大阪東教会礼拝説教ブログ

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大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章27~36節

2024-08-13 14:44:35 | ヨハネによる福音書
2024年8月11日大阪東教会主日礼拝説教「あなたは敵を愛せますか」吉浦玲子
<倍返しではなく>
 「敵を愛せ」と言う言葉は新約聖書の中の重要な教えです。クリスチャンでない人々にもイエス・キリストが「敵を愛しなさい」とおっしゃったということはよく知られています。また一方、クリスチャンにとって、この言葉ほど実践しがたい言葉はないのではないでしょうか。自分の敵である人、自分を憎んだり、悪口を言ったり、侮辱する人を愛すると言うのは、なかなかできないと思います。
 実際この世界を見回しても、歴史を振り返っても、クリスチャン同士が敵対して争っています。キリスト教国と言われる国々がそれぞれに従軍牧師や従軍司祭を立てて戦争へと赴き、戦ってきた歴史があります。敵を愛せなかった歴史が厳然とありました。
 では今日の聖書箇所は、人間にはなかなかできないことだけど、できるだけ頑張りましょうと言う努力項目として主イエスは語っておられるのでしょうか。そうではありません。今日の聖書箇所も前の言葉と同じく主イエスの弟子に向かって語られていることです。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」そう主イエスは語りだしておられます。
 語られている内容は、ある意味、相当に過激なことです。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」
 ここを表面的に読みますと、暴力を肯い、泥棒を助長するかのようにも見えます。しかし、ここで描かれていますことは、のちに主イエスご自身が実践されることです。主イエスは逮捕されたとき、兵士たちから暴力を振るわれました。服も奪い取られ、下着まで取られました。それは父なる神のご計画が成就するためでした。だからといって、主イエスがなさったことだからと私たちにできることでしょうか。
 私たちは頬を打たれたら、相手の頬を打ち返したくなります。自分のものを奪われたら、当然、取り返したくなります。少し前に、倍返しだと言う言葉が決まり文句になっていたドラマがありました。やられたらやりかえす、倍返しだといって、あくどい相手を懲らしめる痛快なドラマでした。そのようなドラマが人気を博し、多くの人が、倍返しをされて打ち砕かれる敵をみて留飲を下げるのは、現実の世界では、多くの場合、やられてもやりかえせないからです。
 理不尽に私たちの権利が侵され、不当な扱いを受けることがこの世界にはあります。それらのことに泣き寝入りしないといけないことも多いのです。この言葉が語られていたイスラエルもそうでした。ローマ帝国に支配されたイスラエルで人々はあえいでいました。人々は重税を課され、ローマからの侮辱を受けていました。ですから主イエスの弟子の中には熱心党という武力をもってでもローマを倒そうという考えの者もいたのです。
 そしてまた、こののち弟子たちは伝道をしていきますが、そこには、主イエスを救い主と認めないユダヤ人たちからの迫害、さらにローマ帝国からの迫害がありました。その中で、弟子たちは、ユダヤ人やローマに対して武力蜂起をしたわけではありませんでした。
<悪を増幅しない>
 ここで注意をしたいのは、主イエスは悪をそのままに放っておいていいとはおっしゃっていないのです。自分に対して悪を行う者に抵抗するなとおっしゃっているのです。なぜでしょうか。それは悪を行う者に抵抗をしても、悪はなくならないからです。仮に自分の頬を打つ者に打ち返して、相手をやっつけることができたとしても、それで悪はなくならないのです。相手は、さらに強力な武器を使ったり、仲間を連れて来て報復をするかもしれません。報復はなかったとしても、やっつけられた人間の心にはいっそう憎しみが増し加わっているのです。その憎しみはさらなる悪の行為を引き出していくのです。悪は増幅していくのです。
 むしろ主イエスはおっしゃいます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」何かこれは当たり前のことのようです。でもこれは敵に対しておっしゃっているのです。自分を苦しめる敵が、喜ぶようなことをしたいとは普通思えません。むしろ、あいつなんて嫌な思いをしたらいいのにと思うことすらあるでしょう。それは人間として普通の感情です。
 しかし、「わたしの言葉を聞いているあなたがた」は、敵がしてもらいたいと思うことを敵に対してしなさい、と主イエスはおっしゃるのです。それはなにか釈然としない納得できないことです。しかし、なお主イエスはおっしゃいます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。」
 主イエスの言葉に聞く者、主イエスの弟子たちは、愛してくれない人を愛し、自分によいことをしてくれない人に善いことをしなさいとおっしゃっています。そこにこそ神の恵みがあるのだと、主イエスはおっしゃいます。ここで注意をしていただきたいのは、聖書で語られる愛というのは感情ではないということです。主イエスは悪人を好きになりなさいとおっしゃっておられるのではないのです。好き嫌いという感情ではなく、愛するという行動を起こすのです。
 さて、罪人たちは自分の愛する者を愛し、自分に良くしてくれる人に善いことする、でもそこには恵みはないのです。敵を憎み、敵に悪を為すのはこの世界一般のことであって、悪を増幅することです。そこには神の恵みはなく、そのような行いは神に喜ばれないと主イエスはおっしゃっています。
 そしてまた「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」とおっしゃっています。これは自分の行いに見返りを求めるなということです。私たちはどうしても見返りを求めてしまいます。何かたいそうな見返りでなくても、やったことに対して一言くらいありがとうといってほしいと感じることもあります。しかし、厳しいことのようですが、愛は相手に仕え、相手のために痛むことですから、愛の本質として見返りは求めないのです。
<私たちの報い>
 しかしここまで読んできまして、やはり敵を愛すること、見返りを求めないことというのは、現実的には難しいことだと感じられます。私たちは歯を食いしばるようにして自分を苦しめる相手に善いことをなし、まったく感謝をしてくれない人に対しても愛を捧げなくてはいけないのでしょうか。
 主イエスは「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」とおっしゃっています。敵を愛したら、たくさんの報いがあるというのです。敵からは感謝されなくても、場合によっては酷い目にあわされたとしても、神様からは良い報いを受けるというのです。じゃあ人間から見返りがない代わりに神様から報いが来ると言うのでしょうか。そうすると結局、私たちの愛や行為というのは自分に何かいいことがあると言うことに基づくのでしょうか。半分はそれは当たっていると思います。私たちはこの世での見返りを期待してはいけないのです。ただ神に喜ばれる愛の行いを実践していくとき、たしかに神から報いを受けるのです。その神からの報いにのみ、期待をして生きていくのが主イエスの弟子であると言えます。そしてその時、私たちは、まことに神の子とされるのです。
 しかしまたそれは、神様の前で点数を稼ぐように、無理をして敵を愛して報いを得ると言うものではありません。神の恵みを受けつつ歩むとき、少しずつ私たちは敵への憎しみや相手からの見返りがどうでもよくなってくるのです。やせ我慢ではなく、ただ神の恵み、報いだけで充分だと思えるようになってくるのです。神の恵みの豊かさにとっぷりと満たされて、敵への憎しみも、見返りを得られない嘆きも書き消えていくのです。
 昔、受洗して間もない頃、教会で少し嫌なことがあって、牧師先生にクリスチャンなのに教会の人はどうしてああいうことをするんですかと不満を言ったことがあります。その時、先生がおっしゃったのは、「そういう嫌なことをする人たちは、心に深い傷を持っているんですよ。クリスチャンになったからといってもその傷が癒されるには時間がかかるんです」ということでした。私自身、たしかに振り返ると、誰かに傷つけられたこと、裏切られたこと、そういったことは傷の大きさは異なっても、やはり心に残っているのです。その傷が痛む以上、傷つけられた相手を赦すことも愛することもできないのです。しかしまた、主イエスの光の中で、その傷はたしかに癒されていくのです。ふと気づくと、それまで心の奥に持っていた相手への憎い思いや、悲しい思いが薄らいだり、消えているのです。そのように神の恵みの内に生きる時、私たちは少しずつ敵を愛することができるようになります
<憐れみ深い者になる>
 そしてまた、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と語られています。いと高き方、神は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いとおっしゃっています。恩を知らない者、悪人とは、そもそも私たちのことではないですか。私たちは神の愛を無視し、恩知らずな者でした。神の前で罪を犯す悪人でした。私たちこそが神にとっての敵だったのです。そのような私たちを見捨てることなく憐れんでくださったのは神でした。その憐れみゆえに、主イエスを十字架につけて私たちの罪を贖ってくださいました。最初に言いましたように、その十字架の時、主イエスは憎まれ侮辱され暴力を振るわれました。下着までも奪い取られました。私たちを救うためでした。主イエスが、神の敵であった私たちのために命を捨ててくださり、私たちは救われました。それだけでなく、いと高き方の子とされるのです。それほどに憐れみを受けた私たちも憐れみ深い者となります。敵であった私たちはすでに神の子とされているのですから、私たちはたしかに憐れみ深い者となれるのです。憐れみ深い者となれるのですから、憐れみ深い者として生きることを決断するのです。愛は感情ではないと申し上げました。憐れみ深くあることも情感的に憐れむのではありません。キリストが私たちにしてくださったように、私たちも憐れみ深く生きるのです。そんな私たちにいっそうの恵みと良き報いと祝福が注がれます。




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