かわたれどきの頁繰り

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【書評】ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)

2015年01月14日 | 読書


ベルナール・スティグレール
(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳
象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代
(新評論、2006年)


 近代の社会形成体においては、社会を組織する形式としての象徴交換はもう存在しない。とはいえ、象徴界は、死がとりつくように近代社会にとりついている。象徴界が社会形式をもはやとりしまらないからこそ、近代社会は象徴界の強迫観念しか知らず、象徴界への要求もたえず価値法則によってさえぎられてしまう。
       ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』 [1]


 著者は、現代を「自己破壊的になってしまった資本主義社会」である「ハイパーインダストリアル社会」 (p. 4) と定義する。現代と括ってしまったが、時代区分的に言えば、ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で描いて見せたポストモダンにおける消費(消費者)の時代とおおむね重なるのだろうが、ボードリヤールとスティグレールの年齢差の分だけその重心はずっと今に近いと考えた方がいいようだ。

 われわれの時代の特徴は、象徴的なものがインダストリアルテクノロジーによってコントロールされるようになったということである。そこでは感性的なものが経済戦争の武器になると同時にその舞台となっている。その結果、感性の条件付けが感性的経験に取って代わるという悲惨な事態が生じるのだ。
 この貧しさ(misére悲惨さ)は恥である。それは「哲学をするためのもっとも強力な動機のひとつであり、それによって哲学が必然的に政治哲学になるもの」として哲学者が時に抱くことのある恥の感情なのだ。「人間であることが恥ずかしい」という思いが呼び起こされるのは、今日ではまず、「コントロール社会」が生み出すこの象徴の貧困mlsére symboliqueによってである。  (p. 15-6)

 本書で語られることは、人間であることと象徴、ひるがえって、象徴の貧困と人間の貧しさ、恥ずかしさについてである。象徴とはなにか、象徴の貧困はいかにして生み出されてきたか。象徴は社会を形成する人間が必然的に形成してきたもので、象徴なしには社会は形成されえなかった。

 ところでヒト化の黎明期からすでに、社会を構成する集団的個体化のためには全員が「一なるもの un」、すなわち全体toutの形成に参加することが前提であったと思われる。それは「社会」と呼ばれることになる架空のまとまりの舞台が設置されるために必要なファンタスムでありフィクションであった。そこで手段としてつねに利用される社会的な次元dimensions(たとえば言語や、宗教や、家族制度、生産様式など)は、構造とか体系とか装置dispositifなどと名付けられたものであり、それらは根源的な外在化をつねに前提としており、その外在化によってさまざまな運命が支えられるのである。 (p. 32-3)

 つまり、象徴とは、「感覚的、認識的、精神-霊的(幽霊espritsのようによみがえり,毎回異なり、反復しながら永続するという意味で)な共有(paltage分有)としてのシン-ボルsym-bole、ギリシャ語のsum-bolon (p. 36) である。象徴を通じて、私たちは人間的感情を共有できる。「私」という個人は「われわれ」になることができる。だから、象徴は個人が個人として主体を形成(個体化)しつつ、全体の中の一人として「われわれ」となる根拠である。
 樫村愛子が現代社会にとって重要なのは「文化」だと語るとき [2] 、スティグレールの語る「象徴」の意味合いを強く含意していることは間違いない。さらに、「象徴」には時間的な共在性のイメージが強いが、樫村が強調する社会の「恒常性」もまたこの象徴に含意されるだろう。つまり、共時的な共有性ばかりではなく歴史的な共有性もまた重要なのである。

これらの配置を支えているもののことを、私は「後成的系統発生épiphylogénétique」による層、あるいは第三次過去把持と呼んだ。それは人間の世界の事物chose du mondeとして受け継がれる物や装置において、知や権力が凝結することを指す。その点でそれらの物や装置は、厳密な意味での記憶術ではないとしても、ムネモ-テクニックな(記憶-技術的)次元を持つ。……
 厳密な意味でのムネモテクニック〔文字〕は新石器時代以降出現し、すぐに権力を配置する装置となった。 (p. 34)

 芸術は、共有する象徴を通じた共感をベースとする。象徴を通じて「他者の感受性」にコミットして「感性的な共同体」を形成するのである。しかし、社会が変化するときには芸術もまた変化する。著者は、その変化の機制を、ミシェル・フーコーをして「マネが印象派をも越えて可能にしたのは、二十世紀絵画のすベてだった」 [3] と言わしめたエドワール・マネの絵画革新を引いて次のように述べている。

 マネは伝統と決別し、皆と分かち合えるわけではない感覚の最先端を築いた。それによって、感性にまつわる葛藤が一九世紀以降操り広げられることになる。しかし社会の大規模な産業化のもとで起こったこれらの葛藤によって、人間の感性を特徴付ける共感を構成するプロセスが張りめぐらされ、あらたな共通の感受性を築くために世界を変革するような創造性が生まれた。そのあらたな共通の感受性が、来たるべき感性的共同体の「われわれ」を問いかけのかたちで作り出すのだ。これこそ感性的実験(科学的実験と言うように)と呼ばれるものである。芸術が行なっているのは、感じるということの他性を発見し、それが未来を担うものとなるということを見出すための実験なのだ。 (p. 23-4)

 政治もまた、象徴を通じた共有性に基づくものあることは言うまでもない。

ところで、政治というものは本質的に、共に感じること、-sym-pathieにおける他者と関係を問うことである。政治的なものの問題とは、いかに共にあるか、共に生きるかを知ることであり、個々の特異性(個々の「違い」よりさらに深いところ)から始めて、それを通じ、個々の利害の衝突を越えていかに全体として互いに我慢するか、を知ることにある。政治とは都市国家citéの統一性を、共通の未来を欲するその欲望において、その「個体化=不-可分になることin-dividuation」、ひとつになろうとするその特異性において保証する技法なのである。さて、そのような欲望は共通の感性という基盤を前提としている。共に-あるl’être-ensembleとは、感性的な全体ensemble sensibleとしてあるということである。政治的な共同体とは、したがって感じるということの共同体なのだ。他者と一緒に事物(風景、街、物、作品、言語など)を愛することができないなら、互いに愛し合うことはできない。それがアリストテレスの言うフィリアの意味である。 (p. 21)

 社会を形成するにも、文化や政治にとって共有することのできる象徴は不可欠であるにもかかわらず、現代は「象徴の貧困」の時代である。そう、著者は断言する。高度資本主義社会、消費の時代、スーパーインダストリアル社会において、なぜ象徴は貧困化するのか。

 大量生産の製品をさばくという組織化、つまり近代化と呼ばれる革新によって次々と生じる新しいものを消費者に取り入れさせるという組織化は、情動とそれが住まう身体、そして消費する身体をコントロールする社会に行き着く。そのような社会におけるエネルギーの機能的な循環は、象徴という面での参加衰退させる。それは象徴と情動の停滞でもあり、それはすなわち……個体化の構造的な衰退なのである。 (p. 36)

……文化と情報と認識の資本主義というものによって、これまででもっとも憂慮すべきインダストリアルエコロジーの問題が生じるのである。すなわち、人類のメンタルや知性、情動や感覚に関する能力がこの資本主義において大幅に脅かされており、しかもそれは、権力のある人間のグループが未曾有の破壊兵器を有しているまさに今起こっているのである。シンボルが商品として大量生産されることによって起こるエコロジー的危機とは、世界を覆う巨大な象徴の貧困であり、北にも南にも(かなり違ったかたちでだが)、そして極東として今や特別扱いしなければならない部分においても、等しくダメージを与えている。
 象徴の貧困という言葉で私が意味するのは、シンボル(象徴)の生産に参加できなくなったことに由来する個体化の衰退ということである。ここでのシンボルとは知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。そして個体化の衰退が広まった現状は、象徴的なものの瓦解、すなわち欲望の瓦解を引き起こすにちがいなく、言い換えればそれは、厳密な意味での社会的なものの崩壊、つまり全面的な戦争状態へと至るのである。 (p. 39-40)

 象徴の貧困の一つの政治的な典型として著者が挙げるのは、2002年のフランス大統領選挙でジャン=マリー・ルペンに投票した人たちのことである。「それはあたかも、われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのよう」であり、彼らは「自分たちが社会に属しているとはもう感じていない」のであり、彼らの場所は「感性的に脱落してしまったがゆえにもはや「世界」とは呼べない場所なの」だとして、次のように述べている。

 四月二一日は政治的-感性的に最悪のことが起こった日であった。果てしない象徴の貧困という状況にあるこの人たちは、現代社会の成り行きを嫌悪し、何より社会の感性を――それがインダストリアル的なものでないとき――忌み嫌う。というのもゾーンに閉じこもるということが本質的に意味している感性の条件付けは、感性的体験(実験)に取って代わり、その体験(実験)を不可能にしてしまっているからである。  (p. 24-5)

