ひとみの目!

元神戸市会議員・社会保険労務士・行政書士
人見誠のブログです。

鵯越えの坂落とし

2012-04-23 23:48:49 | 日記
4月2日、神戸武陽会例会に初めて参加しました。

武陽会は、旧神戸二中などを含む兵庫高校のOB会です。

例会では、同じ兵庫高校出身の園田学園女子大学名誉教授田辺眞人先生より、「鵯越えの坂落としはどこか」というテーマで講演がありました。

鵯越の位置に関しては、①須磨の背山説、②兵庫の背山説、③「平家物語」の脚色説、の3説があるとのこと。

須磨の背山説は、平家物語の「一ノ谷の後ろなる鵯越え」という記述と、須磨区西部の鉢伏山の南東麓に一ノ谷が存在したことが根拠で、この説によれば「鵯越えの坂落とし」は平家の西の砦の奇襲作戦だったことになります。

兵庫の背山説は、須磨の背山を鵯越えと呼んだ歴史がないという事実と、「鵯越え道」は兵庫津の北から北区山田町への西六甲の山越え道を指すことが根拠で、この説によれば「鵯越えの坂落とし」は平家の東西の砦の中央突破作戦だったことになります。

「平家物語」の脚色説は、「平家物語」の記述は兵庫北方での奇襲を須磨北方に平行移動させたもので史実と文学は違うとして矛盾を解決する考え方です。

田辺先生は、
①一ノ谷の合戦では、平家が須磨から生田あたりまで陣を構え、それを源範頼軍が東から攻めているが、「平家物語」の記述に源軍が京都から出陣する際に範頼と義経が「一ノ谷」の東西が合戦の場所と定めていること、
②「吾妻鏡」に、関東の両将(つまり範頼と義経)が「一ノ谷」で合戦をし、9人の大将軍の首を取ったという記述があるが、その9人の中には須磨あたりで亡くなった以外の者も含まれている、
といったことから、「一ノ谷」は須磨西部を指す場合と須磨から三宮の旧神戸市街地全域を指す場合の広狭二義で使われていたのではないか。
よって、「一ノ谷の後ろなる鵯越え」は神戸旧市街地の背山、兵庫の北方で問題ない、という考えを述べられていました。

田辺先生のお話はとても面白くて、興味深く聞かせていただきました。

また、例会には高校の大先輩から若手までたくさんの方が来られていて、楽しい時間をすごすことができました!

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