三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

カボチャ

2006年09月06日 16時09分56秒 | 教育 


今日は涼しく、アキアカネも少なく、ツクツクホウシも泣いていません。
昼間の日差しはきついけれど、着実に秋の気配が近づいています。
ゆく夏を惜しむかのようなこのあざやかな黄色はカボチャです。

隣人の気配り

2006年09月05日 06時31分18秒 | 教育 

『朝日新聞』に「特派員メモ」という海外特派員のコラム
があります。9月1日はベルリン支局、能登智彦氏が書いています。

「隣人の気配り」

この夏、休暇で留守にしたマンションに戻ると、隣室に住む年配の男性から「家を空ける時はちゃんと教えろ」とおしかりを受けた。
記録的な猛暑でわが家のベランダの鉢植えの花が枯れそうになり、ホースをのばして外から水をやってくれたのだという。春先にもベランダにおいた巣箱の餌が足りないと指摘され「こちらで補充しておいた」と注意された。自然志向のドイツ人としては、生き物に関する出来事となると見過ごせないようだ。
「次に不在になるのはいつだ」。その後、折に触れ詰問される。しかめっ面で声も大きいので怒られる気分だが、日本のマンション暮らしでは隣人の顔もしらなかった身としては、そのきちょうめんな気配りには感心させられる。
ドイツ人は私生活への干渉を極力避ける。だが決して無関心ではない。地域住民として心にとめてくれているその実感に安らぎを覚えた。
でも考えてみればとなりの男性から花の世話を頼まれる可能性もあるわけだ。夜ベランダをのぞき百科事典で種類を調べておいた。何日かすると隣が留守だ。出番かと覗いて見ると水やりはすんでいた。上階の人が頼まれたらしい。ひとまずほっとした。信頼を勝ち得るには時間がかかりそうだ。(能登智彦)

干渉はしないが、無関心ではない。ということ。
近所付き合いのあれこれがわずらわしい。とくに歳を取るとそんな気になってくる。「老人会」などというのまである。
高齢化社会で暮らしていく知恵として「干渉はしないが、無関心ではない」ということは大事なことではないんだろうか。


オリンピック

2006年08月31日 13時42分44秒 | 教育 

 福岡市と東京都が名乗りを上げていた2016年夏期オリンピックの国内候補について日本オリンピック委員会は30日東京都を立候補地と決定した。さっそく東京都石原知事が次期首相と目される安倍晋三氏に支援の依頼のために挨拶をしたというような報道があった。おそらく巨額の国費も使われることになるだろう。
  もうやらなくてもいいって。 
  石原の最後の置きみやげに税金を使われたり、動員をさせらりたりはうんざり。 
  国民やら都民のことをしっかり考えろ。 
  一方で北京は張り切っている。 今日の『毎日新聞』の「発信箱」はそのことに触れている。

  『毎日新聞』「発信箱」「ほほ笑みを測る」 担当は飯田和郎氏(中国総局)
   《 北京の街角で見知らぬ若い女性から声をかけられた。「さあ笑って。心が明るくなりますよ」。たじろぐ私を前に、これ以上ない笑みの彼女。「笑顔1500万人運動」の学生ボランティアだと名乗った。 
 北京五輪まで8月で2年を切った。近く1500万人になる市民すべてが、笑顔で建国後最大の行事を迎えようと呼びかける活動だ。 
  店員が無愛想に客に応じる。乗り物にわれ先に殺到する……。      中国を訪れた外国人が腹を立てる場面は少なくない。たまに笑顔を向けられれば、何か企みがあるのではと勘繰る時もある。 
  胡錦涛主席は「和睦社会」(調和のとれた社会)を目指し、「以人為本」(人間本位)の実践を掲げる。
  最高指導者の号令には、人々の奉仕の精神に欠け、その行為に伴う奉仕の精神が乏しいという背景があるからだろう。 
  五輪の誘致・開催を都市の発展の起爆剤と考えるのは、16年五輪の国内候補地選定で綱引きを演じた東京都、福岡市の例をまたない。
  社会主義・中国の権力が集中する北京で開く五輪ならインフラ整備は難しくない。開催地にふさわしい総合力は人的ソフトがカギになる。 
  「北京の名刺は微笑み」(五輪組織委員会)を合言葉にした官主導の取り組みは、北京が己の力不足を熟知しているがゆえでもある。 
  市民のほほの筋肉はまだ硬いが、笑顔の浸透はGDP(国内総生産)や外貨準備高の伸びより、ある意味で価値がある。
  街に自然な笑みがあふれる時こそ、この国は変わる。 笑顔は中国社会の進化を観察する上でのポイントになる。 》  
  