 しかし、このような政治状況は現在の日本でも同じである。「ヘイト・クライム」と呼ぶべき極右の示威行動が公然と街頭で行なわれている。それは朝鮮人や中国人への人種差別意識のもっとも低劣で悪辣な発露であり、しかもほぼ同等の政治意識を持つ政治家たちが「次世代の党」なる政治党派を結成した。そこの参加した一人は、東京都知事選挙において相当の票を獲得して、心ある人びとを驚かせた。ルペン現象と同じである。
 極右政党「次世代の党」は、2014年12月の衆議院選挙で壊滅状態に陥ったが、それは決して政治状況の変化、改善を意味していない。政権政党である自民党の極右化が、それらの票を吸収したに過ぎない。つまり、自民党の最右翼部分が極右政党の役割を果たしているのである。
 象徴の貧困を体現している人びとは、間違いなく現代社会のマジョリティである。思想も哲学も、文化も恒常性も見失った「貧困者」たちが現代の政治状況の物言わぬ主役である。

  あらたな貧困者たちを忌諱すべき野蛮人などと考えてはならない。彼らこそ消費者社会の中心であり、彼らこそ「文明」なのだ。しかし文明がそういうものであるからこそ、皮肉にも文明の中心(cœur 心)がゲットーとなっているのである。そしてこのゲットーはゲットー化していくということによって侮辱され、屈辱を受けている。われわれ、つまり教養があ るとみなされる者、学者や芸術家や哲学者、先見の明があるとか事情通とみなされる者は認識しなければならない。社会の大部分の人が、屈辱や侮辱からなるこ の象徴の貧困のうちに生きているのだということを。これこそが市場の支配的な統治から生じた感性の戦争がもたらす荒廃である。社会の大部分の人は感性の被災地であるゾーンに住んでいて、そのように感性的に疎外されているようなところでは、人は生きることも愛し合うこともできないのである。 (p. 26)

 象徴の貧困は、主体形成の貧困として結果するように思われる。ジュディス・バトラーは、主体形成の契機を社会(体制)からの呼びかけに応えるときに始まると見ている [4] 。しかし、人が共有しうるさまざまな象徴をその社会に見出すことが出来ないと、主体形成は困難になるだろう。主体形成、自我の形成が困難であれば、私たちは社会の一員としての自己を形成できない。つまり、私たちは「われわれ」になることが出来なくなる。

われわれ」は、共に時間的であるということそれがわれわれの絆です。おそらく唯一の。でもそれはとても強力な、そしてとても際立ったsensible絆です。……この絆が深刻なまでに脅かされているのです (p. 58)

 意識とはそも そも自己の意識であり、それは「私」と言える意識です。「私」は他の誰とも同じではなく、私は唯一の、特異な存在であり、それはどういうことかというと私 は私に自分自身の時間を与えているのです。……ところが文化産業、特にテレビは、並はずれた規模で人々をシンクロさせる機械なのです。人々が同じ出来事を 同時にテレビで生放送で見るとき何が起こるかというと、何千万ひいては何億人という単位での世界中の意識が、同じ時間的なものを同時に自分のものとし、そ れを取り入れ、体験することになるのです。これらの意識が毎日同じオーディオビジュアルな消費活動を繰り返し、同じテレビ番組を同じ時間に見て、それが完 全に規則的になされたら(すべてはそのために作られているのですから)、そのときこれらの「意識たち」は一人の同じ人間の意識になってしまい、ということ は「誰でもない者」の意識になってしまう、つまり誰の意識でもなくなってしまうのです。 (p. 61)

 著者は、こうした機制を「私」と「われわれ」、そして「みんな」という言葉で説明する。人は、みずからが生きている社会で主体形成して「わたし」となる。主体形成が、共有しうる豊かな象徴(文化、恒常性)をもってなされるとき、私たちは「われわれ」としての絆を確かにした社会的存在となるのである。

 心的な個としての「」は、集団的個である「われわれ」に属しているものとしてしか考えることができません。「」というものは集団的な歴史を継承し、それを取り人れることで構成されるからです。そしてその集団的歴史の中に、複数の「」たちが自分の姿を認めているのです。  (p. 126)

 自己形成が貧しかった者、自らを「個体化する」、「特異化する」 (p. 117) ことに成功しなかった者、つまり「誰でもない者」の集まりは「みんな」と呼ぶしかない。このみんなのイメージは、幼児が物をねだって駄々をこねるときに「みんなが持っているから」と言うときの「みんな」にきわめて近い。たしかに人の集まりではあるが、個々の顔がない集団である。「誰でもない」人びとでしかない。消費の時代に「消費者」として括られてしまう人びとである。
 著者は、「みんなon」を群生する昆虫のようだとして、現代は「社会の昆虫化(人間の社会が昆虫社会とまではいかなくてもマルチエージェント(multi-agents多数の行為媒体)のシステムとなること)」 (p. 172) と呼ぶ。

