大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書 5章31~47節

2018-08-07 12:11:26 | ヨハネによる福音書

2018年7月15日 大阪東教会主日礼拝説教 命を得るために来よ」吉浦玲子

 

<愛という関係性>

 むかしの上司がこんな話をしてくれたことがあります。技術者で仕事人間だった上司は結婚しても、また、子供が生まれても、家のことや子供のことは奥様に任せっぱなしで、毎日、残業して終電で帰って来るような日々を過ごしていたそうです。日本ではよくあるタイプの男性のあり方です。もちろん赤ちゃんである娘の顔を見ればかわいいと思い、なんとなく幸せな気持ちにもなったそうです。でも男性ですから自分で出産したわけでもなく、どこか自分の子だという実感はあまりわかなかったそうです。ある日、帰宅すると、奥様が思いつめた表情で話しかけてきたそうです。仕事で疲れて帰って来てるので話は別の日にしてほしいと上司は思ったのですが、奥さんは「今、聞いてもらわないといけない」と話しだされたそうです。話の内容は、生まれてまだ三カ月の娘さんが、先天的に心臓に欠陥があって手術が必要だということが今日分かったというのです。それを聞いてさすがに仕事人間の上司も大きなショックを受けたそうです。あらためて赤ちゃんを見ると、赤ん坊の様子には特に変わったことはなく、すやすやとおだやかな表情で眠っていたそうです。その表情を見て「この子の心臓に欠陥があるのか。」「この穏やかに寝息を立てて眠っている子が病気なのか」、、、そう思うと、何とも言えない気持ちになったそうです。ずいぶんと長いこと、ただただまじまじと赤ちゃんの顔を見たそうです。そしてそれまでそんなに長い時間じっくりとは子供を見ていなかったことを思ったそうです。そしてじっと子供の顔を見ながら、突然「この子は自分の子だ!!」「だれがなんといってもこれは俺の子供ではないか!!」と感じたそうです。なにか猛烈といってもいいような感情がわきあがってきたそうです。「恥ずかしい話だけど、あの日から娘は俺の娘になったんだ」「あの時から俺はあの子の父親になったんだ」と上司はしみじみとおっしゃいました。

 ところで、人間は漠然と、神、あるいは人間を越えた存在への畏れを持っています。悪いことがあると、神様の怒りにふれたのではないか、古来から人間はそのように感じてきました。「触らぬ神に祟りなし」というように、めんどくさい人とはかかわりあわないほうがよい、そのたとえとして「神」という言葉が出てくるくらい、神と言えば祟りさえなければよい、悪いことが起こらなければ良いと考えるのが普通でした。人間はどちらかというと積極的に神に期待をするというより、あまり関わりを持たない方が良い、神を畏れつつ、敬して遠ざけるあり方を選んで来ました。もっとも触らぬ神といいつつ、神が御機嫌を損ねない程度には、お参りしたり、お供え物をしたり、なんからの宗教的儀式を行って、神様のたたりを回避しようともしていました。

 今日の聖書箇所で、主イエスは「あなたたちの内には神への愛がないことを、知っている」とおっしゃっています。漠然とした畏れや敬して遠ざかるあり方と、愛するということは遠く隔たっています。神は本来、人間を愛される神です。以前にも申し上げましたように、愛というのは相互の関係です。相互に知りあって、愛し愛される関係になるのです。御機嫌をとったりなだめたりするような関係ではありません。

 心臓の悪い娘さんの上司が、それまで決して娘さんのことを疎んじていたわけではないけれど、病気のことを聞いて、始めて真剣に娘さんと向き合ったことをさきほどお話ししました。まじまじと娘さんの寝顔を見つめたそのとき、ほんとうに上司はその子の父となり、その子供は上司の子供となったのです。娘さんはまだ赤ん坊で愛し愛されるという関係とは少し違うかもしれません。しかし、そこに親子としての本当の関係が始まっていったのです。愛の関係の第一歩が始まって行ったのです。子の親となり、親の子となる、そのような人間の親子においてもどこかで自覚的に関係を構築していくものです。親子関係に限らず人間の本来的な関係はそのようなものです。お互いの存在を受け入れ、また、ときには反発をしながら、関係性を結んでいくものです。関係性のないところに愛はありません。

 聖書の神もまたそうです。旧約聖書には、エゼキエル等の預言者などで神の言葉として「あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」という言葉が繰り返し語られています。神は人間を創造された神です。しかし、創造しっぱなしではなく、あらためて関係を持たれる神なのです。人間が神の民となり、神は人間の神となられるのです。人間の親子関係が、血のつながりや戸籍上のことを越えて、人格的な交わりをもってまことの親子となって行くように、神と人間もまた、交わりを持っていき、神とその民とされるのです。

<見えない神をどうやって知るのか>

 しかしまた神と言う存在は、人間にとって目に見えるものでも、その声が耳に聞こえるものでもありません。37節に「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」と主イエスご自身が語っておられます。私たちは祈りの内に神の御心を感じ取ることはできても、はっきりとした存在としては、なかなか感じることはできません。ですから神との関係と言われても困ってしまうところがあります。ヨハネによる福音書1:18に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とあったように、私たちは神を見ることはできませんが、「この方」、つまり、イエス・キリストによって神を示されるのです。

 しかし、そのイエス・キリストは神をお示しになる方でありながら、主イエスの時代であってもそのことは理解されていませんでした。いえむしろ、主イエスが父なる神の御子であることをおっしゃればおっしゃるほど、主イエスは神を冒涜していると、人々からとられたのです。たしかにそうでしょう。現代においても、「私は神である」とか、「キリストの再来である」とか言う人がいたら、普通、皆「この人はおかしい」と思うのです。

 そもそも31節で「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」と主イエスご自身おっしゃっています。証しというのは、本来、法廷用語です。法廷で「わたしは犯人ではない」と言葉でだけ言ってもなかなか真実と取られないのと同様に、自分自身の真実を判断するのは自分ではありません。では主イエスが神の御子であり、救い主であることを証しするのは誰でしょうか?私たちでしょうか?人間が主イエスは神の御子であるかどうか判断するのでしょうか?たしかに私たちは往々にして判断をします。神に対して、この神は良い神か悪い神か判断をします。この神はわたしのプラスになるのかそうでないのか判断をします。この神は私にとって利益がある、いや私には役に立たない、と主イエスの時代から、いえ、旧約聖書の時代から人間はそう考えてきました。人間は神の上に立って、神を裁いていました。神を畏れながら、一方で神を裁いてきたのが人間です。神を裁きつつ、うまく手なずけられる、うまく御機嫌がとれると考えて来たのが人間です。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。」と39節に記されています。聖書を研究しているというと堅い言葉になります。しかし、ある神学者はここの「研究する」という言葉は調べるとか勉強するというような軽い言葉ではなく、「研究する」としか訳せないような言葉なのだと語っています。実際、皆さん方はとても不思議に思われるかもしれませんが、現代においても、高名な聖書学者と言われる人々が皆深い信仰を持っているかというとそうでない場合もあるのです。ヘブライ語やギリシャ語の権威であって、聖書の歴史にも精通しているからと言って、主なる神への信仰があるとは限りません。聖書を詳しく読みながら、イエス・キリストをただの人間としてしか読めない人々も多くいます。もちろん、私たちは聖書学者の膨大な学問的な成果によって恩恵も得ています。しかし、信仰は学問ではないということも覚えておく必要があります。

