侵略の定義について(1)~(17)/前田朗Blogから(追記あり)

2013-05-21 19:47:32 | 世界
侵略の定義について(1)

安倍晋三首相の「侵略の定義はない。どちらから見るかで違う」という、日本の侵略を否定するための発言が世界を駆け巡った。
欧米メディアだけではなく、アメリカ政府も反発する姿勢を示した途端、安倍首相は「日本が侵略していないとは一言も言っていない」と弁解をして、見事に膝を屈した。
だったら最初からバカなことを言わなければいいのだが、内心では「侵略ではなかった」と叫んでいるのだろう。
「村山談話を継承する」と言わざるをえなくなったが、それでも「21世紀の新しい談話を」と追加するのを忘れないのは、何が何でも村山談話を葬り去りたいということだろう。
それはともかく、「侵略の定義」については、安倍首相の嘘をきちんと確認しておく必要がある。
マスメディアでは、安倍発言ばかりがクローズアップされた。
まともな国際法学者は、安倍首相のあまりの無知に呆れて、ほとんどコメントしない。
まともな学者が沈黙するのも当然で、国連総会の「侵略の定義」決議(1974年)がある。
もっとも、それを指摘しても、安倍首相とその取り巻きは同じ虚偽を言い続けるだろう。
それはなぜか。
その点も少し考えてみたい。
また、この間のメディアを見ていると、初歩的知識のない人間が大声で事実に反する主張をしている。
首相が率先しているためもあり、誤った認識が広められている。
そこで、今回から「侵略の定義について」と題して数回、関連情報をアップすることにした。
なお、主要な内容は、前田朗『侵略と抵抗』(青木書店、2005年)に書いた。                  

侵略の定義は何かを論じる前に、確認しておくべきことがある。
というのも、安部首相は「侵略の定義はない。まとまっていない」と言うが、侵略の定義を明らかにすることを考えているわけではない。
日本の侵略をごまかすことが目的である。
だから、本当に定義があるかないかを問題にしているのではない。
この点を見ておかないと、議論が混乱する。
重要なのは、「さまざまな侵略の定義があったとして、それらのどの定義を採用しても、日本の侵略は明らか」と言うことだ。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_9279.html

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1997年に採択された国際刑事裁判所(ICC)規程第5条は、ICCの管轄に服する犯罪を、ジェノサイドの罪、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略の罪の4つとしている。
ICC規程第6条から第8条は、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪について詳細を定めている。
ところが、ICC規程には「侵略の罪の定義」がなく、その定義は事後に検討することにされている。
「侵略の罪の定義」はローマ全権外交官会議ではまとめることができなかった。
定義を保留したまま、ICC規程本体を採択しておき、「侵略の罪の定義」は後の作業にゆだね、ICC締約国会議で要件を定めることにしたものである。
ICC規程は侵略の罪を掲げてはいるが、現在は侵略の罪を適用できない。
ICC準備会議において「侵略の罪の定義」作業が進められ、ICC発足後はICC締約国会議で議論が継続されている。

――このことを持ちだして「侵略の定義はない」という主張がなされる。
しかし、ここには初歩的な誤解がある。
「国際法における侵略の定義」(A)は、1974年国連総会決議のような例がある。
国際刑事裁判所規程で問題となったのは、単に「侵略の定義」ではなく、「個人の刑事責任を問うための犯罪規定としての侵略の罪の定義」(B)である。
AとBとはまったくレベルの違う話である。
Aの定義は存在し、しかも、これに対して国際社会で異論が唱えられていない。
Bの定義は1997年にはまとまっていなかった。
その後、議論が続いている。安部首相発言のごまかしの謎はここにある。

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『侵略の定義』は有名である。
1974年12月21日、国連総会は、国連憲章に従って、安保理事会が侵略があるか否かを判断をするさいのガイダンスを提供するために『侵略の定義』決議3314(XXIX)を採択した。
この決議は無投票で採択された。           
 決議は、侵略は違法な武力行使のもっとも重大で危険な形態であるとした。
第1条は、侵略を「ある国家による、他国の主権、領土または政治的独立に対する、また

