大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 3章21~31節

2017-07-14 13:38:32 | ローマの信徒への手紙

2017年6月18日 主日礼拝説教 「信じることの喜び」 吉浦玲子牧師

<ところが今や>

「ところが今や」とパウロは切り出しています。

 ところが今や、すべてが変わったというのです。キリストの十字架と復活の出来事は世界史的に見れば、イスラエルという辺境の地で、ごく小さな宗教グループのリーダーが30歳そこそこで、権力者の陰謀によって死刑にされたという取るに足らない出来事でした。当時、世界を支配していた大ローマ帝国にとっては痛くもかゆくもない出来事でしたし、イスラエルにとっても、権力者の妬みをかった人間が葬られただけの出来事にすぎませんでした。当時の歴史書に小さく書かれているだけでの出来事です。しかし、十字架と復活は一方で天地創造のときからの人間の歴史の中で最大の決定的なことが起こったということでもありました。ですから、「ところが今や」なのです。すべてが変わったのです。

 西暦では、キリストの誕生を境に紀元前紀元後、と呼び分けます。紀元前がBCビフォークライスト、キリストの前、紀元後がADアンノドミノ、主イエスキリストの時という呼び方をします。このADのカウントは実際はキリストの生誕と数年ずれていると言われますが、ビフォークライスト、アンノドミノ、これは象徴的なことです。もちろん世界共通に使う暦としては、キリスト教国である西欧の考え方を押し付けるのは良くないということで、最近は数字はいっしょなのですが言葉としてBCやADを使わないという考えもあります。しかし、ビフォークライスト、アンノドミノ、キリストの前後によって歴史が違うものとされるというのは、象徴的なことです。神の出来事が人間の歴史に切り込んでいるということです。まさに「ところが今や」ということとつながることです。

 「ところが今や」神と人間の関係が変わったのです。「神の義が示された」とあります。神の正義が、神の正しさが示されたとパウロは言うのです。しかし、これはおかしなことではないでしょうか?そもそも正しくない神などいるのでしょうか?ノンクリスチャンの方であっても神といえば、少なくともただお一人の神と言えば正しいに決まっていると普通、思われるでしょう。

 多神教の世界、また神話の世界では、神々と言われる複数の神たちがいて、その中には良い神様悪い神様がいることも確かにあります。しかし、そのような人間が人間の世界を神々に反映させて作り上げられた人間臭い神々ではなく、聖書にしるされているような天地創造の神、全能の神と言えば正しいに決まっている、そう人間は普通は考えるのではないでしょうか?

 しかし、また一方で、正しいはずの神様がなぜこんなことをなさるのか?と疑問に思うような不条理なことがこの世界に満ちているのも事実です。神は本当に正しいのか?正しい神はおられるのか?神の義はどこにあるのか?疑問に考える人がいても不思議ではありません。

 伝道者として教会におりますと、様々な方が来られ、さまざまな相談をされることがあります。聞いていて、本当につらくなる、多くの苦しみを抱えておられる方も時々おられます。その苦しみはけっしてもともと本人に非があるわけではない、育った環境が劣悪であった、さらに悪い人にだまされ、かつ自分自身も今は病に侵されている、そのような深刻な複合的な不幸を背負った方がときどきおられます。神様はなぜこの人をこんな境遇に置かれるのか、その方の背負っておられる重荷の一つでも軽くしてくださらないのか、そういうことを思うことも多々あります。

 一つ結論めいたことを申し上げますと、神の正しさというのは人間にはほんとうのところは人間には決してわからないのだということです。神の正しさは、人間がみて、それは正しいとか間違っていると判断をする範疇を越えたものだということです。幼稚なたとえになりますが、幼い子供は、自分を病院に連れていって痛い注射をさせる大人は嫌だと思うでしょう。親は子供の健康のために病気を治すために、いってみれば愛のゆえにやっていることを、幼い子供は手足をばたばたさせて全力を振り絞って拒否しようとします。人間と神との関係もしょせん幼い子供と親の関係を越えることはできないのです。いや、神と人間の隔たりはもっともっと大きいと言えるでしょう。神の正しさを人間は理解できないのです。