 私たちは聖書学者のように、また主イエスの時代の律法学者やファリサイ派のように本格的には聖書を研究はしていないかもしれません。しかしそうであっても、私たちはこの聖書がイエス・キリストを証するものだと信じて読むとき、聖書自身が、私たちに語りかけてくることを体験します。そしてまた証しと言うことであれば、洗礼者ヨハネは、主イエスを証しするためにやってきました。主イエスは「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」とおっしゃっています。ともし火というのはひととき照らすあかりです。イエス・キリストご自身が光であるというときの光とは違います。教会の会堂の裏手の扉を、日が暮れてから開けるのは暗くてたいへんです。ですから、センサーで人がいることを感知して扉のあたりを照らしてくれる灯りをつけていただいています。それがおそらくこの間の地震でセンサーの角度がずれて、扉の前にたっても灯りがつかなくなりました。普通に、灯りが点いている時はそれが当然で何とも思わなかったのですが、灯りがつかなくなるとたいへんに不便です。ヨハネは主イエスに先立ち、主イエスはどのような方かをあらかじめ照らしてくれたともし火でした。センサーライトで扉が照らされるように、ヨハネは人々が迷わずに済むようにやがて来られる救い主をひととき照らしたのです。しかし、そのヨハネのともし火を人々は「喜び楽しもうとした」と主イエスはおっしゃいます。ヨハネが照らそうとしたその先のお方のことを考えることなく、単にヨハネの教えを喜び楽しんだのが人間だと主イエスはおっしゃるのです。夏に花火を楽しむように、ひとときの光としてヨハネの言説を人々は自分が良いように解釈して、自分の利益になるように理解して喜んだのです。

 私たちもまたそうなのです。御言葉の中の自分にとって耳触りのいいところだけを聞きがちになります。聖書のなかの心地よい言葉だけを意識的にも無意識的にも読みがちです。そして神を自分の都合のよい神として解釈するのです。そういうことを避けるために、多くの改革長老教会では、連続講解説教として、聖書の有名な箇所だけでなく、全体を読む方法をとっています。そしてまたお一人お一人の聖書との向き合い方においても、聖書全体を通読するというのはとても大事なことです。まだ旧新約聖書66巻全巻を通読された経験のないという方はぜひこれから通読をして頂きたいと思います。しかし、繰り返しますが、それは学問的なことではありません。旧約聖書であれ、新約聖書であれ、そこにはすみずみにまで、主イエスの光がさしていることを覚えながら味わうのです。そのとき私たちはそこで生きたイエス・キリストと出会うことができるのです。

<別の方>

 さて、主イエスは「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と32節で語っておられます。ある説教者はこの「別に」という言葉に注目されています。なぜ「父なる神」が証しされるとはおっしゃらないのか?「別におられる」とあえておっしゃるのか。それは、「別に」という言葉を心に刻んでほしいからだろうとその説教者は語ります。私たちは、私たちの中に力があると思い、判断する能力があると思い、神を知る力があると思います。しかし、信仰のことがらというのは、私たちの「別」のところから来るのです。「外」から来ると言っても良いでしょう。信仰は外から与えられるものなのです。私たちの内側にはなにもないのです。「別」のところから、「外」から与えられるのです。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」と39節に「永遠の命」という言葉があります。私たちが私たちの内側の力で聖書を研究しても、「永遠の命」を探しだすことはできません。それは「別」にあるのです。「外」から与えられるのです。「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と主イエスはおっしゃいます。主イエスと出会い、主イエスと愛の関係を持ち、主イエスと共に生きる時、私たちは主イエスというお方から、「外」から命を与えられます。

 心臓の病がある娘と向き合い、「この子はまさに俺の子だ!」と叫んだ父親のように私たちは主イエスと出会うのです。これまで何度も聖書は読んできた、御言葉を聞いてきた。しかしなお、繰り返し出会うのです。そして感じるのです。「このお方こそまさに私の主であり、わたしの神だ」と。疑い深いトマスと呼ばれるトマスという弟子は、このヨハネによる福音書の20章で、主イエスの復活を疑った人間として登場します。しかしそのトマスの前に復活の主イエスが現れてくださいます。弟子たちのいた部屋は鍵がかけられていたのに、いつのまにか主イエスが部屋の中におられました。まさに「別のところから」「外から」お越しになったのです。その主イエスと出会った時、トマスは「わたしの主、わたしの神」と信仰告白をしました。それまでもいくたびも主イエスと出会っていたのです。いえ、一緒に生活をしていたのです。毎日のように顔を見合わせていたのです。しかし、「外」から来られた主イエスによって変えられました。主イエスを神と告白をする者に変えられました。そして本当の命に生きる者とされました。私たちもまた、毎日、「外から」来られる主イエスと出会い、まことの命に生きる者とされます。そこでほんとうに命に生きる者とされます。永遠の命を得るのです。 


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