  今の日本がなんぼのもんかということを忘れずに中国のこと考えたい。


教え子を再び戦場に送るな

2006年08月30日 06時02分01秒 | 教育 
世の元教師たちよ。忘れていないだろうな。

 1952年,高知県教組機関誌「るねさんす」に,当時の青年教師竹本源治さんが,「戦死せる教え児よ」と題する詩を発表した。
 
戦死せる教え子よ 竹本源治
「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/慚愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/繰り返さぬぞ絶対に!」

  この詩がウイーンの第一回世界教員会議で紹介された時,これを聞いた人々は,国の違いを越えて,ハンカチで顔をおおい嗚咽したといいます。「教え子を戦場に送らない」これが,戦後教職員運動の原点であり,万国普遍の教師の誓いであった。

 繰り返す 元教師たちよ 忘れていないだろうな。日本の教育はここから出発した。

 リチャード・アーミテージは言う。「日本は地球的役割を」(読売2005年12月4日付)
 日本について言えば、米国にとってアジア地域でこれほど重要な相手はほかにない。日米両国には共通の利害がある。それを基盤とする強力な結びつきを言葉と行動で確認する作業が必要である。海外での役割の拡大を通じて日本はさらに地球規模のパートナーとなった。
 だが、課題が残っている。それは日本が地球規模の役割を果たすかにある。あえて言えば、その決断は日本の憲法第9条の問題に関わっている。
 どうするかを決定できるのは、もちろん日本だけである。だが問題は、単に普通の軍事力を持つべきか否かになるのではない。その軍事力によっては、どのような地球的役割を果たせるかにある。近隣諸国との比較の上で目だつのは、日本の兵力の方が小さいことである。この弱点は、とりわけ軍事力を含む世界の重心がアジアに移行する時、日本に困難をもたらしかねない。
 
 アーミテージは地球規模、地球的役割と繰り返し言ってるが、誰の地球だ。
 アメリカは日本の憲法を変えたい。日本を脅迫しつつ、アメリカの世界戦略・「地球戦略」に組み入れることを企んでいる。
 日本の若者を死なせたいのだ。
 小さな政府をといって国民には痛みを強い、大きな軍事力を持つ。
 
 元教師たちよ。再び日本の若者を戦場に送っていいのか。日本国憲法第九条一項、二項を守る戦いに立ち上がれ!
 教育活動支えた憲法を変えようという奴らがいる。座視することは己の全否定につながるのではないか。
 
 涙を払って君の墓標に誓う 繰り返さぬぞ絶対に!