は国連憲章と合致しないその他の方法での武力行使」と定義している。

第2条は、国連憲章に違反する武力の最初の行使は、侵略行為があることの一見して明らかな証拠であるとしている。

第3条は、宣戦布告の有無に関わらず、侵略行為であることを特徴づける行為のリストを掲げている。                                  

(a)ある国家による他の国家領土に対する武力による侵攻または攻撃、または、そうした侵攻に引き続く、一時的であっても軍事占領、または武力行使による他国領土またはその一部の併合。                                 (b)ある国家の軍隊による他国の領土に対する爆撃、または、ある国家による他国の領土に対する武器の使用。                             (c)他国の軍隊によるある国家の港や海岸の封鎖。                (d)ある国家の軍隊による他国の陸軍、海軍、空軍、海兵隊、空船隊に対する攻撃。 (e)受入国との協定によって他国の領土に駐留する国家の軍隊の、その協定によって設定された条件に違反した行使、または、その協定の期限を越えての他国の領土における駐留の延長。                                   (f)自国の領土を他国の自由に使えるようにして、第三国に対する侵略行為の準備のために他国に使用させる行為。                           (g)ある国家の部隊、集団、不正規兵または傭兵の送出であって、上記に掲げられたものに匹敵する重大な他国に対する軍隊の行為をもたらすこと、またはそれへの実質的関与。                                      

第4条は、この行為のリストは網羅的ではなく、安保理事会がその他の行為が国連憲章の
もとで侵略であると判断することがあると認めている。

第5条第1項は、政治、経済、軍事その他のいかなる性質の考慮も侵略を正当化しないとしている。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_23.html

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第2次大戦後、国連憲章は紛争解決手段としての武力行使という考えを否定した。
第1次大戦後の国際連盟のもとで達成した不戦条約が踏みにじられた経験をもとに、国連中心の集団安全保障体制をつくりつつ、不戦条約を継承・発展させて、武力行使の制限を試みた。
国連憲章第2条第4項は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」とした。
この条項の解釈は、安保理事会、国連総会、国際司法裁判所によって検討されてきた。
国連における議論は、国際政治の対抗の中で行なわれ、東西対立をはじめとする緊張関係の中で進められたので、侵略という用語もきわめてイデオロギー的に使われた。
そのため、法的意義については疑問が指摘されるが、議論の積み重ねを無視することはできない。        国連憲章第24条によれば、安保理事会は国際平和と安全の維持に責任を有するので、国連憲章第39条に従って、平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為の存否を判断する権限を有する。
また、国際平和と安全の維持または回復のために必要な手段を勧告し決定する権限を有する。
そこで、安保理事会は侵略行為について議論を重ねてきた。
次回からいくつか紹介する。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_5035.html

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国連安保理事会における侵略認定の議論は、南ローデシア、南アフリカ、ベニン、チュニジア、イラクに関して行われた。
安保理事会は、1970年代に、南ローデシアによるアンゴラ、ボツワナ、モザンビーク、ザンビアなどに対する侵略行為に関する一連の非難決議を採択している。
1973年2月2日の決議326(1973)は、南ローデシアによるザンビアに対する侵略行為に言及している。
南ローデシアにおける不法な政権が、ザンビアの安全と経済に対して行っている侵略行為によって作り出された状況に重大な関心を表明し、南ローデシアの状況が国際平和と安全にとって脅威となっていることを確認し、最近になって状況が悪化しているとし、侵略行為によって人命と財産の破壊が行われていることに深い衝撃を表明している。
本決議は賛成13、反対なし、棄権2(英米)で採択された。                          1979年11月23日の決議455(1979)は、南ローデシアが南アフリカと共謀してザンビアに行った侵略行為に言及している。
ローデシアがザンビアの主権や領土に対して行っている敵対行為と侵略行為に重大な関心を表明し、南アフリカが共謀のもとに侵略行為を繰り返していることにも重大な関心を表明し、人命と財産破壊の悲劇に悲しみを表明し、南ローデシアによる悪意に満ちた侵略行為、人種差別主義的体制を確認し、強く非難し、南アフリカに対しても強く非難している。
全会一致で採択された。                                           1973年決議は、国連『侵略の定義』(1974年)よりも前になされている。
つまり、『侵略の定義』によって初めて侵略の定義が明らかになったと考えられてはいないことを意味する。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_6014.html

