オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文(2)

2009-12-11 10:22:24 | 世界
戦争の遂行を選ぶ際、我々の頭や心に重くのしかかる問題について、私は時間を割いて話してきた。しかし、そのような悲劇的な選択を避けるための我々の努力に話を移し、正義として持続する平和を築く三つの方法について話したい。

 一つ目は、ルールや法を破る国々に対応する際、暴力ではない形で(その国の)ふるまいを変えさせねばならないということだ。もし持続的な平和を求めるなら、国際社会の言葉は、何らかの意味のあるものでなければならない。ルールを破る政権は責任をとらなければならない。制裁は、真の代償を払わせるものでなければならない。非妥協的な態度にはより強い圧力で対応せねばならない。そして、そのような圧力は、世界が一つにまとまった時にのみ、存在するのだ。

 喫緊の例として、核兵器の拡散を防ぎ、核なき世界を求める努力が挙げられる。前世紀の半ば、各国はある条約に拘束されることに同意した。その内容は明確だ。すべての国は平和的な原子力を利用できる。核兵器を持たない国は所有をあきらめ、核兵器を持つ国は軍縮に向かうということだ。私はこの条約への支持を明言する。それは私の外交政策の中心項目であり、メドベージェフ・ロシア大統領とともに米ロの核保有量を減らそうと努力している。

一方でまた、イランや北朝鮮などの国がこのシステムをごまかさないよう主張することが、すべての国にとって必要だ。国際法を尊重するという国は、法が守られない状況から目を背けてはならない。自国の安全を大切にする国は、中東や東アジアの軍備競争の危険を無視するわけにはいかない。平和を求める国は、核戦争のためにほかの国が武装するのをただ傍観するわけにはいかない。

 同じ原則は、自国民を残虐に扱うことで国際法を犯している者にも当てはまる。(スーダンの)ダルフールでの集団殺害、コンゴ(旧ザイール)での組織的なレイプ、ビルマ(ミャンマー)での抑圧などは、必ず重大な結果が伴うべきだ。もちろん、対話や外交も行われるだろう。だが、そうした営みが失敗したときには重大な帰結を招くべきなのだ。我々が団結を強めればそれだけ、軍事介入と抑圧の共謀者となるという二者択一に直面しなくても済むだろう。

 そこで私は二つ目の点、我々が求める平和の本質について語りたい。なぜなら、平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ。

 この知見こそが、第2次世界大戦後に世界人権宣言の起草者たちを後押しした。荒廃の中にあって、人権が保護されないのなら平和はうわべだけの約束にすぎないと、彼らは悟ったのだ。

 それなのにあまりにも頻繁に、これらの言葉は無視されている。一部の国では、人権はいわば西洋の原則であって固有の文化や自国の発展段階の中では異質のものである、という間違った主張をもとに人権を維持しない口実にしている。そして米国では、自らを現実主義者と称する人々と、理想主義者と称する人々との間の緊張が長く続いてきた。その緊張が示すのは、狭い国益を追求するべきか、世界中で我々の価値を押しつける終わりのない運動をするべきなのか、という厳しい選択だ。

 私はこうした選択肢を拒絶する。自由に話したり、好きなように礼拝したり、自分たちの指導者を選んだり、恐れず集会を開くといった権利が否定されている場所では、平和は不安定なものになると信じる。抑圧された不満が募り、部族や宗教に根ざしたアイデンティティを抑えれば暴力につながりうる。我々はその逆も真実であることを知っている。欧州は自由になった時、やっと平和が訪れた。米国は民主主義国家に対する戦争は一度もしたことがなく、我々と最も密接に関係がある諸国の政府は、彼らの市民の権利を守る。いかに冷静に定義しようとも、人類の希望を否定することは、米国の利益にも世界の利益にもつながらない。

 米国は、様々な国の独自の文化と伝統を尊重しながらも、普遍的な希望のためにいつでも声をあげる。我々は、静かに威厳を保っている(ミャンマーの)アウン・サン・スー・チーのような改革者の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じるジンバブエ人の勇気や、イランの通りを静かに行進した何十万の人々についても証人になる。これら政府の指導者は他のいかなる国家の力よりも、自国民の希望を恐れるということがわかる。そして、希望と歴史に根ざしたこれらの運動に対して、我々が味方であることを明らかにするのは、すべての自由な国民と自由主義諸国の責任だ。

 もう一つ言わせてほしい。人権の促進は、言葉で熱心に説くだけでのことではない。時には、困難な外交と組み合わせなければならない。抑圧的な政権と対話すれば、憤りの純粋さという満足感に欠けることは私も分かっている。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科すことや、議論を経ないままの非難が、ひどい現状を継続するだけになりうることもわかっている。開かれた扉という選択肢がなければ、どんな抑圧的な体制も新しい道を進むことはできない。

文化大革命の戦慄(せんりつ)を考えると、ニクソン(元米大統領)が毛沢東(元中国主席)と会ったことは弁解の余地がなかったように見える。だがその会談が、何百万人もの中国国民を貧困状態から引き上げ、中国を開かれた社会とつながる道に乗せる助けになったのは確かだ。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がポーランドと対話したことは、カトリック教会だけでなく、レフ・ワレサ(元大統領)のような労働指導者にも(活動の)場を作った。ロナルド・レーガン(元米大統領)が軍縮に取り組み、ペレストロイカ(改革)を受け入れたことは、ソ連との関係を改善しただけではなく、東欧全体の反体制派に力を与えた。ここに単純な公式はない。しかし我々は、孤立と関与、圧力と報奨のバランスをとるよう最善の努力をして、時をへて人権と尊厳が前進していくようにしなければならない。

