1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

全日本剣道選手権決勝

2008-05-04 21:55:21 | 雑談の記録
さっき放映があったNHKスペシャルの中で紹介されていた二人の剣士。

高鍋剣士と寺本剣士。

彼等が熊本出身であることを忘れてはならない。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「に-57」

2008-05-04 21:17:31 | 仕事の記録
「に-57」
熊本県営藤崎台球場バックネットの座席番号だ。
勝手に指定席にしている。
熊本に戻って、この席からいったい幾つの高校野球を観ただろうか。


今日は、藤崎台球場で濟々黌野球部選抜高校野球大会優勝50周年記念招待試合が行われた。

第一試合:濟々黌対早稲田実業
第ニ試合:濟々黌対熊本工業

50年前(昭和33年)の第30回選抜高校野球大会における濟々黌の成績を記録しておきたい。

一回戦  濟々黌3-0清水東
二回戦  濟々黌4-0新潟商
準々決勝 濟々黌7-5早稲田実業
準決勝  濟々黌5-2熊本工
決勝   濟々黌7-1中京商

会場で配布されたパンフにはこう記されている。
「準々決勝で前年度優勝投手、王貞治(現ソフトバンクホークス監督)擁する早稲田実、準決勝で秋の大会、九州大会と連敗している宿敵熊本工を撃破。決勝戦は名門中京商に快勝し、紫紺の優勝旗が関門海峡を始めて渡る。」

だからなんなんだってかんじなんだけど、以来、熊本には紫紺の優勝旗はおろか深紅の優勝旗もやってきていない。
ボクは大問題だと思っている。

今日、第一試合の濟々黌VS早稲田実の試合は、残念ながらKMリトルリーグの保護者会があって観戦できなかった。(KMリーグは、7月に行われるTKU旗リトルリーグ野球九州大会兼O8年ザバス杯全国選抜野球大会九州予選を主管しなくちゃいけないのだ、そのための保護者会だったのだ)。
第一試合は濟々黌6-6早稲田実だったらしい。

午後からあった濟々黌VS熊本工は「に-57」から観戦することができた。
結果は濟々黌2-8熊本工。
ボクは濟々黌のOBだけど、現役熊本工野球部選手に言いたいことがある。
「キサマらそれでも熊本工野球部なのかッ!」
昨秋から練習や試合も何度も見にいっているけど、残念で仕方がない。
ボクには君たちの気持ちが伝わってこない。
残念だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リトルリーガー -愛する人のために- 2

2008-05-04 07:34:13 | 雑談の記録
「SASEBO」の雰囲気は最悪だった。
新チームになってエースになるはずだったリョウタロウが1年ほど前に引越しており、以来、チームは負けが込んでいた。代わりのエース?のマイクは一人で野球をやるタイプで、特に日本人の子供には嫌われていた。
キャッチャーは漁師の息子のタカシ。タカシもマイクが嫌いだった。
タカシはマイクのボールを受けながらいつも思っていた。
「リョウタロウがいれば・・・リョウタロウがいれば・・・全国制覇、そしてワールドシリーズも夢じゃなかったのに・・・こんなヤツのボールなんか、クソッ!」

熊本での遠征(練習試合)がさらに亀裂を拡大させる結果となった。
フォアボールにパスボール、エラー。バッテリーの呼吸は全く合わず、バックもボロボロだった。熊本のゴリン頭のチームにボロッカスにされたのだった。
ひとり気を吐いていたのは2番手ピッチャーのケイ、長身の少女だった。
左からのしなやかな腕の振りと絶妙のコントロールが彼女の持ち味だった。
いつもマイクを心配していた。

チームに転機がおとずれようとしていた。
練習中のことだった。
ケイの強い打球が一塁側ファールゾーンに飛んだ。
そのボールは、スピードを保ったままマサヤの後頭部を襲おうとしていた。

マサヤはレギュラーではなかった。体は小さく、どちらかと言えば、本が似合うタイプの少年だった。だけどチームでは一番の努力家で野球好きだった。
そのとき、マサヤは次の練習のために一塁側から一人でネットを運び出そうとしていた。
マイクはそれに気がついていたが手伝いを躊躇していた。

「マサヤッ!」
子供たちが叫ぶ。
鈍い音がした。続いて地面に人が倒れる音。
ファウルグランドに倒れたのはマイクだった。
子供たちがマイクに駆け寄る。
マイクは右肩に耐え難い痛みを感じながら朦朧とした意識のなかで呟いていた。
「バカヤローが・・」


つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする