展覧会の準備に追われていて、なかなか机の上が片付かない日が続いています。机の上が書類であふれていると、文書を探すのにも時間がかかるし、パソコンを使うのも差し障りがあり、いいことはさっぱりありません。かといって、机の上を片付ける時間が取れないのが現状です。そこで一気に片付けるのではなく、1時間に5分間だけクリーンタイムを設けて、休憩がてらに書類の片付けを始めました。5分間だけでも効果は上がるもので、少しずつ書類の山が無くなってきました。忙しい時にはなかなか良い方法かもしれません。展覧会の準備はまだまだ続きそう。解説文の作成、キャプションの作成、音声ガイドの作成、図録の作成…と作成することが山のほどあります。もう慣れたものではありますが、ひとつずつ仕事を確実にこなして、無事に展覧会開催の日を迎えられるよう頑張ります、片付けをしながら…。
所用のために電車に乗る必要があったので、本棚から車中で読む本を適当に引っ張り出したところが、鏑木清方の『随筆集 明治の東京』が釣れた。鏑木清方というと、私の大学時代の友人に清方が大好きな人が居て、よくその魅力を聞かされたものだった。当時、私には彼が語る魅力がよくわからなかったが、数年後にサントリー美術館で鏑木清方展を見たときに初めて実感した。やはり本物を見ないと、いくら話をされてもイメージがわかないようである。さて、この随筆集は自伝的要素の強いものであるが、読み始めて15分ほどで本を閉じてしまった(失礼!)。読み進められない理由は2つ有る。1つは私自身が東京という都市にあまり馴染みがないということ。もう1つはやはり清方の文章力で…読み手を牽引する力がそれほど強くはない(本当に失礼しています…)。そういえば他作家で同じような東京を舞台に自伝的要素を含んだ随筆を書いた人はいなかったかと考えて見るに、木版画家川上澄生の『少々昔噺』が思い浮かんだ。自身の子供時代を回顧したものだが、ユーモアにあふれていて、テンポの良さは夏目漱石の『我輩は猫である』のようなところがある。読んでいてとても面白いし、確か気の利いた木版画の挿絵も付いていた。2人とも小説家ではないが、同じテーマでも書き手が違うと、読み手の受ける印象はずいぶん違うものだな、と感じた。そんなことを思っているうちに電車は目的地に到着。短い車中のなかでふと思いつるのとを書いてみた次第である。
昨夜は疲労困憊でブログが書けずに失礼をしました。
絵画作品は、一般的に何かしらの絵具や支持体によって構成されています。それぞれに特徴があって、ごくごく簡単にまとめると、油彩は大画面でも耐えうる厚みのあるマチエール(絵肌)が有って、主に麻のキャンバスが支持体となる。日本画も同じような特徴があるけれど、透明性のある顔料を使い、主に紙や絹が支持体となる…など。ずいぶん前にある批評会に参加させていただいたことがあり、絵を評価する先生が「支持体をいじめてすぎてはだめ」と何度も口にされていたのを覚えています。作家にとっては、絵のテーマや図案だけでなく、材料の特長を引き出して、どう作品に活かしていくかも大きな問題なのだと、そのとき改めて勉強させていただきました。
さて、作家たちはこうした特長を捉えて絵を描いていきます。それを鑑賞者側の私たちが意識してみることで、作家の意図すること、もっとやわらかい言葉でいえば、工夫したところが見えてくるようになります。油絵具ならゴッホがわかりやすいかもしれません。図版ですとなかなかわかりにくいのですが、実際の絵を目の当たりにすると油絵具がまるで生きもののようにうねっていたり、絵具を盛り過ぎて立体的にさえ見えてくることがあります。これも油絵具ならではの特長でしょう。あるいは木版画も例にはいいかもしれません。刀による鋭い線の連続、色と色の重なりや木目を活かした摺りなどは油彩や日本画にはできないものです。こうして絵を観るときに材料にも目を向けるとさらに深い見方ができるものと思います。