 三つ目に、正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ。

 開発は、安全なしには根付かないということは疑いようのない真実だ。生きるのに必要な食糧やきれいな水、医薬品や寝場所が手に入らないところに安全は存在しないのも事実だ。子どもたちがまっとうな教育や、家族を養える仕事を望めないところにも安全は存在しない。希望の欠如は、社会を内側から腐らせうる。

 だからこそ、農民による食糧供給や、国家による子どもの教育、病人への医療を支援することは、ただの慈善事業ではないのだ。同様に、だからこそ、世界が一緒に気候変動に立ち向かわなければならない。もし我々が何もしないなら、この後何十年にもわたって一層の紛争の原因となるような、干ばつや飢饉、大規模な避難民の発生に直面することになるいうことには、科学的にはほとんど争いがない。科学者や運動家たちだけが迅速で力のある行動を求めているのではない。わが国や他国の軍指導者も、これに共通の安全保障がかかっていることを理解している。

 国家間の合意。強い組織。人権への支持。開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに不可欠な材料だ。とはいえ、さらなる何かがなければ、我々がこの仕事を成し遂げるための意志や持久力を持つとは思わない。それは、我々が倫理的な想像力の広げること。そして、我々みんなが共有し、奪い得ないものがある、ということへのこだわりだ。

 世界がより小さくなるにつれ、人類はいかに似通っているかということが認識しやすくなるだろうと思うかもしれない。我々は基本的に同じものを求めていること、すなわち、自分と家族にとっての幾ばくかの幸福と満足感をもって人生を送る機会をみんなが望んでいることが理解しやすくなると思うかもしれない。

 だが、めまいがするようなペースでグローバル化し、近代という文化的な平準化が進んでいることを考えると、人々が、自らが慈しむ特定のアイデンティティ――自らの人種、部族、そして一番強いであろう宗教――を失うのではないかと恐れることは驚きではない。その恐怖が紛争につながった場所もある。時には、我々は昔に逆戻りしているのでないかとさえ感じることもある。それは、中東では、アラブ人とユダヤ人の間の紛争が激化する中に見られる。部族の境界で引き裂かれている国家にも、そうしたことが見られる。

そして最も危険なことに、イスラム教という偉大な宗教をねじまげ、汚してきた者たち、アフガニスタンから私の国を攻撃した者たちによる罪のない人々の殺害の正当化に、宗教が使われるというやり方にもそれが見られる。この過激主義者たちは、神の名の下に殺人を犯した最初の者たちではない。十字軍の残虐ぶりは十分記録に残っている。だが、それらは、聖戦は正義の戦争にはなり得ないということを思い出させてくれる。というのも、もしも神聖な神の意志を実行していると本当に信じているならば、抑制の必要がないからだ。(神の意志ならば)妊婦や医者、あるいは赤十字社の職員、さらには自分と同じ信仰を持つ人に対しては危害を加えないとする必要もない。そうしたゆがんだ宗教の見方は、平和の概念と相いれないだけではなく、信仰の目的自体とも矛盾すると私は信じる。というのも、すべての主な宗教の中核にある法則は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということであるからだ。

 この愛の法則に従おうとすることは、常に人間にとって本質的な闘いであった。我々は誤りに陥る。間違いを犯し、自尊心、権力、時には邪悪の誘惑に屈する。最も善意を持った人びとも、目の前の悪をただすことができないときはある。

 だが、人間の性質は完全であると考えなくても、人類が置かれる環境を完全にしうると信じることはできる。世界をより良い場所にする理想を追求するために、理想化された世界に住む必要はない。ガンジーやキング牧師のような人々がとった非暴力は、いかなる状況でも現実的で可能なことだとは言えなかったかもしれない。しかし、彼らが説いた愛――人間の進化に関する彼らの根源的な確信、それこそが、常に我々を導く北極星であるべきなのだ。

 なぜなら、もし我々がこの信念を失ったら――それをばかなもの、幼稚なものとして退け、戦争と平和の問題について下す決断とは無縁だとしてしまえば、その時我々は、人類にとって最善のものを失ってしまう。我々は可能性への意識を失う。我々は倫理の羅針盤を失う。

 我々の先人の幾世代もがそうだったように、我々はそんな未来は拒否しなければならない。何年も前に、キング牧師がノーベル平和賞授賞式で語った。「私は歴史のあいまいさに対する最終回答として絶望を受け入れることを拒む。『いまこうあること』が人間の今の状態だから、人間の前に永遠に立ちはだかる『こうあらねばならない』というものに達することは道徳的に不可能だとする考え方は受け入れない」。こうあるべき世界を目指そうではないか。我々の魂をなお揺り動かすあの神の輝きに到達しようではないか。

 今日もどこかで、武器の数で圧倒的に不利な状態にあっても平和を保つため踏みとどまっている兵士がいる。今日もこの世界のどこかで、政府の残忍さを知りながら抗議のデモ行進をする勇気を持つ若い女性がいる。今日もどこかで、貧困に打ちのめされながらも、それでも自分の子どもに教える時間を作り、なけなしの小銭をはたいて学校に行かせる母親がいる。こんな残酷な世界であっても、子どもが夢見る余地は残っていると信じているからだ。

 そんな彼らを見習っていこうではないか。常に抑圧はあることを認めながらも、正義を追求することはできる。手に負えない欠乏があることを認めながらも、尊厳を追求することはできる。曇りなき目で見れば、これからも戦争があるだろうことを理解しつつ、平和を追求することはできる。

 我々にはできる。なぜなら、それこそが人間の進歩の物語であるからだ。それこそが全世界の希望だ。この挑戦の時、それこそが、この地球で我々がやらなければならない仕事なのだ。

 どうもありがとう。

オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文(1) 
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