爆笑問題 太田光憲法を語る

2006年07月18日 08時50分00秒 | 教育 
憲法9条を世界遺産に
『すばる』という雑誌がある。文芸誌というんだろう。PC関連の雑誌の隣が文芸誌で、何気なく見ていたら、本の表紙に中沢新一―太田光 憲法9条を世界遺産に というタイトルがある。8月号です。少し立ち読みしてみたらこれは面白いと買ってしまった
爆笑問題の太田光である。大まじめである。中沢新一とは何物かは知らない。ふたりの対談であるが中沢新一という人物、大変な博識のようだが、そのひけらかしに終始して辟易するし、胡散臭い。この人のしゃべったことは一切無視して太田光の部分だけ、印象に残ったところを紹介したい。
太田光はただ者ではない。

「『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中』という番組が今年から始まったんです。ぼくがいろんなマニフェストを出して、それについて自民党・民主党の若手議員、政治評論家、タレントなどと討論するという番組です。そのマニフェストの一つに僕は「憲法九条を世界遺産にする」という。テーマを出した。… この憲法を世界遺産にすること、僕は結構本気で考えているんです。」

「最初はジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を読んだときですね。この本で、日本国憲法ができたときの詳しい状況を知って、ああこの憲法はちょっとやそっとでは起こりえない偶然が重なって生まれたのだなと思ったんです。戦争していた日本とアメリカが戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのはあの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピーク感情と、この国を二度と戦争をさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかいう次元をこえたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だなと感じたんです。アメリカはまた五年後の朝鮮戦争でまた振り出しにもどっていきますしね。僕は日本国憲法の誕生というのはあの血塗られた時代に人類が行った一つの軌跡だと思っているんです。この憲法は、アメリカによって押しつけられたもので、日本人自身のものではないというけれど僕はそうは思わない。この憲法は敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり生き方なんだと思います。」

「改憲すべきだと言う人が、自分の国の憲法は自分の国で作るべきだと、よく言います。でも僕は、日本人だけがつくったものでないからこそ価値があると思う。あのときやってきたGHQと、あのときの日本の合作だから価値があると。アメリカとしては、あの憲法を日本に与えて実験的な国をつくってみようという意図があったのかも知れない。だから、あそこまで無邪気な理想論が生まれたのでしょう。アメリカのああいう無邪気なセンス、僕は大好きなんです。僕はふだん反米的なことも言ってるけれど、日本国憲法を見ると、改めてアメリカっていいなと思うんですね。
といって、あの憲法をアメリカが持ち帰って、自国の憲法にしようとしてもアメリカ人が守れるわけがない。価値があるのは、日本人が曲がりなりにも、いろんな拡大解釈をしながらも、この平和憲法を維持してきたことです。あの憲法を見ると日本人もいいなと思えるしアメリカ人もいいなと思える。すごくいいことじゃないですか。
その奇跡の憲法を、自分の国の憲法は自分でつくりましょうという程度の理由で変えたくない。少なくとも僕は、この憲法を変えてしまう時代の一員でありたくない。」


「もう一つ素晴らしいのは、憲法九条って読んでみると、本当にわかりやすいですね。あの文言は中学一年生が読んでもわかる。
誤解しようがないし、わかりにくかったり難しいところがない。それに加えて、戦後六十年、ずっと維持してきた実績もあると思います。日本がこの憲法をずっと持ち続けてきたことが歴史なんです。戦前世代人間は、あの憲法はアメリカがつくったから違和感があると言う。でも僕は、生まれたときから四十一年間、あの憲法の中で生きてきたわけです。それを簡単に変えるな。俺の生きてきた歴史でもあるんだぞと。」

「僕らお笑いの人間は、面白いか、つまらないかを一つの判断基準にしています。漫才で、芸人がどれだけ頑張ってみせても、人が笑わなければ何の価値もない。面白のかつまらないのか、その笑いの判断基準でいえば憲法九条を持っている日本の方が絶対面白いとおもうんです。これは確信できます。
無茶な憲法だといわれるけれど、無茶なとところへ進んでいくほうが、面白いんです。そんな世界は成立しない、現実的じゃないといわれようと、あきらめずに無茶に挑戦していく方が生きてておもしろいじゃって思う。
 憲法九条というのは、ある意味人間の限界越える挑戦でしょう。たぶん、人間の限界は九条の下にあるのかも知れない。それでも挑戦していく意味はあるんじゃないか。今この時点では絵空事かも知れないけれど、世界中が、この平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。それならこの憲法を持って生きていくのは、なかなかいいもんだと思うんです。
僕らが闘うべき相手がなになのかはわからない。人間のつくり出した神という存在なのかもしれないし、人の心に住む何かなのかも知れない。その何かが、いつも人間に突きつけてくるわけです。人間はしょせん死んでいくものだ。文明は崩壊していくものだと。たとえそうであっても、自分が生まれて、死ぬまでは、挑戦していくほうにベクトルが向いていないと面白くないと思うんですよ」

