かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』  三菱一号館美術館

2015年03月06日 | 展覧会

2015/3/6


 美術展にはいつだって楽しみに出かけるのだが、展示内容によっては、感動しつつも緊張を強いられたりする場合もないではない。東京の美術展の時には、帰りの新幹線の中で、図録を眺めながら思い出しおさらいをするのも楽しみの一つだが、ときとして、図録解説を一生懸命読まざるをえないこともある。
 今日は、「アメリカ合衆国が誇る印象派コレクション」という惹句が添えられた美術展ということもあって、なにか少しばかり気楽である。印象派とあればそういうこともないだろう、と安心できる。じっさい、ゆったりとした気分で会場を後にして、そのままの気分で購入した図録 [1] を新幹線のシートでパラパラとめくって楽しめたのだった。

 20世紀初頭、ロックフェラーやフォードと並んで、銀行家、実業家として巨財を気づいたアンドリュー・W・メロンの娘エイサル・メロンがワシントン・ナショナル・ギャラリーに寄贈した印象派やポスト印象派のコレクションを中心とした展示である


ヨハン・バルトルト・ヨンキント《曳船道(ひきふねみち)》1864年、油彩/カンヴァス、
34.3×47cm、Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 32)。

 《曳船道》が最初の展示作品で、一瞬、「印象派なのにどうしてオランダなのだ」と思ってしまったが、印象派だからといって、フランスでフランスの風物を描かねばならないいわれはないと思い直した

 いつものことだが、初っぱなの作品は印象が深い。幼い頃からずっと私のなかにある風景画のイメージは、ポプラや楡の並木道があるヨーロッパの田園なのだ。ほとんど西洋絵画に親しむ環境になかった幼時に、どのような絵を見て幼いイメージが形づくられたのかまったく記憶にはない。シスレーやコローやモネのどれか、あるいはその亜流の風景画だったのかもしれない。
 その幼時から抱いていた「風景画」のイメージのど真ん中に近いヨンキントの《曳船道》は、「これこそ風景画だ」と私が勝手に決め込んでしまうような絵である。


ウジェーヌ・ブーダン《ブルターニュの海岸》1870年、油彩/カンヴァス、47.3×66cm、
Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 44)。

 田園の風景画はモネやシスレーやコローだとすれば、海の風景はブーダンだろう。ブーダンの作品は8点ほど展示されていたが、《ブルターニュの海岸》がとくに目を引いた。なによりも、雲の合間から注ぐ陽光が、海面の中央部から岬の白亜の崖を輝かせているのがとてもいい。


エドゥアール・マネ《競馬のレース》1875年頃、油彩/板、12.6×21.9cm、
Widener Collection(図録、p. 52)。

 エドガー・ドガの美しい肢体を見せる2点の馬の絵の後に、エドゥアール・マネの小品《競馬のレース》が展示されていた。荒い筆致で競走馬の激しい躍動が描かれている。古典的には、馬の躍動感は前肢を挙げて立ち上がろうとしたり、駆け出そうとする姿勢が描かれる場合が多いと思うのだが、いくぶん捩れるような低い姿勢で疾駆する姿がとても生き生きとしている。


【左】 オディロン・ルドン《ブルターニュの海沿いの村》1880年頃、油彩/ハードボードに貼られた厚紙、
25.1×32.4cm、Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 56)。

【右】 ジョルジュ・スーラ《海の風景(グラヴリーヌ)》1890年、油彩/パネル、16×25cm、
Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 59)。

 マネの次にセザンヌとゴッホの絵が続いたが、私はさらに続く2作品に興味を奪われた。ともに海の風景画である。もちろん、制作年に10年の開きがあることで説明できるような差異ではない。新印象派の始祖たるスーラの面目躍如というところである。
 ただ、スーラの絵を「あぁ、美しい海の絵だ」と受容出来るわけではない。実在する風景を美しく描いたというより、心象の絵画的具象化が海という形式に仮託されたと思うので、私はスーラを通して美しい海を見ているわけではない、と思うのである。


ジャン=バティスト=カミーユ・コロー《芸術家のアトリエ》1868年頃、
油彩/板、61.8×40cm、Widener Collection(図録、p. 64)。

 風景画のコーナー(「1章 戸外での制作」)に続いて、「友人とモデル」というコーナーがあった。ルノワールの女性像を主に、ドガやロートレック、叙情性の強いモリゾの作品が展示されている中で、後ろ姿のモデルを描いたコローの《芸術家のアトリエ》が印象的だ。アトリエらしく明るすぎず暗すぎない室内は茶を主調とした色彩で統一されている。この落ち着きがいい。
 その部屋の明度と色彩のため、女性の白い着物や赤い髪帯が印象に残るアクセントになっている。なによりも、顔の見えないこの女性がとても美しい人なのだと、私は強く信じてしまうのである。そういう絵である。


【左】エドゥアール・マネ《タマ、日本犬》1875年頃、油彩/カンヴァス、61×50cm、
Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 74)。