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1976年から1987年にかけて、安保理事会は、南アフリカによるアンゴラ、ボツワナ、レソト、セイシェルなどに対する侵略行為に関する一連の非難決議を採択した。                                  1976年3月31日の決議387(1976)は、南アフリカによるアンゴラに対する武力侵略に言及した。
南アフリカがアンゴラに対して行っている主権と領土に対する侵略行為に重大な関心を表明し、侵略するためのナミビア領の利用を非難し、アンゴラ侵略による侵害や破壊に重大な関心を表明し、アンゴラに対する侵略を非難した。
賛成9、反対なし、棄権5(仏伊日英米)である。                                 1984年1月6日の決議546(1984)は、南アフリカによるアンゴラ爆撃と部分占領に言及している。
南アフリカの人種主義政権がアンゴラの主権、領空および領土に対して行っている爆撃や侵略行為に重大な関心を表明し、爆撃、軍事攻撃、占領による人命の悲劇的損失や破壊に悲しみを表明し、爆撃と占領によってアンゴラの主権を侵害し国際平和と安全に危険をもたらしていることを強く非難し、アンゴラには国連憲章第51条に従って自衛権を行使する権利があることを確認し、アンゴラには人命と財産の損失について適切な補償を求める権利があることを確認した。
賛成13、反対なし、棄権2(英米)である。                                   1985年9月20日の決議571(1985)は、南アフリカがアンゴラに侵略行為と軍事侵略を繰り返し継続していることを取り上げ、1985年6月21日の決議568(1985)は、南アフリカによるボツワナに対する侵略を取り上げ、それぞれ、人命の損失や破壊に衝撃を受けたことを表明し、こうした侵略行為が南アフリカにおける危険な状況をさらに悪化させることに関心を表明した。
全会一致で採択。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_4041.html

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侵略の認定は、安保理事会だけでなく、国連総会でも行われた。
具体例としては、朝鮮戦争、ナミビア、南アフリカ、ギニアビサウ、中東、ボスニア・ヘルツイェゴヴィナなどがある。                                                          1960年代から80年代にかけて、南アフリカがナミビアを占領したことに対して、国連総会は侵略であるとして何度も非難決議を行った。                                                1978年5月3日の決議S-9/2は、南アフリカによるナミビア不法占領はナミビア人民と国連に対する継続的侵略行為であることを強調し、南アフリカ占領当局の侵略政策がアンゴラやザンビアなど近隣諸国の領土に侵犯する侵略行為にあらわれていると述べた。
賛成119、反対なし、棄権2であった。                                     1981年12月10日の決議36/121A以後、国連総会は、南アフリカのナミビア占領は『侵略の定義』にいう侵略であるとした。
南アフリカによるナミビアの違法な植民地占領はナミビア人民に対する侵略であり、国連当局に対する挑戦であることを強調し、『侵略の定義』の意味での侵略にあたると宣言し、南アフリカのナミビア占領を強く非難し、さらにアンゴラ、ボツワナ、モザンビーク、ザンビア、ジンバブエに対する侵略行為を告発し、アンゴラ侵略における主権と領土の侵犯を強く非難した。
賛成120、反対なし、棄権27であった。
国連総会はその後も8度にわたって同様の決議を繰り返した。
それらの決議において反対投票をした国は一つもない
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_27.html

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国連総会は、1947年11月29日の決議181(II)において、将来のパレスチナ政府に関連して、平和に対する脅威や侵略行為に言及した。
その後も多数の決議が行われた。                                                        1981年11月13日の決議36/27は、イスラエルによるイラクの核施設に対する攻撃を扱った。
イラクの核施設に対する攻撃という前例のないイスラエルの侵略行為が国際平和と安全の重大な脅威であることに警鐘を発し、イスラエルがアメリカから提供された武器でアラブ諸国に対する侵略行為を行っていることに重大な関心を表明し、核施設攻撃を繰り返すという威嚇を行っていることを非難し、国連憲章に違反する前例のない侵略行為を強く非難し、核施設に対する武力攻撃や威嚇を中止するよう警告した。
賛成109、反対2、棄権34である。                                                     1982年11月16日の決議37/18は、イスラエルの侵略行為が危険でエスカレートしていることに重大な警鐘を発し、核施設攻撃の威嚇を続けていることに重大な関心を表明し、イスラエルの侵略行為や威嚇を強く非難し、核施設攻撃の威嚇の撤回を要求し、イスラエルの侵略行為は諸国の科学技術の主権の侵害と否定であると判定した。
賛成119、反対2、棄権13である。                                                     1981年12月17日の決議36/226Aは、イスラエルによるレバノン侵略と、都市村落の爆撃による破壊を強く非難した。
賛成94、反対16、棄権28である。
1980年代、国連総会は、パレスチナ人民の状況に関する多数の決議を繰り返した。
1981年12月17日の決議36/226Aは、占領下パレスチナなどにおけるイスラエルの侵略は国連憲章と国際法原則に違反するとした
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_28.html

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国際司法裁判所(ICJ)は、国連憲章第92条に基づく国連の主要な司法機関である。ICJは、国連総会、安保理事会、その他の国連機関などの要請に応じて法律問題についての勧告的意見を出す権限を有する。
また、ICJ規程第36条に従って国家間の法的紛争について決定を下す。
ICJでは、侵略の認定や紛争解決の権限について議論がなされた。
というのも、安保理事会と国連総会の役割分担が重なっている可能性があったからである。
国連憲章の解釈として国連機関のいずれが権限を有するかと言う問題である。
詳細は省略。
具体的な法的紛争としては、ニカラグア事件が有名である。
ニカラグアは、アメリカが国連憲章第2条第4項の武力行使や威嚇の禁止に違反し、慣習国際法のもとでの責務に違反し、陸海空軍の攻撃によってニカラグアの主権を侵害したと主張した。
アメリカは、ICJには管轄権がないと主張しつつ、自衛権を正当化根拠とした。
ニカラグアはアメリカが侵略を行ったとまでは主張していなかった。
しかし、ICJは『侵略の定義』を参照したうえで、国連憲章第2条第4項における武力行使の禁止について検討し、武力行使のもっとも重大な形態とその他の形態を区別するために国際法の検討を行った結果、『侵略の定義』第3条(g)にいう行為の記述は慣習国際法に反映されているとした。
ICJは、慣習法においては、武力攻撃の禁止は、軍事行動がその規模や帰結において単なる国境紛争ではなく武力攻撃として特徴付けられるようなものであれば、ある国家が他国の領土に軍隊を送ることにもあてはまることを否定する理由はないとした。
ここで重要なタームが慣習国際法である。
慣習国際法としての侵略の禁止について検討する必要が出てくる。
この点は後日。                                                            以上のように、国連安保理事会、総会、ICJなどで侵略の認定が行なわれ、その積み重ねの中で侵略の定義が確認されてきた。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_2245.html

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これまで第二次大戦後、国連における侵略の定義についてみてきた。
今回から、第二次大戦前の議論を見て行くが、その際、重要なことの一つに国際法の法源とは何か、がある。
一般の人は慣習国際法を理解していないことが多い。
侵略についても、日本軍「慰安婦」問題における奴隷概念についても、人道に対する罪概念についても、それを理解するためには、慣習国際法を知る必要がある。
ところが、法律について一知半解の知識を持った人ほど、例えば、刑法の議論で罪刑法定原則に関連して「慣習法の禁止」があることを持ちだして、慣習法は認められないかのごとく主張する例が良く見られる。
たしかに、日本の刑法について考える場合は、日本は成文法主義をとっているので、慣習法による処罰は認められない。
しかし、コモンローの場合には必ずしもそうは言えない。
まして、国際法では慣習国際法こそが主要な法源である。
以下は、『コンサイス法律学用語辞典』(三省堂、2003年)。                                     <慣習国際法――条約と並ぶ国際法の主要な法源。国際慣習法ともいう。
一般に慣習国際法は大多数の国家が同じような状況において同様の行為(作為および不作為)を反復しているという意味での一般慣行と、当該行為が法的に要請されているという観念に基づいているという意味での法的確信(法的信念)を要件として成立するとされる。
慣習国際法の規則は成立時期の特定や、不文法であるため規則の内容の確定が困難な場合もあるが、統一的立法機関を欠く国際社会では普遍的に適用する法として大きな役割を果たしている。>                                              第二次大戦前又は大戦時に侵略の定義が国際的に成立していたか否かは、条約などの成文法における定義があったか否かとともに、慣習国際法上の定義があると考えられていたか否かをも議論しておく必要がある。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/05/blog-post_4787.html