すごいやないですか!
「少なくとも僕は、この憲法を変えてしまう時代の一員でありたくない。」
「生まれたときから四十一年間、あの憲法の中で生きてきたわけです。それを簡単に変えるな。俺の生きてきた歴史でもあるんだぞと。」



ゼロ金利政策解除というが

2006年07月17日 07時40分20秒 | 教育 
日銀が5年4ヶ月ぶりにゼロ金利政策を解除した。

ゼロ金利を含む超低金利政策で、国民の貯蓄から吸い上げた金利の大半は、借入金利の引き下げによって、大企業、銀行の利益につけかえられ、国民の懐から大企業への隠れた所得移転であった。
一年ものの定期預金の金利はかつての二百分の一に低下したのに、住宅ローンの固定金利は三分の一にもさがらなかった。
銀行はゼロ金利解除を見越して住宅ローンの金利引き上げに動き始めた。
超低金利と血税投入という国民の犠牲によって銀行は空前の利益を上げている。
住宅ローンの安易な引き上げなどせずともやっていける銀行の体力はある。また責任もある。
日銀がゼロ金利解除背景には、景気の回復がある。
しかし、国民の実態はどうか。
大企業は三期連続で空前の利益を上げている一方で、国民の大多数の所得が減少し、増税、負担増が重なって、格差と貧困が深刻化している。
この5年間日銀が湯水のようにつぎ込んだ余剰資金は実体経済には回らず実体経済に寄生するマネーゲームに流れた。
小泉と日銀が進めてきたのは「貯蓄から投資へ」ではなく「貯蓄から投機へ」というカジノ資本主義であった。
規制緩和や減税で「株ころがし」「会社ころがし」というマネーゲームを蔓延させた。
福井俊彦日銀総裁自身自ら村上ファンドに投資し、マネーゲームに参加していた。
ライブドアを擁護し、村上ファンドを擁護し、マネーゲームに自身も参加していた。
彼福井俊彦氏はお金を印刷する大元締めだ。
福井俊彦氏にそんなことをやらせておいていいのか。
責任をとらせて首にすべきだろう。

それでも「粛々と職責を全うしていく」(14日記者会見)のだそうだ。

 

ジダンを理解したい

2006年07月16日 14時16分48秒 | 教育 


ジダンを理解したい。
最終の決着はどうなるのか、別に知りたくもない。
W杯を見て、サッカーの世界は人種のるつぼだということ、特にヨーロッパはその傾向が強いことが良くわかった。
そして、旧宗主国と植民地の関係、特にフランスチームなどはほとんどアフリカ-ナと言ってもよいチーム編成であった。
サクセスを求めて貧しい南の国から来るサッカー少年たち。
人種差別渦巻くきびしい環境であったであろうし、大変な闘いを勝ち抜かねばならなかったであろうということは想像に難くない。

7月14日付『毎日新聞』は社説で取り上げている。
その一部
「…ここ数年、欧州のプロリーグではサポーターによる悪質なやじが問題を広げていた。黒人選手をターゲットにサルのまねをして奇声を 発するなど度を超した差別応援が社会問題となっている。4年後のW杯は、かつて悪名高い人種隔離政策で世界中から批判を集めた南ア フリカで開かれる。国際サッカー連盟(FIFA)はドイツ大会までにサッカー界における人種問題にけりをつけておきたかったに違いな い。準々決勝では試合前、両チームの主将が差別追放の宣言をするなどFIFAはさまざまな機会をとらえてアピールを続けてきた。 それにもかかわらず大会の最後の最後に問題は起きてしまった。…」

