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「力の限りか」

2007年10月10日 10時28分07秒 | 教育 
 10月10日の『毎日新聞』のコラム「発信箱」。
 全く同感なのです。 日本人が変わりつつあるのではないか。これは一体何だろう。と思っていた。

          ◇  

 「発信箱」論説室 玉木研二氏「力の限りか」
 落ちている子ども体力・運動能力。だが調査で皆力を出し切っているのか。私はかすかな疑問を感じてぢる。 
 がむしゃらに走り、力の限り投げる。 それを男恥ずかしがり、また人が頑張るのを笑う…。
 そんな情景を運動会などで見ると、調査にもつい疑問がわくのだ。
 それは昨今の大人社会を映す鏡かも知れない。公的調査にまともに答えない、真面目に応じない風潮が生じたのはいつからか。例えば、国勢調査は拒否や無回答が近年目立つようになった。
 1920年の第1回国勢調査は28万人の調査員を動員、「10月1日午前10時の実態」を記録すべく、夜中に懸命に駆け回った。永井荷風は「国勢調査と号して深更猥に人家の戸を敲き、人員を調査せしといふ」と「断腸亭日乗」に書き残している。
 当時、政府は国民の実態を初めて精密に調べ出すことで「文明国に仲間入り」とうたい、人々も進んで協力したという。
 匿名社会化の今、調査に積極的に協力することなど「信じられない」話かもしれない。しかし、さまざまな国民統計が次第にあやふやになり用をなさなくなる社会、それでいいのか。
 九州山地の小学校の分校で放課後、先生が翌日の50メートル走のコースを引いていた。校庭が狭く対角線だが、」それでもはみ出し校舎の間がゴールになる。先の壁にマット。子どもたちは懸命に走るから、それが必要なのだ。
 20年以上も前のことだ。クマよけの鈴を鳴らし登下校していたあの子らを、走れせてやれていたら、今そう思い返す。  

       ◇

 一斉の体力・運動能力テストには一定の批判があり、問題点が多くあることも事実であるが、一生懸命さを嘲笑するという今日の風潮は、それでいいのかと思う。

 

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