大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章1~10節

2024-09-03 17:18:50 | ヨハネによる福音書
2024年9月1日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの謙遜」吉浦玲子
<ふさわしい方>
 主イエスは弟子たちに「貧しい者は幸いである」に始まる多くの言葉をお語りになりました。「敵を愛しなさい」「人を裁いてはならない」「人の口は、心からあふれることを語る」このような言葉を語られました。今日の聖書箇所はその後のことです。主イエスは、カファルナウムという、ガリラヤ湖北西に位置する湖畔の町へ向かわれました。この町は主イエスの宣教の拠点となっていた町でもあります。
 このカファルナウムは旧約聖書には出てこない町です。紀元前二世紀ごろに建てられました。今日の聖書箇所には百人隊長が出てきます。この百人隊長は、当時の歴史的な状況からするとローマの軍人ではないようです。ユダヤ人でもなく、異邦人、一説にはシリア人であったと言われます。その百人隊長の部下が「病気で死にかかっていた」とあります。百人隊長から重んじられていた部下でした。またこの「部下」という言葉は「僕」という言葉でもあり、「僕」とは奴隷のことを指します。ですからこの部下と書かれている人物は奴隷であって、たいへん優秀な人であったのかもしれません。「重んじられている」という言葉には、値が高い、高価なという意味もあります。ですからこの部下はとても優秀で高い値段で買われた奴隷であったのかもしれません。その部下の病気に百人隊長は胸を痛めたようです。このあたりの感覚は奴隷制のない現代の日本では分かりにくいことです。ただおそらく、百人隊長は、単に持ち物としての奴隷を惜しんでいるのではなく、この部下と深い交わりがあったのでしょう。ですから、当然、百人隊長は、医者を呼んだり、薬を与えたり、できる限りのことはしていたでしょう。しかし、その部下はどんどん悪化して死の淵をさまよっていたのです。その百人隊長が、主イエスのうわさを聞き、主イエスに部下を助けてもらえないかとユダヤ人の長老たちに頼んだというのです。
 ユダヤの長老たちとは、ユダヤの宗教的な指導者たちです。本来、ユダヤ人は神の特別な民であると自負しているはずの長老たちが、異邦人であるこの百人隊長の願いを聞き入れたというのは不思議な話です。そもそもユダヤ人は異邦人とは食事も一緒にしない、異邦人と交わったら汚れると考えているのです。そんなユダヤ人の宗教的指導者たちが、異邦人である百人隊長のために主イエスに願いに行くというのは、本来は、ありえないはずのことです。
 長老たちは主イエスのもとに来て、熱心に願って言いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」その百人隊長は、ユダヤ人の信仰に好意をもってくれて、さらには礼拝をするための会堂まで建ててくれたと言うのです。言ってみれば、教会員でもない親切な人が、会堂建築のために、必要なほとんどのお金を出してくれたというようなことです。そういうことを異邦人の百人隊長はやってくれた、だからあの人の部下が癒していただくのはふさわしいことだと頼んだというのです。

<ふさわしくない>
 長老たちの言葉を聞いて、主イエスは長老たちと共に、百人隊長のところへ向かいました。しかし、百人隊長の家の近くで、百人隊長の友人が百人隊長の言葉を伝えます。百人隊長みずからが出てこないなんて失礼な、と思ってしまいますが、むしろ百人隊長は謙遜の思いをもって友人に伝言を頼んだのです。「主よ、御足労に及びません。わたしはなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」いやいや、部下を癒してほしいと頼まれたから主イエスはお越しになったのであって、ここまできて家に来なくていいとはどういうことだと不審に思います。さらに友人の言葉は続きます。「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
 つまり百人隊長は、自分は主イエスを自分の家にお迎えしたり、自分から主イエスのところへ伺うことにふさわしくない者であると友人を通じて言っているのです。ユダヤの長老たちは百人隊長のことを「主イエスの癒しの業をしていただくにふさわしい方だ」と言い、百人隊長自身は「ふさわしくない」と語っているのです。
 なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。百人隊長は謙遜な態度で言っているのです。しかしこれは日本人が一般に考える謙遜やへりくだりとは異なります。日本人は「いえいえ私などはつまらない者で」というとき、自分の徳や実績や地位に対してへりくだることが多いと思います。しかし、この百人隊長は異なるのです。この箇所に関して、横浜指路教会の藤掛牧師はこうおっしゃっています。百人隊長が考えていたことは、「自分は神の民ではない」ということだと。ユダヤ人が神から特別に選ばれた民として神を礼拝して生きているのに対して、自分は神の民ではないということを百人隊長は自覚しているのです。神の民ではない自分は主イエスをお迎えするにはふさわしくないと言っているのです。
 当時、異邦人でも、所定の手続きを行えば、ユダヤ教に改宗することは可能でした。ユダヤ教に改宗をして律法を守れば、異邦人でも神の民として生きていくことはできたのです。しかし、この百人隊長は、改宗はしていなかったのです。神を信仰する姿に心を寄せ、多額の献金までしていたけれど、今一歩、信仰へと踏み込めなかったのです。この一歩踏み込めない、その一歩は大きな一歩でした。
 現代でも、キリスト教に好感をもって、場合によっては礼拝に来られる方もあります。教会に来て、平安な気持ちになったり、あるいは讃美歌を歌って喜びを感じたり、そしてまたいくばくかの献金をお捧げくださる方もあります。しかし、信仰へと一歩を踏み出せない、神の民とならない人々があります。百人隊長もそういう一人でした。そしてこれまではおそらくそれでいい、と思って過ごしてきたのでしょう。一歩、踏み込む必要はない、宗教などにのめりこまず、適度な距離を置いて、宗教的な雰囲気を味わったり、善い行いをしていたらよい、そう思っていたのでしょう。

<迫られる>
 しかし、大事な部下が死の淵をさまよっている、それに対して、もうどうすることもできない、会堂を建てるだけの献金だってできる自分であっても、目の前の死に行く命をどうすることもできない、その無力感の内に、主イエスなら助けてくださるだろうと百人隊長は考えました。しかしまた同時に、そんな自分の姿勢を彼は深く顧みたのです。救いを求めながら、神の民とはなっていない自分の姿をつくづくと顧みたのです。これはある意味、神から百人隊長がその態度について、部下の病気を契機に迫られたことだといえます。そしてつくづく百人隊長は自分が主イエスを迎えるには「ふさわしくない」と考えたのです。ユダヤの長老たちが多額の献金を捧げたから「あの人はふさわしい」とほめそやしていたのとは対照的です。神の前のふさわしさとは、ただ神に従う、神の民として生きるという決断をしているかどうかなのです。
 ここにいる多くの人は洗礼を受け、神に従って生きることを決意された方です。神の民、神の子とされ、神と共に生きておられます。しかしそのように神の民として生きておられても、自分や他の人を、社会的な地位や、献金の多い少ないといったことや、教会の奉仕をしているかどうかということで判断するならば、それは百人隊長をほめそやしたユダヤの長老たちと同じです。人間の側の行いによって「ふさわしい」「ふさわしくない」と決めていることになります。
 そもそも、神の前でふさわしい人間などこの世界には一人もいません。どれほど素晴らしい人物であったとしても、とびぬけた才能を持っていたり、有名人であったとしても、神の前にはふさわしくないのです。神の前で、すべての人間は罪人に過ぎません。その罪人に過ぎない人間が、イエス・キリストの十字架と肉体の復活によって、罪を取り去られ、神の前に立つことのできる者とされました。ふさわしくない者が、自らの力によってではなく、ただただ神の憐れみによって、神の前にふさわしい者とみなされ、神の民とされたのです。私たちの謙遜は、ふさわしくない者が救われた、ふさわしくない者が神の民とされている、そこに根差しています。何か私たちが努力して、人徳を高めて謙遜さを身に着けるのではないのです。そもそも私たちは神の前にふさわしくない者である、そう考える時、おのずと謙遜にならざるを得ないのです。

<神の権威の前で>
 百人隊長は友人を通じて「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と申し上げます。ここに百人隊長の信仰があります。主イエスは、わざわざお越しになって、手を置いたり、あれこれなさることなくても、その言葉だけで癒してくださることの出来る方だと百人隊長は信じていたのです。