差別が歴然としてあるからこそ、ピッチの上で差別追放の宣言などが行われる。
植民地と宗主国、搾取される側と搾取する側、搾取される側が差別される。
かつて日本のプロ野球で観衆が差別的なやじを選手に対してとばし、問題になったことが何回かある。30年も前のことか。
今はそういうことは見聞しない。少しは成長したか。


猛虎 憲伸粉砕!

2006年07月15日 08時38分04秒 | 教育 

竜圧倒!!天王山まず1勝と「スポーツニッポン」の一面の見出し。その下に鈴木啓示という野球評論家の「草魂節」というコラムがある。NHKの衛星放送の中継で解説をしている。解説者としては好きではない。経験主義と精神主義には辟易する。が、今日のコラムには共感した。以下7月15日付スポニチより。
 
「草魂節」鈴木啓示
《 胸が熱くなった。3回だ。球界を代表する4番打者とエース、金本と川上がそれぞれのプライドを懸けて激突した。2死一、二塁、カウント2-1が自らの暴投で2死二、三塁、カウント2-2に変わった。この時点で川上には複数の選択肢が生まれた。一塁が空いたために、金本でもいいし、続くシーツで勝負してもよくなった。
 川上は金本との勝負を選択した。走者三塁では暴投になったフォークは使いづらいし、ボール球で誘っても金本の選球眼はいいーー。こんな苦しい状況下での決断、まさにエースの意地であった。
 その川上を、金本が冷静に打ち砕いた。カウント2-3からの7球目難しい外角球を中前へ2点適時打した。うまく体を残し、バットのヘッドを利かせる「功打」だった。
 2回の鳥谷の先制弾もたしかに大きかった。それでも試合を決めたのは金本の一打だった。以降、川上の球から『気迫』が消えた。逆に負けられない一戦を戦う阪神ナインは勇気づけられた。
 両軍の命運をも懸けたエースと4番との闘いで4番が勝った。
4番・金本を擁する阪神に当然、『勢い』が生まれる。 》

どうです。読むものも胸が熱くなるやないですか。
まだ1勝しただけです。今日も大事やで井川君。


これでもか 川柳 福井ネタ

2006年07月14日 08時12分26秒 | 教育 

二日連続福井日銀総裁をネタにした川柳、次から次と出てきます。
名誉なことですね。

『毎日新聞』 「万能川柳」12日に続いて13日も

福井さん倍になるなら皆したい         和歌山     白 浜 娘
日銀の花咲か爺木から落ち           勝浦      ナメロー
プロ中のプロと援交ど素人           横浜      破 笑 風
1000万濡(ぬ)れ手に粟(あわ)のど素人  富山           わこちゃん
皮算用総裁室でしてたんだ           我孫子      早起き太郎
日銀のトップがファンド知らぬとサ       福岡      村上 照勝
ど素人日本経済任せるの            武蔵野      保名祐太郎
金利ゼロ信用もゼロ福井さん          横浜      笹原  茂
いい笑顔もうけてたんだ福井さん        大阪      ぷ   ~
顔だけは好々爺(こうこうや)だが腹黒い    神戸      酒 みちる
持つ人のわずかなお金1000万        和歌山     伊藤 幸子
バレたので寄付して首をつなぐ人        東京      はまいち
慈善には汚い金はいりません          堺       山本 英毅
大得をしておきながら不徳とは         東京      きかん坊
進退も自己判断とうまい逃げ          東京      知 久 利
金融の番人に要る見張り役           横浜      即沸薬缶
裏ありや日銀総裁なぜかばう          横浜      クロさん
総裁が利子よりネタの贈り物          鳥羽      パ ー る

国民には痛みを強いるが庶民感覚などない人。早く辞めなさい。


川柳 日銀総裁福井氏ネタ

2006年07月13日 04時32分45秒 | 教育 
辞めませんね。福井さん、彼の首を切るのは彼自身。
コツコツと働いてためたお金、貯金しても利息が付かない。
怒ってますよ、庶民は。

『毎日新聞』(7月12日付)「仲畑流万能川柳」仲畑貴志氏選

福井さんバレなかったらどうしたの      東京     黒川 哲子
ど素人プロにまかせて大もうけ        羽生     永沼 律雄
ど素人よく総裁が務まるね          下田     枯 れ 葉
ド素人と言いながらも玄人さ         幸手     海 苔 鯛
ゼロ金利総裁様は高金利           東京     ラデアント
低金利低モラル堅持福井流          北海道    十勝 霧峰
1000万総裁殿ははした金         寝屋川    きよつぐ
私なら奨励金は1000円よ         浦安     す み れ
あれはあれこれはこれだと福井さん      高知     こうちひろし
福井氏に庶民感覚ムリかしら         神戸     徳留  節
倍になりゃ誰でも彼を激励す         八王子    桜株 南西
その筋に居るからできる金もうけ       横浜     幹 無 利
バレちゃった仕方ないので寄付をする     東京     前田 栄一
私ではなく不徳が致すのか          山形     植木 英夫
辞任せぬ甘い内規を盾に取る         東京     恩田 朔郎
総裁の品格まるで金利並み          横浜     エ イ ト
相場師に品を今さら問うなんて        出水     文ちゃん
日銀をあきらめ福井ファンドでも       成田     ま~いける


アメリカンブルー

2006年07月12日 08時57分09秒 | 教育 

アメリカンブルーという花だそうです。
配偶者がスギの丸太に植えています。
すがすがしいあざやかな青です。

昨日7月11日の花の写真 木槿というのは間違いでした。
ハマボウであろうというご指摘を受けました。
訂正いたします。
ブログの内容はそのままにしておきます。





無窮花(ムグンファ) 韓国国花

2006年07月11日 19時35分48秒 | 教育 
この時期は、野に咲く花というのは少ないようです。

この花の名もわかりません。木槿(むくげ)だと思うのですが、
いくら調べても黄色い木槿というのがありません。
しかし、花のかたちも葉っぱも木槿です。芙蓉にも似てはいます。

道のべの木槿は馬に喰われけり      松尾芭蕉
木槿咲いて祭も過ぎぬ野の小家      河東碧梧桐

木槿ということでいきます。
木槿は韓国の国花です。無窮花(ムグンファ)というそうです。
芭蕉の時代からあったのですね。

あさがお、はちすという別名もある。(明治書院 『新撰俳句歳時記』秋)
この花もあさがおと呼ばれていたのです。
秋の季語です。
歳時記をみると、このくそ暑いのに秋の季語に該当する事物が多いです。
旧暦が基盤になっているからですね。





1945年7月9日

2006年07月09日 10時23分15秒 | 教育 
1945年7月9日深夜、和歌山市上空からアメリカ軍のB29が襲いかかった。いわゆるじゅうたん爆撃。
和歌山市吉田160番地の我が家の防空壕は、あまりにもチャチで蒸し焼きにされる前に脱出、和歌山市の東のはじにある親戚目指して炎のなかをひたすら逃げた。
父は兵隊として、南方アジアを転戦していたらしい。(幸い生きて帰った)
途中、刈り取られた麦畑の隅で降り注ぐ焼夷弾を見ていた。市街地の木造住宅と人間を焼くために開発されたアメリカの兵器であった。
和歌山市で千数百人の死者が出た。
さいわい家族は、生き延びることができた。私は6歳になる少し前であった.

1945年7月9日は、私の原点である。
毎年、このことを書く。