 本来、神の義を、神の正しさを到底わかることはできない人間に、「ところが今や」神の義が示されたのです。キリストの十字架と復活という事柄を通して神ご自身がご自身の正しさを人間に示されました。愛という形で示されました。人間の首根っこをつかまえて正しさを伝えられたのではありません。手足をバタバタさせて嫌がっている子供を押さえつけるように伝えられたのではありません。救いと新しい命を与える、そのことをもって、御自身の義を示されたのです。私たちは神の義を、神の愛によって、知ることができるようになりました。神の義はキリストの十字架による贖いという神の愛によって私たちに知らされました。

<ルターと「信仰のみ」>

 ところで、今年は宗教改革500周年と言われます。厳密に何をもって宗教改革の始まりとするかは実のところ諸説あります。しかし、一般的には1517年のルターによって95箇条の提題がウェッティンベルグの門に提示されたことをもって宗教改革の始まりとされます。

 ルターは法律家になることを両親に求められながら、あることがきっかけで修道院にはいったと言われます。雷の激しい夜、雷に打たれる命の危機を感じ、青年ルターは思わず祈りました。「命を助けてくださったら、一生神に仕えます」と。そして無事、助かりました。そしてその後、その祈りの通り、修道院にはいって修道士になりました。ルターはまじめな修道者として生活をしました。祈りと聖書研究の日々を送りました。しかし、その心には平安がありませんでした。彼は神の義、神の正しさということに悩み苦しみました。ローマの信徒の手紙に記されている神の義という問題が彼にとって深い問いとなったのです。司祭となり、自分がミサを行うようになっても、正しい神の前に、自分のような正しくない間違った者が立つことができるのか深い恐れを持っていたのです。

 ルターは決して不道徳なことをしたり修道院の戒律を破ったりしたわけではありません。むしろまじめすぎるくらいにまじめな生活をしたのです。しかし、彼には、自分の中で本当の信仰の喜びがないことを知っていました。ルターにとって神は怖い存在でした。彼は悩み苦しみました。その霊的な悩み苦しみののち、たどり着いたのが28節の「人が義とされるのは律法の行いによるものではなく、信仰によると考えるからです。」ということです。行いによって義とされるのではない、ただただ信仰によって義とされる、正確に言えば、義とみなしていただけるということです。正しくはない者が、キリストを信じる信仰によって、ただそのことのみよって義とされる、その言葉を霊的に受け止めた時、ルターは初めて心から神の恩寵を感じ、心の平安を得たのです。

 自分が正しいとされることに自分自身の努力や行為は何ら関係がない、「人の誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。」ただただ主イエスを救い主と信じ、そのキリストを与えてくださった一方的な神の恵みによって人間は義とされる、そこに思い至ったとき、ルターは本当の神の恵みを感じたのです。いわゆる「信仰義認」と言われる事柄です。現代、プロテスタントの教会に長くおられる方であれば、「信仰義認」とか「ただ信仰のみによって義とされる」ということはお聞きになったことがあると思います。そしてそれはまあそうなんだとお考えになるでしょう。自分の行為や努力によって義とされるのであればそれはとてもしんどい信仰です。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は人間の行為を重んじていたところがあります。そしてまた、歴史の教科書にも載っていたいわゆる免罪符、贖宥状(しょくゆうじょう)というものを発行して、お金で救いが買えるようなこともありました。人間の行いによって救いが与えられると考えられるような当時の状況がありました。その当時のローマ・カトリックの環境の中でルターは苦しみ、ようやく、「信仰のみ」で救われるという確信に至ったとき、平安を得たのです。ですからルターはその後、当時のローマ・カトリック教会を批判したのです。ただ信仰のみに立つべきだと。神の恵みに立て、と。

<私たちも恵みのうちに>

 しかし、どうでしょうか?現代のプロテスタント教会に所属する私たちは本当に「信仰のみ」というところに立っているでしょうか?時々申し上げることですが、日本においては多くの人が生真面目ですから、信仰のみと言っても、どうしてもがんばって立派なクリスチャンになろうとします。がんばって「信仰のみ」をやろうとしてしまいます。ただ信じて恵みによって生かされているというより、努力して良いクリスチャンになろうとしがちです。結果的に律法的になってしまいます。信仰のみではなくなるのです。