 そして「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と言います。私は軍隊のことはよく知りませんが、軍隊は上下関係の規律によって成立しています。上官の命令に部下が従うからこそ、軍隊は力を発揮できます。部下が勝手なことをしていたら、その部隊は壊滅してしまいます。命令をする上官は部下の命をあずかっているわけですから責任があります。百人隊長は上の立場の責任の重さ、そしてその権威をよく知っています。そして百人隊長自身も、千人隊長やそのほかのさらに上の権威に従って生きている人です。権威と言いますと、権威主義的といったりして、あまり良い印象を与えないこともある言葉です。しかし、好むと好まざるとに関わらず、私たちは権威のもとに生きています。権威あるお医者さんの言葉はありがたく聞きますし、会社員であれば上司や経営幹部の権威には従いますし、国家の権威にも従わなくてはいけません。
 私の母教会に、昔、世界的なソプラノ歌手がコンサートに来られたことがあります。本来は、教会に招けるような方ではない、すごい歌手だったのですが、その方と知り合いの方が教会におられて、来日されたとき、教会でもコンサートを開いてくださったのです。その歌手はクリスチャンで、アメリカの自分の所属教会では聖歌隊に入っておられました。聖歌隊で歌う時は聖歌隊のリーダーの指示に従って歌っておられるそうです。音楽家としての力量は、そのソプラノ歌手の方が聖歌隊のリーダーより、はるかに上でしたが、ソプラノ歌手はリーダーに従って、神を賛美しておられました。別に教会の権威はこの世の権威より上だということを申し上げているわけではありません。しかし、置かれた場所での権威に従うということは大事なことです。この歌手が聖歌隊の秩序に従っているから、その教会の賛美は美しく響くのです。ある分野で権威ある立場の人は、どうしても他の場所でへりくだることができなくなります。この世の権威を持っている人は往々にして神の前にへりくだることができないのです。
 それに対して、自分自身がこの世の権威の中で生きていた百人隊長は、主イエスが大きな権威をもっておられることを分かっていました。「ひと言」おっしゃってくだされば、命すら救うことの出来るお方であることが分かっていたのです。ですから主イエスはこの百人隊長のことをこうおっしゃいます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
 ユダヤの宗教指導者たちは「会堂を建てる献金をしてくれたから」百人隊長を素晴らしいと考えました。そしてまた目の前の主イエスが病を癒す力を持っていることは評判を聞いて知っていましたが、その力の根源が神の権威によるものであることは分かっていませんでした。それに対して百人隊長が、主イエスの言葉に神の権威があることを分かっていたことを、主イエスは称賛なさいました。百人隊長を称賛された主イエスは、本来ふさわしくない者へ豊かな恵みを与えられるお方です。この百人隊長の部下は癒されました。そしてまた、神の前でふさわしくない私たちもいま、神の恵みの中に生かされています。
 恵みの中に生かされながら、どうしても神の権威を受け入れられないところが私たちにはあるかもしれません。車の運転で例えるならば、自分が運転をしていて、助手席に主イエスがおられます。自分は自分の目的地に向かおうと運転をします。道に迷った時だけ助手席の主イエスにどうしたらいいでしょう?と聞くのです。主イエスをちょっとしたカーナビのように扱うのです。普段は自分が運転をしていて、主イエスを主ではなく僕として扱い、自分が主になっているんです。本来は、行く先も、経路も、まず主であるイエス様にお聞きしてから運転を始めるべきなのですが、なかなかそういうことができません。自分の好きな目的地に向かうことに夢中で、横におられる主イエスのことはあまり頓着しないのです。そんな私たちであったとしても、なお主イエスは危ない時にはブレーキを踏んでくださいますし、道に迷わないように導いてはくださいます。でも本当に主イエスの権威を重んじ、主イエスに従う歩みをするとき、私たちは平安に歩めますし、もっともっと豊かな祝福をいただくのです。
 神はふさわしくない者を招いてくださいます。天地創造をなさった宇宙規模の大いなるお方がちっぽけな罪深いものを招き、愛してくださっています。この世界のすべての権威の上におられるお方が、このふさわしくない者を友とすら呼んでくださいます。人生の傍らに共にいてくださいます。この宇宙において唯一の権威を持っておられる方が、この一週間も私たちを守り、導いてくださいます。私たちはその権威に従いつつ、また親しく友として歩んでいきます。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章43~49節

2024-09-03 17:03:47 | ルカによる福音書
2024年8月25日大阪東教会主日礼拝説教「心からあふれ出るもの」吉浦玲子
<実を見る>