【右】エドゥアール・マネ《キング・チャールズ・スパニエル犬》1866年頃、油彩/リネン、
46×38cm、Ailsa Mellon Bruce Collection(図録、p. 75)。

 近代絵画の祖と呼ばれるマネに犬好きの私が敬意を表して、マネの珍しい犬の絵2点を挙げておくことにする。解説(図録、p. 143)によれば、マネは犬をアトリエに入れることを嫌ったらしい。それを銀行家のペットであるタマの肖像画を描くことを友人に説得されたらしい。下世話な憶測をすれば、画業もまた商売なのである。
 現在のペットブームで、いまや犬や猫の肖像画は珍しくないし、ネットではそれを専門とする業者の宣伝がたくさんある。しかし、19世紀当時、愛玩犬といえども犬単独の「肖像画」というのは珍しいのではないかと思う。


【上】 アンリ・ファンタン=ラトゥール《皿の上の三つの桃》1868年、油彩/カンヴァスに貼られた紙、
19.7×25.7cm、Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 88)。
【下】 ポール・セザンヌ《三つの洋梨》1878/79年、油彩/カンヴァス、20×25.7cm、
Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 89)。

 「4章 静物画」のコーナーに入ると、3点目の展示にファンタン=ラトゥールの《皿の上の三つの桃》があって、その実在感にうたれた。小品なのに、表皮の細かな毛まで見えるような感じがある。
 その隣に展示されていたのが《三つの洋梨》である。もちろん、この絵の洋梨の存在感もすばらしいと思ったのだが、じつは、最初に感じたのは、この二つの果物を描いた静物画には似て非なるものがある、なにかが違う、ということだった。《三つの洋梨》はセザンヌの作で、画家が違うのだから、印象が異なっても不思議はないのだが、どこがどう違うのかよく分らないのである。
 私には絵画技法の知識がないので、そういう点から差異を考えることはできない。なけなしの知識でいえば、たとえば「古典主義」と「バロック」、あるいは 「フィレンツェ派」と「ベネツィア派」などとその違いが指摘できればいいのだが、やはり微妙な差の由来が分からないのだった。

 すぐあとに、おなじくファンタン=ラトゥールとセザンヌの別の静物画が展示されていた。


【上】 アンリ・ファンタン=ラトゥール《葡萄とカーネーションの静物》1880年頃、油彩/カンヴァスに貼られた紙、
30.5×47cm、Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 90)。
【下】 ポール・セザンヌ《牛乳入れと果物のある静物》1990年頃、油彩/カンヴァス、45.8×54.9cm、
Gift of the W. Averell Harriman Foundation in memory of Marie N. Harriman(図録、p. 93)。

 ファンタン=ラトゥールの《葡萄とカーネーションの静物》とセザンヌの《牛乳入れと果物のある静物》が他の作品を1点挟んで展示されていた。この二つの絵の差は歴然としている。そのとき、私が思ったのは「セザンヌはやっぱりセザンヌらしい」ということだけだったが、「古典主義」と「バロック」の違いと言ってもいいように思えてきた。もちろん、二人の画家は時代区分としてのルネサンス期やその後のバロック期の画家ではないけれども、静謐で端正な秩序を求めた古典主義と躍動や強調された陰影を描いたバロックの違いに相当しているように思えるのだ。


【上】ピエール・ボナール《画家のアトリエ》1900年、油彩/板、61.5×74.8cm、
Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon(図録、p. 108)。
【下】ピエール・ボナール《庭のテーブルセット》1908年頃、油彩/カンヴァスに貼られた紙、
49.5×64.7cm、Ailsa Mellon Bruce Collection(図録、p. 110)。

 印象派コレクションのなかで「もっとも充実していた領域のひとつが、ボナールとヴュイヤールである」(図録、 p. 24)ということで、最後に「5章 ボナールとヴュイヤール」というコーナーが設けてある。
 ボナールもヴュイヤールも「アンティミスト(親密派)」と呼ばれる画家で、身近な素材を飾らずに描いている。

 《画家のアトリエ》は、アトリエの窓を中心に描いている。窓の絵といえば、アンティミストでも何でもないが、デンマークのヴィルヘルム・ハンマースホイも多くの窓の絵を描いていて、私のお気に入りである。
 人が住む家には、普通に窓があるが、フェルメールが描くように窓は光源であり、また個(私)的な世界から外界が見通せる境界でもあって、存在の意味の多重性がある個所(場所)のように思える。《画家のアトリエ》の窓も、そんな「普通の」窓である。

 アンティミスムの画家として私が知っている一人はアンリ・シダネルで、やはり、自分の家の庭を多く描いている。ボナールの《庭のテーブルセット》も、アンティミストらしく自宅の庭におかれた「普通」のテーブルである。この絵をあげたのは、シダネルの《青いテーブル》や《テーブルと家》とほとんど同じ主題である親近性による。
 心安らぐ絵である、としみじみ思うのだ。

 

[1] 『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展――アメリカ合州国が誇る印象派コレクションから』(以下、図録)(読売新聞東京本社、2015年)。



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