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ニュルンベルク・東京裁判における平和に対する罪が、1929年の不戦条約に結実した<戦争の違法化>に由来することはよく知られる。
その出発点は、言うまでもなく第一次大戦における悲惨な歴史的経験であった。
それゆえ、国際連盟の創設から不戦条約への流れを見ておくことが必要となる。
もっとも、本来ならばウェストファリア体制そのものに遡り、正戦論や無差別戦争観の意味を確認しておく必要があるが、ここでは省略する。                                                                  第一次大戦勃発によって国際法の無力さが痛感された。
正戦論の破綻から無差別戦争観の道が開かれ、第一次大戦という悲惨な戦争をもたらした。
そこで戦争の規制という課題が意識され、そのための法的枠組みづくりが始まった。
1919年のパリ講和会議では「戦争を開始した者の責任及び処罰の執行に関する委員会」が設立された。
委員会報告書は、第一次大戦中に行われた戦争犯罪を追及することを明示し、その犯罪として、第1に戦争を開始した行為、第2に戦争法規慣例違反を検討した。
報告書は、戦争を開始した行為については、語義の正確な意味での戦争犯罪ではなく、刑事裁判で取り扱うことはできないとした。
侵略戦争を犯罪とする実体法の伝統が存在しなかったうえ、極めて政治的な問題であって犯罪の実行行為性も明確とは言えなかったためである。                                                                 しかし、1919年6月28日のヴェルサイユ条約第227条は、前ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世を「国際道義及び条約の神聖に対する重大な犯罪」を理由に訴追することとし、特別法廷を設置することにした。
ウィルソン・アメリカ大統領がヴィルヘルム二世の政治的犯罪を独立に裁くことを主張したためである。
実際にはヴィルヘルム二世はオランダに亡命し、オランダはヴィルヘルム二世の引渡しを拒んだので、裁判は実現しなかった。
ヴェルサイユ条約第227条は戦争違法観に立って、しかも個人処罰を明示した点で、国際法の革新と評価されている。
その内容が抽象的で、制度的にも確立していないという限界が指摘されるが、最初の国際戦犯法廷の企図として重要である。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_3.html

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国際連盟において、国際平和を維持するためのさらなる方策が模索された。
ウィルソン大統領が国際連盟設立を提唱したにもかかわらず、アメリカが国際連盟に加盟しなかったため、国際連盟だけで国際平和を達成することはできない。
国際連盟における議論を進展させるとともに、国際連盟の外でも国際平和の枠組みを定立しなければならなかった。
国際連盟では戦争の規制に向けた多国間の努力が始まった。
連盟規約は、戦争はすべての締約国の関心事項であり、連盟規約に違反して軍事行動に訴えた国には制裁を科すとしていた。
その具体的内容をどのように構築するかが課題であった。
1923年の連盟総会に提出された「相互援助条約案」は「侵略戦争は国際的犯罪である」とし、被侵略国に援助を与えることを規定していた。カーネギー国際平和財団の援助を受けたアメリカの国際法学者も、相互援助条約案について検討して、代案をまとめている。
これは民間の代案であるが、国際連盟では「アメリカ案」と呼んでいたという。
1924年の連盟総会では、相互援助条約案とアメリカ案をめぐる議論がなされたが、結局まとまらなかったため「ジュネーヴ議定書(国際紛争平和的処理に関する議定書)」が採択された。
ジュネーヴ議定書は、国際連盟規約の延長上にあり、集団安全保障としての制裁措置と、戦争に代替する平和的解決措置を規定している。
①平和的解決への義務、②軍縮の達成、③制裁の実行という3つの具体的方策が示された。
しかし、結局この試みは現実化することがなかった。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_4.html