 去年、教会の南側のガレージの脇の花壇にポツンと雑草のようなものが生えました。抜かなくちゃと思いつつ、抜かないままにしばらくすると、やたらどんどんとその草は背が高くなるのです。あれ?これ雑草だっけ?と思って見ると雑草というよりひまわりのようです。確信はなかったのですが、抜かずにそのままにしていたら、本当にひまわりの花が咲きました。最初にそれがひまわりだとは分からなかったのは、その年、その場所にひまわりの種はまいていなかったからです。おそらく、前年か前々年にその場所にあったひまわりの種が自然に落ちて芽吹いたものだったのでしょう。教会の庭には種を蒔いたり球根や苗を植えたりして成長している植物もありますが、よく分からない知らないうちに生えているものもあります。鳥などの動物がどこからか種を持って来て、それが根付くこともあるようです。見慣れない植物を調べると毒性のある植物であったり、他の植物を駆逐する危険な外来種であることもあります。植物の専門家であれば、すぐにそういうのは見分けられるのでしょうが、植物に疎い私などはひまわりですら、花が咲くまでよく分からなかったりします。最近はスマホで植物を写すと植物名を教えてくれるアプリもありますが、そのアプリも写す場所や向きによって違う植物名を言ったりします。完ぺきに植物を確定してくれるわけでもありません。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」こう主イエスはおっしゃいます。主イエスは、この前の聖書箇所になりますが、敵を愛しなさい、とおっしゃり、また、人を裁いてはいけません、とおっしゃった、そのあとにこの言葉を語っておられます。私たちは、ひとときであれば、敵を愛するふりをすることはできるかもしれません。心の中で相手のことを「あんな奴ダメだ」と裁いていながら、それを口には出さないこともできます。でも私たちが本当に敵を愛したり、人を裁かない人間になっているか、そして神から喜ばれる人間になっているかどうかは、結局、私たちが実らせる実によって分かるのだとおっしゃるのです。私たちが茨なのかいちじくなのか野ばらなのかぶどうなのか、それは実る実によって分かるとおっしゃいます。植物に疎くて、それがどんな種類の植物か分からなくても、アプリでも判別できなくても、実によって分かるのです。逆に言いますと判別には時間がかかるということです。
 でもこれは少し恐ろしい言葉でもあります。私たちが長く生きていきながら、私たちが本当に神に喜ばれるような生き方をしているのか?私たちがその人生において、豊かな実を結ぶ生き方をしているのか、それはぱっと見では、短期間では、自分にも人にも分からないということです。自分ではおいしいぶどうの実のつもりが、なんだか苦い嫌な感じの実を結んでしまうということもあるということです。人生の終わりになって、あなたの生き方は間違っていましたねと神様に言われるのは困ってしまいます。
<良い言葉悪い言葉>
 しかし、人生の終わりまで行かなくても、判別できることはあると主イエスはおっしゃっています。それは言葉によってです。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と主イエスはおっしゃいます。

 ところで、「ありがとうございます」とか「すみませんでした」「申し訳ありませんでした」という言葉をあまり言わない方が時々おられます。信仰歴の長いクリスチャンであっても、たまにおられます。相手はその人に別に感謝されたいと思ってやっているわけではないことであっても、やったことに対して「ありがとう」という言葉がなければ、こちらがやったことがむしろ相手に不快な感じを持たせたのかと心配になったりします。あるいはやってもらって当然だと相手は思っているのかと感じたりします。また小さなことでもあってもちょっと迷惑をかけられたとき「すみません」「ごめんなさい」の一言がなければ、いったいどういうことなんだと思ってしまいます。そういうことが続きますと、結局、その人の心には感謝とか申し訳ないという思いが、そもそもないのだと考えざるを得なくなってきます。
 よく、昔は、男性は寡黙な方が良くて、たとえば、夫婦関係でも夫は妻への感謝の言葉は言わないということがあったかもしれません。もちろんそれはご夫婦ごとの関係であって、一概にそれが悪い良いという話ではありません。口には出さなくても、それぞれに相手のことを思いやっていて、そのことを双方が分かっているという場合もあるでしょう。ただ、言葉によって、相手の気持ちが分かる方がやはり良いと言えば良いのです。感謝しているのか、申し訳なく思っているのか、それは相手にわかる形であらわすべきなのです。心の中で感謝しているとか申し訳なく思っているというのは、結局のところ、感謝や申し訳ない思いそのものが大きくはないということなのです。
