三流読書人

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ドングリ小屋住人 

ジェームス三木『憲法はまだか』 Ⅲ

2005年11月18日 08時22分50秒 | 教育 
 本日のブログ少し長すぎるのですが、どうか読んで下さい。お願いします。ジェームス三木氏『憲法はまだか』の最後の部分です。

 《フランスの思想家ヴォルテールはいった。
 「私は君の意見に反対だ。しかし君が君の意見を言うことを、もし妨げるやつがいたら、私はそいつと命をかけて闘う」
 言論の自由とはそういうものだ。どんなに意見が違っても、相手の言うことはよく聞いて、議論を尽くさなければならない。
 そのことを前提にした上で、最後に筆者自身の『日本国憲法』に対する思いを率直に記しておきたい。
現行憲法を、アメリカの押しつけとする説は、必ずしも間違っていないと思う。マッカーサーの三原則から、民政局のモデル案が作成され、その大半を、日本は呑まされたのである。
 しかし憲法が押しつけならば、民主主義も押しつけと言わねばならない。押しつけだから変えるというなら民主主義はどうなるのか。基本的人権はどうなるのか。
 当時最年少だったベアテ・シロタ・ゴードンは、1999年日本の衆参両議院による憲法調査会に招かれ、「押しつけ論」についてこう述べている。
 「『日本国憲法』は、アメリカの憲法よりずっと優れています。自分の持ち物より、もっといいものを、プレゼントするとき、それを『押しつけ』と言うでしょうか」
 自主憲法を制定するという考えも、立派ではあるが、およそ日本社会における近代システムの中で、自主的につくったものがどれだけあるだろうか。
 明治憲法は、伊藤博文が留学して、ドイツの帝政憲法を、参考にしている。大宝律令だって、中国の法律をまねている。
 漢字は千年以上も前に、中国から渡ってきた。私たちは漢字の名前を持ち、日常的に漢字を書き、漢字言葉をしゃべっている。発音こそ違うが、日本人は中国語をしゃべっているといわれても仕方がない。仏教や儒教の影響はもとより、都のつくり方からファッションに至るまで、中国の真似をしてきた。明治、大正、昭和、平成という年号も中国の古典からとっているのだ。
 自主憲法と言っても、世界の潮流と、かけ離れたものはできないだろう。世界はあらゆる意味でグローバル化した。ヨーロッパ連合(EU)は、共通の憲法をつくろうとしている。私たちはすでに、人類の理想を盛り込んだ『日本国憲法を』持っている。
 現代社会において国家の基本法である憲法は、国家権力の暴走を戒める縄のようなものである。国民が改正を望むならまだしも、権力側にある者が、縄をといてくれというのはいささかうさん臭い。
 筆者は憲法第九条の「戦争の放棄条項」に、心を洗われる。お前よくそこにいたな、がんばってるなと、抱きしめたいくらいだ。
 人間であるからには、誰でも闘争本能があり、征服欲や、名誉欲や、出世欲がある。人類の歴史は殺し合いから始まり、それが集団化して、戦争の歴史になった。
 だが無分別な文明の発達は、空から爆弾を落とすことから、核兵器に至るまで、大量殺戮を可能にした。本格的な戦争をすれば、人類は間違いなく絶滅する。世界はいま崖っぷちに立っているのだ。
 戦争の放棄を宣言し、軍隊を持たないことで、外国の侵略を阻止できると考えるのは、甘いかも知れない。だが理想を持たない人間には生きている価値がない。
 日本は、壮大で崇高な実験国家として、歩み出したのである。この実験を続ける勇気と、軍隊を持って戦争をする勇気と、どっちが尊いかを考えたい。》

 締め括りは、

《日本は第九条のおかげで、一度も戦争を起こしていない。戦争でひとりも外国人を殺していない。これほどの国際貢献がほかにあるだろうか。
 もしもこの記録が百年続いたら、さすがに世界は驚き、称賛の目を日本に向けるだろう。日本は真の勇者として、人類の歴史に、名誉ある地位を残すだろう。
 人はみな、歴史の中継ランナーである。 》

 小説としては、若干感覚的にすぎる文章が目立つが、あえてそこを買いたい。「日本国憲法」への思い入れは同じだ。歴史の中継ランナーとして、このまま次走者に渡したい。