私見ではありましたが、美術作品の楽しみ方として3つの特長を書かせていただきました。もちろん、こうした見方が正しい、というわけではありませんが、ぜひ本物の美術作品を目の当たりにしたときにふと思い出していただけると嬉しいです。
絵画作品は、一般的に何かしらの絵具や支持体によって構成されています。それぞれに特徴があって、ごくごく簡単にまとめると、油彩は大画面でも耐えうる厚みのあるマチエール(絵肌)が有って、主に麻のキャンバスが支持体となる。日本画も同じような特徴があるけれど、透明性のある顔料を使い、主に紙や絹が支持体となる…など。ずいぶん前にある批評会に参加させていただいたことがあり、絵を評価する先生が「支持体をいじめてすぎてはだめ」と何度も口にされていたのを覚えています。作家にとっては、絵のテーマや図案だけでなく、材料の特長を引き出して、どう作品に活かしていくかも大きな問題なのだと、そのとき改めて勉強させていただきました。
さて、作家たちはこうした特長を捉えて絵を描いていきます。それを鑑賞者側の私たちが意識してみることで、作家の意図すること、もっとやわらかい言葉でいえば、工夫したところが見えてくるようになります。油絵具ならゴッホがわかりやすいかもしれません。図版ですとなかなかわかりにくいのですが、実際の絵を目の当たりにすると油絵具がまるで生きもののようにうねっていたり、絵具を盛り過ぎて立体的にさえ見えてくることがあります。これも油絵具ならではの特長でしょう。あるいは木版画も例にはいいかもしれません。刀による鋭い線の連続、色と色の重なりや木目を活かした摺りなどは油彩や日本画にはできないものです。こうして絵を観るときに材料にも目を向けるとさらに深い見方ができるものと思います。
私見ではありましたが、美術作品の楽しみ方として3つの特長を書かせていただきました。もちろん、こうした見方が正しい、というわけではありませんが、ぜひ本物の美術作品を目の当たりにしたときにふと思い出していただけると嬉しいです。
書店に売られている『日本美術史年表』や『歴史手帖』、あるいは展覧会会場に必ずといってよい程に置かれている年表。年表というものは〇年に〇があったと云う事象が時系列で並べられているものです。これは何に使うのでしょう。実は年表を使うと、その美術作品が生まれてきた社会や美術の流れがわかるようになります。というのは、美術作品は単独でこの世に存在しているわけではなく、その作家が生きた時代のなかで生まれてきたものだからです。それが理解できるようになると、作家の考え方や美術作品の背景が見えてくることがあります。例えば、文人画家の谷文晁には「四哲」と称される著名な弟子が4人いました。渡辺崋山、椿椿山、立原杏所、高久靄崖です。彼らはほぼ同時代を生きていますが、主な作品の制作年を年表に置いていくと、面白いことがわかります。それは江戸後期に渡辺、椿、立原は西洋絵画から影響を受けたリアリズムを吸収して創作しているのですが、高久だけは依然として旧来の中国を規範とした文人画にこだわり続けているのです。新しい潮流のなかに居たにも関わらず、高久がその影響下を受けない(あるいは受けないようにしていた)いわば保守的な絵師であったことがわかります。もしかしたら、周りの絵師が西洋絵画のほうを向き始めたからこそ、あえてベクトルを逆にすることで名を残そうとした…なんて小さな仮説も立てられますし、高久の精神性を考えるきっかけにもなりうるでしょう。時代のなかで、どう自分のスタイルを保って、あるいは創っていくかは重要なことです。年表のなかに美術作品を置き、社会や美術の動きのなかから考えてみる。これもまた美術作品を楽しむ1つの方法です。明日は③について書いてみます。
近頃、書店へ行くと美術作品の見方、あるいは楽しみ方といった本を見かけるほか、わたしの仕事柄、どんな風に絵を見たら楽しめるのかとお客様から質問を受けることが多々あります。それだけ、社会的な関心が高まっているのでしょう。わたし自身、誰かから美術作品の見方について教わったことはありませんので、それが正しい見方なのかわかりませんが、次の3点を意識して見ています、