 ありがとうやごめんなさい、だけでなく、やはりその人の言葉というのはその人の心を表します。そう自分で申し上げつつ、普段の自分の言葉を思う時、冷や汗が出る様な思いもあります。一方で、口ではありがとうと言っておられるのですけど、なんとなくその思いが伝わってこない場合もありますし、別に悪いことはおっしゃってはいなくても、なんとなく冷たさを感じることもあります。でも、こういったからといって「じゃあしゃべり方に気をつけましょう」ということではありません。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」そもそもあなたたちの心の中に何があるのか?と主イエスは問うておられます。口先だけでありがとうございますとか感謝していますと言っても、あるいは優しそうな話し方をしても、心の中に良いものがなければ、口から出る言葉も良いものにならないとおっしゃるのです。
 これはさきほどの植物の実の話と同様、ノウハウ的にどうにかなるものではありません。こうすれば、人生で豊かな実が結べますとか、こういう風に話しましょうということではありません。そもそも聖書の言葉そのものが、直接的に、悩みにこたえるとか、生き方を指南するということではないからです。むしろ聖書は私たちに問いかけて来るのです。あなたはどんな植物なのか?あなたの心には何があるのか?と。その問いに答えつつ生きるということが御言葉に生きるということです。表面的なしゃべり方や人との接し方を良くして済む問題ではありませんし、自分の悩み事に適切な言葉でヒントを与えてもらうというものでもありません。もっと深いところから私たちは聖書において神から問われるのです。それは表面的な態度や言葉の問題ではありません。もちろん、ありがとうやすみませんはちゃんと言った方が良いですが。私たち自身が御言葉を聞き、神から問われ、その問いに答える形で変わる、いえ、変えられていくものなのです。

<土台>
 そのような神からの問いに答えつつ生きるということが、御言葉に生きるということです。聖書を単なる生き方指南書、お悩み解決ツール、癒しの言葉集としているときは、御言葉に生きるということはできていません。聖書の話をたくさん知っていても、神学をたくさん学んでいても、御言葉に生きているかというと必ずしもそうではありません。主イエスは「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃいます。「主よ、主よ」と呼ぶということは、表面的な宗教的儀礼として神を呼ぶということです。現代で言えば、普段はまったく神のことを思うことなく、日曜日に教会に来て、なんとなく清らかな癒されたような気持になって月曜からはまったく神のことを思わずに過ごすということです。
 旧約聖書の時代、特に紀元前6世紀にイスラエルが滅びる前、神の言葉を聞き、行う人はほとんどいなくなりました。でも神殿に人々は行き、それなりに礼拝や祭儀はしていたのです。「主よ、主よ」と人々は神を呼んでいたのです。しかし、神を第一とする行いはまったくありませんでした。その結果、国は滅びました。それは現代の一人一人においてもそうです。どれほど聖書を勉強しても熱心に教会の奉仕をしても、御言葉を行わないならば、それはとてもあやうい生き方になるのです。
 しかし、御言葉を行う人はそうではないと主イエスはおっしゃいます。主イエスは御言葉を行う人はどういう人に似ているか示そうと語られます。それは「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」つまり御言葉を行う人は、土台のしっかりした家のようだとおっしゃるのです。
 今、日本には台風が近づいてきています。場合によると大阪にも大きな影響を与えるかもしれません。今朝は大阪市にも大雨警報が出ていました。一方、少し前には日向灘での地震を契機に南海トラフが近づいているというような発表もありました。そもそも、日本は自然災害の多い国です。神を信じていても、自然災害は襲ってきますし、被害にあうこともあります。2018年の台風21号を思い出しても、教会庭のミモザの木が根元から倒れ、物置が倒壊し、会堂の屋根瓦が飛びました。台風だ、南海トラフだと考えているとだんだんと怖くなってきます。災害だけではなく、人生にはさまざまな危機があります。しかし、どのようなことがあっても、御言葉を行う人は土台から崩れることはないと主イエスはおっしゃいます。