……消費活動というものは、「」と「われわれの違いを失わせていく傾向であるように見えます。そのためもはや心的にも集団的にも個体化というものはなくなり、その代わり、私が「みんなon」と呼んだものが現れるのです (p. 144)

 象徴の貧困の時代は、「自分たちが社会に属しているとはもう感じていない」 (p. 24) 人びとが消費者社会の中心であればこそ、現代は「生きづらい」時代なのだ。

 今の時代の生きづらさがどのようなものかというと、「われわれ」に「私」を投影することがだんだんできなくなり、どんどん難しくなり、ついには全くできなくなるということです。そしてそれは他の「私」にとっても全く同じ状況なのです。
 「われわれ」というものが深刻な病を患っています。心的かつ集団的個体化に欠かせない過去把持の装置が、市場に完全に組み込まれた判断基準とその市場の今や支配的となった要請に服従してしまったことで、投影のプロセス(それによって、ある「われわれ」が自分たちを個体化することで構築されていく)が事実上不可能になったからです (p. 144)

 スーパーインダストリアル社会である現代は、「圧倒的多数」の「みんな」と「一握りの少数」の「われわれ」 (p. 179) の社会であって、圧倒的に生きづらい困難な時代である。著者は、次のように私たちに呼びかける。

……読者はおそらく、『象徴の貧困』のような本を読む気になりまた読む力がある以上、現在では非常に限られた規模の社会カテゴリーを代表しているのだということを忘れないでいただきたいと私は言いたいのです。そのようなカテゴリーは、よほど想定-外のことでも起きない限り、おそらく絶滅の一途をたどるでしょうから。 (p. 180)

われわれ、つまりこの講演を聴き、あるいはこの本を読んでいる「皆さん」と、この講演をおこない、この本を書く「」からなる「われわれ」、カントが精神の果実と言っていた人間の作品に通じているわれわれは、ほんの一握りの少数派となるのです。 (p. 182)

 しかし、もちろん著者は絶望しているわけではない。たとえば、一つの文化事象として「映画」に期待して、きわめて象徴的かつシニカルに次のように語っている。

……映画とテレビを単に対立させることが重要なのではなく、あらゆる映画につねにすでに住み着いている権力としてのテレビのことを、映画によって批判しなければならないのだ。映画とテレビの組み合い(composition共立)という実験が必要なのである。そこからなぜとはなしにバラが生まれることがある。そのときは神に感謝するしかない。たとえ神はもう死んでいるとしても。 (p. 209)

 さて、「圧倒的多数」と「一握りの少数」の社会で、「一握りの少数」がなすべきことを著者は「あとがき」の中で次のように述べている。

 私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
 しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。たとえほとんどの場合、とても間接的なかたちでしか向かえないとしても。また私にとって、彼らに向かって話すとは、何よりもまず彼らという証人を憂え配慮し)、彼らが私の声を聞く理解することがまさにできないところでしている証言を憂える(配慮する)ということだとしても。そして、彼らが最悪の事態となる前に彼らに残された唯一の象徴交換の可能性としての投票という手段によって証言している現実がどんなに耐え難いものであろうとも、何よりもまずこうして彼らに向かって話すということが、私の目には絶対に優先すべきことに見えるのだ。 (p. 211-2)

 現代日本の状況もまったく同じである。しかし、私には「その人たちに向かって話」すべき言葉が見つからない。向き合って語る言葉がなくても、たしかに「間接的なかたち」で語り続けることは可能であろう。デモのようなパフォーマティブな言葉だってあるだろうとは思う。
 本書は、次のような言葉で締めくくられている。

 まただからこそ、私は繰り返すのであり、これからも繰り返すことをやめないであろう。国民戦線へ投票する人たちに異議を申し立てる闘いにおいて、私が彼らに何よりも言いたいのは、私の彼らへの友情なのだ。 (p. 219)

 

[1] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年) p. 11。
[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるか』(光文社、2007年)
[3] ミシェル・フーコー(阿部崇訳)『マネの絵画』(筑摩書房、2006年) p.15。
[4] ジュディス・バトラー(佐藤嘉幸、清水知子訳)『権力の心的な生』(月曜社、2012年)



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