルソーの《マラコフ通り》(1908年)をパロディにした《消えた人々》(2006年)が《枯木のある風景》のシチュエーションとそっくり。というのは《消えた人々》は本来、往来を歩いていた人物たちを架線の上に乗せてしまうという作品なのです。私の頭の中に《消えた人々》を見た記憶があり、それが《枯木のある風景》の人影とひっかかっていたんですね。これで謎は無事に解決(笑)

《枯木のある風景》(1930年)は小出楢重の絶筆、つまり最期の作品です。それがゆえ、この作品のテーマが「生と死」を扱っている、とされることが多く、現に同年に描かれた《六月の郊外風景》の画面に満ちた不穏な雰囲気はまさに死を迎えつつある画家の心境が描かれているように感じます。そうした背景をふまえると《枯木のある風景》の架線上の人影は、余計に奇妙な印象を与えるのかもしれませんね。

ただ、この作品が晩年に描かれたものである、ということは解説を読まなければわからないことです。この作品を何の情報もないままに眺めると、人によってはとてもミステリアスに見えるし、面白味を感じる人もいるかもしれないし、私が感じたように別の絵を思い出したりもするわけですね。絵を見る、ということは改めて面白いものです。《枯木のある風景》を見て、ちょっとだけ絵の冒険に出かけた気持ちになった夏の休日でした。