➀その美術作品は何を下敷きに制作されたのか。
➁その作品が社会、美術史の流れの中でどう位置付けられるのか。
➂その作品はなぜその媒体や支持体で制作されなければならなかったのか。
今日は➀について。どの作家の作品も過去の美術作品を吸収して新しい作品を創造します。例えば、歌川国芳や葛飾北斎は西洋版画を吸収しましたし、岸田劉生は北方ルネッサンスから学びました。現代の作家でも山口晃さんは伝統的な日本美術の特徴を捉えたスタイルを持っていますね。このように、美術作品というのはリレーと同じで過去から現在へバトンをつなぐように関わり合っています。目の前にある美術作品の背後には何があるのか、そう考えながら、いつもわたしは絵を見ています。ただ、こうした絵の見方をするためにはそれなりにいろいろな美術作品を知っている必要があります。でも、今はネットで調べれば、ある程度のことがわかってくることでしょう。展覧会に出かけるときには面倒でもちょっとだけ予習をして行くと良いかもしれません。慣れてくると、この絵は◯◯に似ているな…とカンが働くようになります。研究者でなければ、それが当たり外れなんて気にすることなく楽しめますし、そういう発想自体が感覚的でない、知識を踏まえた上での美術作品の見方をしていると思います。明日は➁について、書いてみましょう。
➀その美術作品は何を下敷きに制作されたのか。
➁その作品が社会、美術史の流れの中でどう位置付けられるのか。
➂その作品はなぜその媒体や支持体で制作されなければならなかったのか。
今日は➀について。どの作家の作品も過去の美術作品を吸収して新しい作品を創造します。例えば、歌川国芳や葛飾北斎は西洋版画を吸収しましたし、岸田劉生は北方ルネッサンスから学びました。現代の作家でも山口晃さんは伝統的な日本美術の特徴を捉えたスタイルを持っていますね。このように、美術作品というのはリレーと同じで過去から現在へバトンをつなぐように関わり合っています。目の前にある美術作品の背後には何があるのか、そう考えながら、いつもわたしは絵を見ています。ただ、こうした絵の見方をするためにはそれなりにいろいろな美術作品を知っている必要があります。でも、今はネットで調べれば、ある程度のことがわかってくることでしょう。展覧会に出かけるときには面倒でもちょっとだけ予習をして行くと良いかもしれません。慣れてくると、この絵は◯◯に似ているな…とカンが働くようになります。研究者でなければ、それが当たり外れなんて気にすることなく楽しめますし、そういう発想自体が感覚的でない、知識を踏まえた上での美術作品の見方をしていると思います。明日は➁について、書いてみましょう。
先日、美術館主催のワークショップを担当しました。ワークショップとは体験型の講座のこと。お客様が講師の話を一方的に聴くだけでなく、カラダを使ってモノを作ったり、組み立てたり、音楽に合わせて踊ったり、会話したりと能動的な体験をすることです。ワークショップは企画展とリンクさせることが多く、私が勤務する美術館でも、より展覧会を楽しんでいただくために開催しています。今回はモノを作るという内容。最初は戸惑っていた参加者の方々も慣れるにしたがってどんどん進めて行きます。大人が対象でしたが、子供のように目をキラキラさせながら取り組んでいらしたのが印象的でした。こうしたクリエイティブな活動は、企画展云々の枠にとらわれずに見れば、人生をさらに楽しくさせてくれる行為です。上手い下手は関係なし。本人が楽しむのがいちばん。見ている私も参加したくなるくらい、ワクワクするワークショップとなり、講師、参加者の皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。これからも皆様が楽しんでいただけるワークショップを企画していきたいと改めて思いました。