 よく敬虔なクリスチャンという言い方をします。これは世間の方がクリスチャンに対して好意的に「あの方は敬虔なクリスチャンだ」という言い方をされる場合が多いでしょう。皮肉の場合もありますけれど。クリスチャンの前置詞のように使われます。クリスチャンは敬虔である、その言葉の中にはクリスチャンは汚れなくてまじめで控えめで寛容で愛にあふれている、そんなイメージがあります。そしてクリスチャン自身もそうあらねばならないと無意識的に思っている面もあります。

 大学時代、同級生で学生結婚をした人がいました。子供ができて、その学生結婚をした友人は夫婦で赤ちゃんを置いて良く遊びに行っていました。赤ちゃんはだれがその間面倒見ていたかというと、人の良い同じクラスの男性の同級生でした。当時わたしがそれを聞いて「えー?なんで親が遊びに行ってる間、彼が赤ちゃんの面倒見るの?それもしょっちゅう。彼、たいへんじゃない?」と友達に言ったら「だいじょうぶだよ、彼、クリスチャンだから」とその友達は答えました。当時、私はクリスチャンではありませんでしたが、クリスチャンだからって、友達の子供をしょっちゅう面倒を見て、それが当然なんてことは変じゃないかと思いました。当時、そのクリスチャンの男子学生とは特に話をすることもなくてどういうつもりでお人よしにそういうことをしていたのかはわかりません。でも友人が、「大丈夫、彼はクリスチャンだから」というところに、なんとなくこの国におけるクリスチャンのイメージが現れている面があると思います。クリスチャンだから親切でまじめだと感じているのです。おそらく「敬虔なクリスチャン」のイメージは、日本人の気質と日本独特のキリスト教の伝道の歴史のなかで、なんとなく「クリスチャンと言えば敬虔」「敬虔といえばクリスチャン」そういう雰囲気が醸成されてきたところがあるのでしょう。そしてまたそれがクリスチャン自身にとって足枷となり、また、精神的なプレッシャーとなってきたところもあるでしょう。

 せっかく主イエスが来てくださり、私たちは律法から解放されたのに、今度は自分でクリスチャンの枠を作って自分を狭めてしまっている、紙に書かれた律法から解放されたはずなのに、別の枠に再び捉えられている、そういうところが、多くのキリスト者に意識的にも無意識的にもあります。パウロが「ところが今や」という「今」の時間軸を、むしろ逆行するようなことを人間はするのです。キリスト以前の状態に戻ってしまうのです。

 それは神の恵みは目に見えにくいからです。ヘブライ人への手紙の11章の「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、見えない事実を確認することです」とあるように、信仰というのはそもそも見えないものを信じることです。聖霊によって心に与えられた愛の戒めは見えません。それに対して律法という紙に書かれた掟は見えます。また、神の恵みは肉眼では見えません。聖霊により頼まなければ神の恵みはほんとうのところは見えません。神の恵みは単純に、収入が増えたとか、悩みごとが解決したということだけであらわされるものではないからです。他人から見たら不幸としか言えないような状況の中にも神の恵みが注がれ、その恵みゆえに力強く生きるのが信仰者のあり方です。その恵みは信仰によってとらえるものです。神の恵みは肉眼にはなかなか見えないのに対して、自分の行動は見えます。だからつい自分の行動を問題にします。人間は見えることにどうしても捉えられるのです。だからといって努力して良いクリスチャンになること自体は悪いことではないのではないか?善い行いをすることは良いことではないか、そう思わるかもしれません。しかしそれは言ってみれば「まじめな不信仰」なのです。神の恵みを受けることよりも自分の行動を上においているということです。

 そんなまじめさはひととき、わきに置きましょう。「主にまかせよ、汝が身を 主は喜び助けまさん」という讃美歌291の歌詞があります。この讃美歌のように、主にお任せしましょう。そのときほんとうの神の恵みが見えてきます。そして私たちは自分のまじめにすがる必要がなくなります。神の光が見えてきます。信仰の喜びに満ちあふれます。ルターは信仰のみということに思い至ったとき、聖書のすべてが新しい光に照らされたように理解できるようになったと言います。ルターはそれまでも学校で聖書を教える立場にあった人です。しかし本当に喜びをもって聖書を読むことができるようになったそうです。神の光に照らされるとはそういうことです。自分自身が神に照らされ、新しくされるのです。


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