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アメリカは国際連盟に入らなかったが、この間にアメリカで<戦争の違法化>運動が盛り上がった。
運動を始めたのはシカゴの弁護士サルモン・レヴィンソンであった。
レヴィンソンは1918年、「戦争の法的地位」という論文を書いて戦争の違法化を唱えた。
1921年、レヴィンソンを主導者として「戦争違法化アメリカ委員会」が設立され、レヴィンソンは『戦争違法化計画』というパンフレットを出版して各方面に送付した。
<戦争の違法化>運動は1920年代アメリカで急速に広がった。
第一次大戦の悲劇を前にした運動であり、スローガンは単純明快であった。
国際連盟加入と異なって、<戦争の違法化>自体はアメリカ政府の責任や義務を追加しない。
現実の外交においても新たな進展が見られた。
1927年、ブリアン・フランス首相がアメリカに対して二国間条約の締結を提案した。
ケロッグ・アメリカ国務長官はこれを受けて、多国間条約の提案を返した。
そこでアメリカ、フランス、イギリス、イタリア、日本などと協議を重ねた末に、1928年、ついに「不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)」が締結された。
不戦条約第1条は「締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」とした。
第二条は「締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す」とした。
当事国は60ヶ国におよんだ。不戦条約は戦争の放棄と平和的解決を規定するのみで、ジュネーヴ議定書のように制裁措置を予定していない。
締約国が、国際紛争解決の手段としては戦争に訴えないことを約束し、紛争を平和的に解決することを明言するというものであり、制度的な担保は規定されてはいなかった。
 しかし、不戦条約にアメリカが入ったことによって、国際連盟とアメリカとの連結が実現し、当事国が当時の主権国家のほとんどである六〇ヶ国になったことで、不戦条約体制が国際的に形成された。
その体制に対して暴力的に挑戦したのが、1930年代のナチス・ドイツや日本軍国主義であった。
不戦条約に対するアメリカ、フランス、イギリス等と日本との対応の違いは、篠原初枝『戦争の法から平和の法へ』と、伊香俊哉『近代日本と戦争違法化体制』の2冊を読むことでよく理解できる。
アメリカ国際法学会でもさまざまな議論がなされたが、不戦条約の意義と本質を踏まえて、アメリカがこのような条約を締結したことの意義が理解されていた。
しかし、中国での権益を重視した日本は、満州における軍事行動という形で、不戦条約の歴史的意義を逆照することになった。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_6.html

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レヴィンソンと戦争の違法化について数回補足説明したい。
詳しくは前田朗『民衆法廷入門』(耕文社)参照。                            

近代国民国家は軍隊を保有し、戦争をする権限を持ち、現に戦争を繰り返していた。
国際法の世界も、主権国家の論理で構築されていたから、国際法の領域に戦時国際法が形成されていた。
戦争を回避するための方策が練られたが、それでも戦争が起きるのだから、国際法は戦争法規を手配しなければならなかった。
第1次世界大戦は、国際法における戦争観念の変化を要請した。
第1次大戦以前にも、ジュネーヴ条約(赤十字条約)やハーグ条約(1899年、1907年)が締結され、戦争行為の規制は進められていた。
しかし、戦争を防げなかったし、戦時における非人道的行為も防げなかった。
第1次大戦への反省は、国際連盟設立につながった。国際連盟において新しい戦争規制の試みが模索された。
国際連盟規約11条は、戦争はすべての締約国の関心であるとし、16条は連盟規約に違反して軍事行動に出た国家に制裁を科すとしていた。
いわば集団安全保障システムである。                                  

同時に、連盟は軍縮を目指した。1921年の連盟総会は軍縮を議題として取り上げ、具体案を策定するための暫定混合委員会を設立した。
しかし、1922年の連盟総会で、軍縮だけを進めることは防衛力が低下して自国の安全を保てないという意見が強まり、安全保障体制の確立が要請された。
軍縮と安全保障体制という2本柱で戦争を規制する試みである。
そこで1923年の連盟総会に「相互援助条約案」が提出された。
条約案1条は、締約国は「侵略戦争は国際犯罪である」と厳粛に宣言するとし、被侵略国への援助を規定していた。
侵略戦争は国際犯罪であるという思想の表明である。連盟総会は条約案を加盟国に送付して検討を依頼した。  

ところが、アメリカは国際連盟に加盟していない。
ウィルソン大統領が国際連盟結成を提唱したにもかかわらず、アメリカは連盟に加盟しなかった。
世界平和を問題とする以上、アメリカの動向を無視できない。
連盟という史上初の試みは、アメリカ抜きの国際機関という限界の中で模索を続けていた。
アメリカでは、相互援助条約案とは別に、カーネギー国際平和財団の協力を得て、民間の国際法学者が議論を継続し、相互援助条約案に対する「対案」を作成した。
これは民間の案ではあったが、連盟では事実上の「アメリカ案」として受け止められていた。
「アメリカ案」では、常設国際司法裁判所による侵略の認定を提言していた。
1924年の連盟総会は、相互援助条約案と「アメリカ案」を検討したうえで、新たに「ジュネーヴ議定書(国際紛争平和処理に関する議定書)」を作成した。
議定書は、戦争に代わる手段としての平和的紛争解決を提案しつつ、安全保障システムをつくることを明示していた。
各国に、平和的解決の義務を持たせ、同時に軍縮を進め、違反した国家への制裁を行うという考えである。
当時としては画期的な考案であったと思われる。
戦争を規制し、平和を求め、軍縮を目指す国際的な動きは、国際連盟とアメリカの橋渡しの試みとしても意義を持っていた。
こうして国際法における戦争の規制が徐々に進んできたが、それでも国際法は戦争を禁止はしていなかった。
国際法が戦争を禁止していない--このことに驚いたのは、シカゴの弁護士サルモン・レヴィンソンであった。
レヴィンソンはやがて<戦争の違法化>を提唱して、運動を進めていくことになる。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_9.html

