1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』17.先達との出会い

2022-10-21 20:20:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【先達との出会い】
私が何故これほどまでに地名にこだわるのか、その理由を少し記しておこうと思う。
大学院を卒業して間もなく、仕事で携わった資源探査のフィールドは北海道だった。一年のうち約2ヶ月は当地を訪れていて、道南地域を中心に地質調査に従事していた。そこで先ず私が驚いたのは、アイヌ語由来の地名だった。そして、その地名のほとんどが、そこの土地の状態や特性を表していることを知り、それが資源探査を進める上で大変重要な手がかりとなったことだ。以来、地名には重要な意味が隠されているかもしれないという姿勢を持って、現在の地質調査の仕事も取り組んでいる。

借りてきた『山鹿市史』を読み込んだが、やはり「三玉」につながる新たな手がかりを得ることはできなかった。次の一手は基本に戻ることとした。不動岩の礫岩について地質学的研究を行い、その成果を論文にした著者を訪ねることにした。訪問に先立って、突然の無礼を詫び、目下の悩みについて相談にのって頂けないかとの趣旨の手紙を出した。
論文の著者は山鹿市内で中学校の校長を務めていらっしゃるS先生だ。全く面識も無く、S先生はその中学校には赴任したばかりで、しかもコロナ禍で忙しいはず。返事はあまり期待していなかったが、訪問すれば、何かヒントをもらえるかもしれないという期待があった。

会えなくて元々、会えればラッキーという程度の気持ちで、次の週末にその中学校を訪問した。その中学校は、菊池盆地西端に位置する台地の上にある学校で、敷地に入るとグランドでは野球部と思しき数人の生徒が自主練をやっているようだった。駐車場に車を停めようとハンドルを切っていると、ラフな格好をした初老のやや小柄な男性が昇降口に向かって歩いている姿が目に留まった。校長先生だと直感した私は急いで車を停めるとドアから飛び出して、声をかけながら駆け寄った。

その男性はかなり警戒した様子で私が近づくのを待ってくれた。人違いの可能性もあり、順を追って要件を話すと、男性の表情はみるみる和らいでゆき、最後は満面の笑みとなって自分がその本人だと応えてくれた。
S先生と私では教師と民間技術者という全く異なる職種だが、同じ「地質」を専門にしているという同族的な親近感があるのかもしれない。すぐに打ち解けて、不動岩の成因や「三玉」について様々な意見交換を行うことができた。
残念ながら、目下の悩みの解決には至らなかったが、悩みを聞いて貰えただけでも本当に有り難かった。
S先生の教職らしい最後の言葉が印象的だった。

「三玉については、オープンクスチョンで終わらせるのもいいんじゃないですか?」

なるほど、その手もあるかと思ったが、諦めるにはまだ早かった。
車に乗り込むと、この日の目的地としている山鹿市立博物館へ向けて出発した。博物館では、山鹿市を中心とした菊池川流域の考古・歴史資料の展示を見て回った。その後は、こもれび図書館を再度訪問し、加えて現地調査も行ったが、三玉につながる新しい収穫はなかった。くたびれた。

オープンクエスチョンも悪くないかもしれないと思い始めていた。

《参考文献》
島田一哉、宮川英樹、一瀬めぐみ「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌』120 p.9-18 1999年
山鹿市立博物館webサイト『https://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1264127825069/』

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