 大阪東教会で用いている讃美歌集には載っていない曲で、大阪東教会ではほとんど歌うことのない曲ですが「遠き国や」という讃美歌があります。これは1923年の関東大震災の時、来日していたマーティン宣教師によって作られた讃美歌です。関東大震災は死者行方不明者が十万人という明治以降の地震としては最大規模の被害を出しました。その震災の折につくられました。「遠き国や/海の果て/いずこにすむ/民も見よ/慰めもて変わらざる/主の十字架はかがやけり/慰めもて/汝がために/慰めもて/汝がために/揺れ動く地に立ちて/なお十字架は輝けり」という歌詞です。当時、震災の被災者が明治学院の校庭に避難していましたが、まだまだ余震が続いていました。そのたいへん不安な状況の明治学園の校庭の蚊帳のなかに被災者は避難していたのですが、夜、その蚊帳の中に灯されていたろうそくの灯が、マーティン宣教師には十字架に見えたそうなのです。それでマーティン宣教師はこの讃美歌を作ったのです。どれほど地が揺れ動いても十字架は輝いている、どれほど地が揺れ動いても十字架からの慰めはかわることはない、そうマーティン宣教師は歌ったのです。
 たしかに私たちの生きるこの地上は、物理的に地面が大きく揺れることがあります。また人生においても、生きる土台が揺れる様なこともあります。台風で倒れたミモザのように根っこから倒されるようなことも人生の中にはあります。私たちは自分の足で踏ん張って、倒れないようにがんばるのではありません。私たちが倒れようとも、引っこ抜かれようとも、それでも十字架は輝いているのです。その十字架からたしかな慰めと、新しい力と命が与えられるのです。私たち自身も、この世界も不確かで変動します。でも十字架は変わりません。その変わらざるものを自分の中心としていきていくとき、私たちは時に倒れても、人生の土台は揺るぎません。物理的に建物は倒れても、私たちの生活の根幹が揺らいでも、そして私たちが落胆し絶望しようとも、十字架に照らされている私たちの土台は揺るがず、信仰の家はけっして崩れません。十字架による恵みによって守られているのです。

<御言葉を行う>
 ここでもう一度、御言葉を行うということについて考えてみます。さきほど神からの問いに答えて生きる、と申し上げました。神の問いに答えるためには神を見上げて生きていないと、その神の問いの言葉も聞こえません。神を見上げるということは熱心に祈るということではありません。祈りはどちらかというと私たちの思いを神に伝えることです。そうではなく、静まって神からの言葉を聞くことが神を見上げることです。神の言葉を勉強や解釈ではなく、自分に語られている言葉として聞くということです。そのようにして私たちは日々、神を見上げて歩みます。神を見上げる時、そこに十字架の輝きも見えるのです。ご自分の命を捧げて死んでくださったキリストの愛が見えてきます。その十字架の輝きはさきほども申し上げましたように、どのような時も変わりません。キリストの愛は変わらないのです。その愛を受けて、心から感謝して生きていくとき、私たちの心には良いものが満たされていきます。私たちの生きる土台はしっかりとしたものになります。
 「ありがとう」「ごめんさい」を言うということを申し上げましたが、私たちが心がけて良い言葉を言おうとしたり、しっかり生きていくということではありません。御言葉を行うというと、私たちの行いが問題とされているように感じますがそうではないのです。良いことをしなさいということではないのです。私たちが神を本当に見上げているならば、そこに十字架の輝き、キリストの愛が見えるはずです。そして心には感謝の思いが自然と豊かにあふれてくるのです。そのあふれ出た感謝が、私たちの言葉となり、行いになるのです。逆に言えば、私たちが自分で頑張って生きていくことや、立派な言葉を語ったり、良い行いをすることにとどまっているならば、私たちの心には神への感謝の思いはあふれません。感謝をしようと心がけていても感謝の心は絶対生まれてこないのです。自分ががんばったり心がけていると、むしろ私たちの心は貧しくなるのです。自分がしっかり生きているか、さらには他人がしっかりとやっているか、チェックしてしまう。そして自分や人を「こんなことするなんて自分はだめだ」と裁いたり、ぎすぎすした嫌な言葉しか語れなくなります。
 御言葉を行うということは聖霊によって神の言葉を聞くということであるともいえます。聖霊によって神の言葉を聞くならば、おのずと神の愛、神の恵みを知らされるのです。神の愛、神の恵みが私たちの心の中に豊かに蓄えられるのです。私たちが私たちの力で私たちの心に良いものを蓄えようとしてもぜったいにできません。私たちの心掛けで良いものを心に満たすことはできないのです。ただ聖霊によって御言葉を聞くとき、私たちの心に良いものが満たされ、その満たされたものはおのずとあふれ出るのです。そのあふれ出たものは、良い言葉となり、愛の行いとなっていきます。この一週間もそしてこれからの人生においても、私たちの心に良いものを神が満たしてくださいますように。神が良いものを満たしてくださることを信じ、大いに期待をして、歩んでいきましょう。