--------------

 シカゴの弁護士レヴィンソンは、国際法について研究したことはなかった。
しかし、第1次大戦の悲劇は、戦争予防の必要性を意識させ、戦争における非人道的行為の予防を痛感させた。
国際法の著作を紐解いたレヴィンソンは、国際法の世界では戦争が違法とはされていないことを知って驚いた。
国際法は、むしろ戦争を根拠づけ、合理化していた。
当時の国際法も一応は戦争手段の規制に向けられていたが、戦争を違法化するべきだという立場から見れば、国際法は逆に戦争を正当化する役割を果たしていた。
1918年3月、レヴィンソンは、国際法学者が役割を果たさないのなら自分がその役割を買って出るしかないとばかりに、論文「戦争の法的地位」(『ニュー・リパブリック』14号、1918年)を発表した。
戦争が合法だとすれば戦争に反対することは論理的に説明できないとして、戦争反対の立場から<戦争の違法化>を唱えた。
レヴィンソンの立場は簡単明瞭である。
国家に戦争権限があるとすれば、国民は戦争反対の運動をすることができるのか。
国家が戦争できるのはどのような理由か。
国民が反対できるのはどのような理由か。
国家には本当に戦争権限があるのか。
こうしてレヴィンソンは戦争を違法とする運動が必要だと唱えた。                      
1921年末、レヴィンソンは「戦争違法化アメリカ委員会」を組織して、アメリカ内外での運動を始めた。
レヴィンソンは自費で『戦争違法化の計画』というパンフレットを出版して、全米の議員や学者や活動家に送付した。
その後も、レヴィンソンは一貫して戦争違法化を追及し、論文「戦争違法化条約の提唱」(『クリスチャン・センチュリー』45号、1926年)、「戦争制度を廃止する」(『クリスチャン・センチュリー』63号、1928年)を執筆している。
レヴィンソンに共鳴した哲学者デューイは、このパンフレットのために序文を執筆し、戦争違法化の広報に努めた。
上院議員ボラーもレヴィンソンを支え、1923年と1926年に上院に戦争違法化を求める決議案を上程した。   こうして戦争違法化運動は全米に広がっていった。
第1に、スローガンが単純明瞭で誰もが支持しうるものであった。
第2に、デューイやボラーなどの著名人が協力した。
第3に、戦争違法化はアメリカ政府に何らの義務を課していない。
こうして教会や女性の運動に支持を広げたという。
1920年代アメリカの政治雑誌等には戦争違法化に関連する論考がいくつも見られる。
 レヴィンソンは、戦争違法化の必要性を決闘との比喩で説明する。
かつて決闘が合法的な時代があった。
決闘は禁止されていないから、存在していたのはいかに行うかという「決闘の規則」であった。
しかし、やがて決闘は許されないと考えられて、決闘は禁止された。
禁止されると、決闘は殺人等の犯罪として扱われるようになった。
決闘だけではない。
かつて海賊は国際法によって禁止されていなかった。
奴隷制も禁止されていなかった。
決闘も海賊も奴隷制も、それを当然視していた人々がいたが、今日では誰もがその違法性を共通に認識している。
戦争についても同じことが言える。
戦争を違法化することができれば、やがて戦争を廃止することができるのではないか。
今日の目から見て、いかにも牧歌的と映るかもしれないが、レヴィンソンの論理は明瞭である。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_11.html

