むかごの日記Ⅱ

70歳を過ぎてにわかに植物観察に関心を持ち、カメラを提げて、山野を歩いています。新・むかごの日記より引っ越しました。

七草粥(自前で採集)

2019-01-06 11:11:19 | 植物観察記録

明けましておめでとうございます。

気が付けばいつの間にか長い間休載していました。新しい年を機にもう頑張りたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

明日7日は七草粥です。

正月7日に摘み取って七草粥に入れる春の七草とは、一般的には左大臣四辻善成が詠んだとされる“せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ”とされています。

花を見るだけの秋の七草に対し、質素とはいえ今も食べられる身近な植物である春の七草の方は、現在そのまま標準和名で呼ばれるのはセリ、ナズナだけであり、また改良された野菜としてはすずなのカブとすずしろのダイコンだけです。このことは、由来のはっきりしている秋の七草に対して、春の七草の風習のおこりや、歴史が今一つ定かではないことに関係がありそうです。 

 日本の書物で正月7日に新しい菜を食べることを最初に記録するのは「皇大神宮儀式帳」(804年)とされますが、ここには菜の数は書かれてなく、7種に定着するのは平安時代で、911年正月七日醍醐天皇から七種菜が献じられたことが一条兼良の「公事根源」(1422年)に載りますが、その七種が何であったかは明記されていません。また枕草子に“七日の若菜”の段に、子供の持ってきた草を“耳無草となんいふ“と笑う記事がありますが、ここでも七草の種類までは書いていません。

鎌倉時代の「年中行事誹秘抄」(1290年代に成立)には、正月最初の子の日に食べる12種の菜を挙げているほか、別に七種の菜“も使われていて、その種類は”薺、繁縷、芹、菁、御行、須々代、仏座“で今の七草粥とは順序が違いますが同じとなっています。正月上子は必ずしも七日ではありませんが、江戸時代に幕府が五節句の一つとして正月七日を式日に定めたことでこれが定着したものと考えられます。 

今ではほとんどすたれてしまっていますが、「七草なずな、唐土の鳥が日本の土地にわたらぬ先に・・・」と囃しながら七草を刻む風習は、中国の古い風習が影響しているのではないかと考えられています。6世紀に成立し中国最初の歳時記「荊楚歳時記」に正月七日の夜は鬼(鳥)が多く渡るので家々は床や戸を打つなどして追い払いました。また同書には「正月七日を人日と為す。七種の菜を以て羹を為る」とあることなどが、わが国でも正月七日の7種の菜を食べて、若菜の息吹、生命力を体に取り込もうとする風習や、七草囃子につながったと考えられます。 

 「年中行事誹秘抄」に始まる七種の菜は現在の七草と一致しますが、順序が異なり、セリから並べられるのは「連歌至宝抄」(1585年)が最も古く、それには“せり、なづな、ごぎょう、たびらこ、ほとけのざ、すずな、すすしろ これぞ七草“とあり、今はおなじものとされる”たびらこ“と”ほとけのざ“が別種として扱われたり、”はこべら“を欠いています。塧嚢抄(あいのうしょう)(1446年)、連歌至宝抄(1585年)、御伽草子(室町時代)などにも現れますが、今は定着している七草も古い諸文献では様々に表現されていて後世の人を悩ませてきました。

 正月七日に食べる七草粥は、新しい年を平和に暮らせることを願い、邪気を払う意味で食する古い風習ですが、今ではこの風習もだんだん薄れてきているというのは淋しいことです。

本来春の野に出て摘むのが春の七種でしょうが、今ではスーパーで七草のセットが販売されているというのも味気なく、中にはホトケノザとして、外来のシソ科ものが入っているとかの悲しい話もあります。

そんな中、我が家では、歩いて5分のところで、野菜となっている大根(すすな)、蕪(すずしろ)以外の50種は自前で摘むことにしています。

写真の左上から時計回りで芹(セリ)、薺(ナズナ)、ごぎょう(ハハコグサ)、はこべら(ハコベ)、ほとけのざ(コオニタビラコ)の5種です。


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1 コメント

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ステキですね (ののこ)
2019-01-10 11:29:25
春の七草の歴史についてとても勉強になりました。
ご自身で摘まれることができるのも、その造詣の深さあってこそですね。

今後も更新楽しみにしてまいります。
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