1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』18.砂鉄からの出会い

2022-10-22 21:01:30 | 三玉山霊仙寺の記録

【砂鉄からの出会い】
「一ツ目神社」の祭神が、鍛治の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と知った時から気になっていたことがあった。前にも少し触れたことだが、菊池川流域で鍛治と言えば、菊池一族や加藤清正のお抱え刀工であった「同田貫」が思い出され、そのような技術集団が生まれる素地としての豊富な原料供給、ー砂鉄の供給ーが古代からこの流域にあったのではないかと考えたのだった。

早速、ネットで検索してみたところ、昭和37年の国の調査で菊池川流域の花房台地で九州最大の砂鉄鉱床の存在が明らかにされていることがわかった。そして、それを見つけると同時に、このような砂鉄鉱床と古代製鉄の関連について書かれた書籍若しくは論文はかならずあるはずで、機会があれば見つけて読みたいと思っていた。

実は、不動岩の翌日に行った県立図書館では、上記のことも念頭において書籍類を渉猟していたのだ。そして、期待通り、菊池のたたら製鉄について記された書籍を見つけることができた。それによれば、菊池川流域で最も「たたら」の痕跡が多いのは菊池川下流域の玉名・小岱山麓であると紹介しながらも、中流域の菊池でも五〜六ヶ所あることを地名と位置図で示し、このうちの代表的な所から「山砂鉄」や「川砂鉄」を採取して、実際にたたら製鉄を試みたことがその書籍には書かれていた。私は、その内容に驚くとともに、その数ページを図書館で複写して持ち帰ったのだが、やはりその書籍を全て読み通したいという思いが強くなり、帰宅後、直ぐにアマゾンで検索してみた。すると、どうにか一冊が検索にヒットしたが、その書籍は定価の1.5倍の価格で売り出されていた。

数日後、手元に届いたその書籍を一気に読んだ。筆者は菊池市在住の剣道六段の元小学校教諭で、昭和五十年代の約半年間、熊本大学教育学部地学教室に研究生として在籍して、教材開発の基礎資料を得るために、菊池盆地をとりまく第四紀地質を中心に野外調査を行った人物であった。書籍ではその研究成果が記載されているとともに、その結果を元に菊池盆地にかつて「茂賀の浦」と呼ばれた湖が存在したことを明らかにしていた。そして、その湖の範囲が、縄文時代から弥生時代にかけて縮小するという変遷の姿を、各時代の遺跡の分布と地形を照らし合わせて示しているのであった。
さらに、菊池盆地には5世紀以降、おびただしい数の神社が創建されているが、祭神の種類や造立地点の標高及び地形的な関連からも、「茂賀の浦」の水位低下を示すとともに地名との関連も指摘しているのである。


縄文遺跡と「茂賀の浦(縄文湖)」の範囲
中原英 著 『太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』より


弥生遺跡と「茂賀の浦(弥生湖)」の範囲
中原英 著 『太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』より

しかし、本書の真骨頂は、上記のことを踏まえた上で、「菊池」の語源は水が引いた自然地形(状態)を表すものではないかと指摘するとともに、邪馬台国と対峙した狗奴国は、稲作に適した大地と多量の鉄器類を背景に力を付けた、菊池盆地一帯の土豪勢力と考察した点である。
以下、本文より抜粋する。

『「魏志倭人伝」に「・・・・その(邪馬台国の)南に狗奴国あり、男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり、女王に属さず・・・・」とあるが、菊池は鞠智城などから、旧地名を「ククチ」と呼ばれており、「狗古智卑狗(ククチヒク)」は、菊池川流域を統率する長官ではなかったろうか。(中略)古代地名辞典によれば、ククチは「包まれたような地形、山陰にこもったあたり」という意味である。ククチを鞠智と表記していたが、それを後に「菊池」と表記し、ククチと言っていた。しかし、平安時代になると「キクチ」と読むようになったのである。私は、この「ククチ」が茂賀の浦と言われる古代の湖の水が引いて菊池盆地に広大な湿地帯ができていた頃、名付けられたと考えている。』

北海道の地質調査に携わるなかでアイヌ語の地名の多くが土地の状態や特性を表していることを知っていた私にとって、著者の考えは素直に受け入れることができた。また、そのことが当たり前のように思える一方で、アイヌ語と同様、土地の状態を表した地名が太古から引き継がれて現在に至っていることに、歴史のロマンを感じたのだった。


著者の紹介欄には『菊池川流域地名研究会事務局』と書かれてあった。数日後、著者のN先生と連絡が取れ、GW中にお会いすることができた。N先生は丸一日を費やして私に付き合ってくれ、午前の室内での話しの後、午後からは泗水町の久米八幡宮を一緒に訪問し、宮司のYさんを紹介してくれた。久米八幡宮の境内には、そこを取り巻くようにして、人頭大の丸い石で作られた龍のような石鎚がある。また、境内の一部には縄文時代の遺物を彷彿とさせる石棒や磨石を奉った所もあり、「三玉」のヒントになりはしないかと案内してくれたのだった。
その後は、菊鹿町の吾平(あいら)地区を訪れ、日本で唯一の自生地で千年以上前に中国の揚子江流域から渡来したとされる相良トビカズラという植物を観察した。次に、安産祈願で知られる相良観音とその東隣の吾平神社を参詣した後は、その西の吾平山山麓にある初代天皇の神武天皇の父である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の御陵、通称「陵さん(みささぎさん)」を訪れて、菊池川流域のみならず日本の古代について思いを馳せたのだった。


現在の地形図で見る菊池盆地(平野)と「茂賀の浦」


《参考文献》
中原英『太湖の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』熊本出版文化会館 2016年
原田種成「黒い砂」『地質ニュース』146号 p.12-27 1966年
長谷義隆、岩内明子「内陸堆積層の分布高度から求めた中部九州地溝内沈降域の変位」『地質学論集 第41号 中部九州後期新生代の地溝 別刷』1993年
熊本県教育委員会編『ワクド遺跡 熊本県菊池台地における縄文時代後期集落の調査 県営畑地帯総合土地改良事業に伴う文化財調査』熊本県文化財調査報告第144集 1994年
岩崎志保「縄文時代の植物利用と地形変化」『岡山大学 埋蔵文化調査研究センター報』No.48 2012年

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