1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』22.「三玉山霊仙寺」の解釈

2022-10-26 20:39:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【「三玉山霊仙寺」の解釈】
前節で『三玉山久慶院縁起』を抜粋・要約した通り、「三玉山」は第十二代景行天皇の熊襲征伐(九州巡行)の伝えが、その由来となっていることがわかった。驚愕した。まさか、由来が景行天皇に遡るとは思っていなかったからだ。しかし、考えてもみれば、九州には、地名の説話として、景行天皇の発した言葉に因む所が各所に残っているのだ。それほど不思議なことではないのかもしれない。

ただ、飛鳥時代の8世紀の初めに、それまで貴族にしか認められていなかった仏教を庶民に広めた祖とされる行基が、この地を訪れていたことには心底驚いた(行基が当地を訪れていたかどうかについては今後の検証課題)。しかも景行天皇に因んだ名を冠した寺院を建立しているのだ。だから、その約二百年後に、菊池家初代の則隆がこの寺を再興させたことも、十分納得ができる。また、平家が威信をかけて造営に取り組んだのも当然とも言える。何しろ、景行天皇の頃からすれば、平安時代末期の時でさえ、既に千年近くが経過していることになるのだ。ハンパネェ由緒と伝統という訳だ。
しかし、二十一代の菊池重朝が、景行天皇に因んでいるとは言え、寺の名前を「本覚寺霊仙寺」に変更してしまったのは、現代の我々からすると少し残念な気分だ。

だが、「三玉山」は根強く、戦乱の時代、江戸時代を生き抜き、そして明治を経て、大正、昭和、平成、令和と現在に引き継がれた。そして現在も「三玉」という燦然と輝く地域の名として残り、市民に親しまれている。

明治二十二年の町村合併のとき、上吉田村、久原村、蒲生村の三村長らが、頭を寄せて話し合ったのだと思う。いろんな案が出たことであろう。しかし、おそらく、全会一致で「三玉村」に決まったのではないだろうか。
それにしても、「三玉」には、この数ヶ月間、本当に悩まされ続けた。前の「三玉山霊仙寺」の節では、理屈をこねくり回して「三玉」の場所を探ったが、その徒労感たるや。

吉田孝祐氏が残した資料の発見に至るまでの間、霊仙地区や生目神社には何度も足を運び、藪に入り、大汗をかき、虫に刺され、図書館では資料を漁った。しかし、歴史探究というのはこういう地道な作業の積み重ねなのだろう。地質調査とよく似ていると思った。

さて、「三玉山霊仙寺」の由来については、およそ判ったが、まだ、調べなければならないことが残っていた。
それは、吉田孝祐氏が遺した『舊山鹿郡誌』の原本の所在だ。何しろ、この資料は、山鹿市にとっては、一級品の資料となる可能性が秘められていると考えたからだ。それと、これが発見できれば、これまでいろいろとお世話になった図書館のKさんへの恩返しになると思ったからだ。

私は、また、週末の休みを利用して山鹿に向かい、今度は本澄寺を訪問した。『舊山鹿郡誌』を複製編纂した元住職は、九十歳を超える大変なご高齢でご存命であった。真新しい広い玄関に、車椅子の姿で御出になり、娘さんが介添えされての聴き取りとなった。元住職は相当に耳が遠くなっており、当初は、萎えしぼんだ様子で、娘さんも申し訳無さそうにしていた。しかし、元住職が書いた巻頭の文面のコピーを渡すと、元住職はそれをジッと眺めた。しばらくすると、次第に元住職に生気が戻って来るのがわかった。残念ながら原本は無いとのことだった。ただ、吉田氏のことはよく憶えており、吉田氏は、元住職のご尊父と親交が大変に厚く、山鹿の歴史等にとても詳しい方であったとのことだった。吉田氏の親族としては、自分(元住職)と同い年くらいの娘さんのことは憶えているが、上京されてその後のことは分からないとのことだった。
原本は見つからなかったが、吉田孝祐氏が実在していた人物であることを肌で感じることができ、元住職や娘さんとの素晴らしい時間を共有することができた。

一方、原本が県立図書館に所蔵されている可能性も探った。現在はコロナ禍で、熊本県内は、新型コロナウィルス蔓延防止等重点措置にあるため、図書館は閉館中で直接出向いてのサービスは受けられない。私は先ず図書館のウェブサイトの検索サービスを利用した。すると、著者名とタイトルの検索で吉田孝祐の山鹿郡誌はあっけないほど簡単に見つかった。発刊は1932年となっていた。次はメールによるレファレンスサービスを利用して、その著書の中に「霊仙寺の謂」があり、そこに「三玉」についての記載があるかを尋ねた。数日後、メールで返信があった。
『「霊仙寺ノ謂」の6行の中に「三玉」を確認することができませんでした。』とあった。
県立図書館に所蔵されていたのは、出版の1932年が示すとおり、昭和六年に吉田氏が最初に作成したものだった。そして、その中には「三玉」の由来は記載されていなかったのだ。つまり、吉田氏は、太平洋戦争が終了して日本に引き揚げてきた後に、序文にも記している通り、さらに調査を行っていたのだ。そして、霊仙寺については、『三玉山久慶院縁起』をいづこかで見つけ出すとともに、それを補筆するかたちで新たに山鹿郡誌を三部作成したのだ。
そして、それが本澄寺に渡り、吉田氏の三回忌を執り行った元住職が、大事な遺品であることに気づき、コピー複写して再編纂したのだ。さらに、その後、これが貴重な資料であると気づいた誰かが、山鹿市立図書館に寄贈したものと考えられる。

吉田氏は、戦争が終結して焦土と化した熊本に戻ったとき、大事な歴史資料がまたも無惨に焼失したことに大変なショックを受けたのではないだろうか。それ故に、吉田氏は、山鹿で最も由緒あると思われた、”焼失”した霊仙寺について調べ直し、それを後世に伝えるべく、この山鹿郡誌を作ったに違いない。私は、そのことに気が付いたとき、突然、熱いものが込み上げてきた。

会社の自分のパソコンのモニターに映し出された県立図書館からの返信メールを前にして、次から次に涙が溢れてきた。そして私は気づいた。吉田氏や元住職から受け継いだこのバトンを、しっかりと次の世代に渡すのと同時に、江戸時代の佐治兵衛翁や明治の三村長、そして昭和の吉田氏や元住職の皆さんの思いを、山鹿市民並びに県民の人々に広く知ってもらうのが自分の責務だと。

新聞の企画記事向けの取材がきっかけだったとは言え、興味本位から始まった「三玉」についての調査の行方が、このような重責を担うことになるとは全く予想していなかった。

しかし、私には、まだ、調べなければならないことが残っていた。

それは、景行天皇の侍臣達が見たものは何だったのか、そして、景行天皇の九州巡行は伝説ではなく史実である事を検証し、さらに、生目神社を勧請した佐治兵衛翁の本当の真意を探りだすことだった。


本澄寺の元住職と筆者

《参考文献》
速水侑 編著『民衆の導者 行基』吉川弘文館 2004年


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『三玉山霊仙寺を巡る冒険』2... | トップ | 『三玉山霊仙寺を巡る冒険』2... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

三玉山霊仙寺の記録」カテゴリの最新記事