かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(3)

2024年06月20日 | 脱原発

2013年5月17日

  被爆地を這ふほかになき山楝蛇(やまかがし)
         (いわき市)馬目空

 昨年の7月くらいから、朝日新聞の投稿欄「朝日歌壇」、「朝日俳壇」から原発事故に関連して詠まれた短歌や俳句を抜き書きしている。上の句は今年の4月8日付の新聞に掲載された金子兜太の選による句である。
 人間も家畜もペットも、放射能汚染と放射能被爆によって悲惨な状況に追いやられている。そして、人間も家畜もペットもその一部は避難できたり救出されたりしているが、多くは見捨てられたままである。それでも、見捨てられていることを人々は口の端に登らせ、不十分とはいえマスコミも時として取り上げることがある。
 しかし、野生であるものたち、おそらくは人間よりももっとずっと太古からその地で生き続けてきた野生の命の被爆は無視され続けている。少数の生物学者が多くの形質異常を発見するのだが、それだけである。被爆地を這うほかに彼らの生のありようはないのである。
 そして、放射能にまみれた地を這うヤマカガシの姿は、様々な事情に阻まれてその地を去ることのできない人々の生に重なってしまう。それぞれの交換不可能な生を、東京電力はおろかどのような政治も贖うことはできない。 
   (中略)
 上記の句と同じように、5月6日付けの朝日新聞、「朝日歌壇」に次のような短歌が載っていた。佐佐木幸綱の選である。

原発反対叫びて過ぎし三十年上関の里に春は来にけり
            (山陽小野田市)淺上薫風 

 30年も闘い続けていて、まだ闘いは続いている。そして、いつものように季節はめぐっているのである。これからの30年という反対運動を想像してみる。当然ながら、私は生きてはいない。「私に目の黒いうち」とは言わないが、それでも30年経ったころには全原発廃炉が実現していればいい、そう願っている。



2013年6月14日

 5月17日の朝日新聞・朝日歌壇に次の歌が選ばれていた(選者:高野公彦)。

下北の原燃原発見下ろして安全無限の風車が回る
             (東京都)宮田礼子

 風力発電の風車の支柱が折れるという事故のニュースがあって、風力発電にもそれなりのリスクはある。しかし、無人の野に建てられる風車では真下に人がいる確率はほとんどゼロに等しく、仮に人身事故が起こったにせよ、東電福島第1原発のリスクとは比べようがない。
 風車のリスクを基準にすれば、原発1基のリスクは無限大であることは〈フクシマ〉によって事実として証明されている。原発を基準にすれば、風力発電の風車の「安全性」は無限大である。
 原子力や放射線医学の専門家はしばしば「リスクコミュニケーション」が大事だという。しかし、彼らのリスクコミュニケーションとは口八丁、手八丁、加えて札びらの威力で「無知な大衆」に「安全である、危険はない」と信じ込ませる作業であるらしい。少なくとも、東大教授の島薗進先生の『つくられた放射線「安全」論』 [1] をよむかぎり、そうとしか思えない。
 専門家の「安全信仰」と比べれば、上の歌に詠まれた「安全無限の風車」という歌詠みの眼差しがいかに正しく、信頼できるかは言うまでもない。

[1] 島薗進『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社、2013年)。



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