-------------

第1次大戦中、国際法が戦争を禁止していないことに驚いたシカゴの弁護士レヴィンソンは、1918年の論文「戦争の法的地位」を手始めに、パンフレット「戦争違法化の計画」や論文「戦争違法化条約の提唱」「戦争制度を廃止する」を発表した。
1922年末、「戦争違法化アメリカ委員会」を組織して、本格的に運動を始めた。上院議員ボラーは、戦争違法化を求める決議案を上院に上程した。
さらに、レヴィンソンの論文「戦争の違法化」をアメリカ政府の出版物として出版することに成功した。
レヴィンソン「戦争違法化」(ワシントン政府印刷局、1922年)である。
ボラーや哲学者デューイの協力で力を得た戦争違法化運動は1920年代アメリカで大きな流れとなっていった。
教会や女性の平和運動が戦争違法化運動に加わっていった。
戦争違法化を推進したレヴィンソン自身、弁護士とはいえ、第1次大戦以前は国際法には関心がなく、第1次大戦に直面しての疑問を正すために国際法を紐解き、戦争が禁止されていないことに驚いて、戦争違法化運動を始めた。
運動の担い手は教会や女性の平和運動であった。
それでは、専門の国際法学者の反応はどうであっただろうか。
ウオルター・リップマンは、論文「戦争の違法化」(「アトランティック・マンスリー」132号、1923年)において、疑問を投げかけた。
第1に、ボラーが戦争違法化運動を支持していることへの政治的批判である。
というのも、ボラーは、アメリカの国際連盟加盟に反対した「非妥協派」議員の一人であったし、常設国際司法裁判所にも反対していた。
つまり、戦争防止のための制度の創設にボラーは反対してきたはずである。
世界の大半の諸国が参加している国際連盟への参加を唱えずに、戦争違法化を唱えることは矛盾ではないのか。


第2に、より本質的な批判として、リップマンは戦争違法化思想そのものに疑問を提起した。
戦争違法化思想は、国家間紛争の解決にとって法による規制の可能性に過大な期待を寄せすぎている。
逆に言えば、会議、妥協、交渉などの政治的手段の意義を過小評価する危険性があるという批判である。
第1次大戦と第2次大戦の間の戦間期に登場した「新しい国際法学」のスターの一人であったクインシー・ライトも、論文「戦争の違法化」(「アメリカ国際法雑誌」19号、1925年)において、疑問を提起した。
ライトは、レヴィンソンの思想が倫理的・道義的な拘束力に着眼したものであるとし、単に戦争違法化を唱えても、十分な組織的担保がなければ意味がないと論じた。
戦争の規制のためには、もっと精緻な法概念が必要であり、責任、侵略、制裁などの国際法概念を明確にし、実効的な組織の裏づけを得て初めて戦争違法化が実現できるとした。

このように、国際法の「素人」であったレヴィンソンが提唱した戦争違法化運動は、専門の国際法学者からは批判を受けることとなった。
その意味をどのように考えるべきだろうか。
第1に、戦争違法化思想と運動は、単純明快なスローガンに発して、戦争違法化を宣言する国際協定を求めるという単純明快な目標を設定していた。
それまでも反戦平和の思想や論理には長い歴史があるが、「戦争違法化」という端的な目標が民衆の支持を得たことを確認するべきであろう。
第2に、ボラーなどの協力によってレヴィンソンの論文が政府出版物となったことは大きな成果であったが、それも第1次大戦を経験した世論の反戦意識が背景にあってのことであろう。
第3に、リップマンの批判は法的手段の偏重を戒めて政治的手段を強調するものであり、ライトの批判はより精緻な法論理と法制度を強調するものであり、方向はまったく異なる。
国際法学者であるが故に、戦争違法化という単純明快な方策の限界を見抜き、より複雑な国際政治と国際法の現実を踏まえた論議の積み重ねを提唱したものである。
しかし、国際政治の現実は、「素人」レヴィンソンの夢にたぐり寄せられ、不戦条約を実現することになる。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_9322.html

---------------

シカゴの弁護士レヴィンソンが始めた戦争違法化運動は、第1次大戦後のアメリカ世論に大きな支持を得ることに成功し、やがて大西洋を横断して、西欧に波及していった。
1920年代、国際連盟では、戦争を規制し、国際社会の平和と安定を実現するために様々な試みが続けられていた。
1923年の相互援助条約案、1924年のジュネーヴ議定書などである。
相互援助条約案もジュネーヴ議定書も条約として成立しなかったが、1925年、英・独・仏・伊・ベルギー5カ国が締結したロカルノ条約は、ドイツとベルギー間の戦争、およびドイツとフランスの間の戦争を防止するために、3カ国と、保証国としてイギリスおよびイタリアが加わっている。
ロカルノ条約は、3カ国がいかなる場合においても、相手国へ攻撃または侵入し、あるいは戦争に訴えないことを相互に約束した。
実定法上はじめて、国際紛争解決のために戦争に訴えることを禁止した。
また、戦争手段の規制も、1907年のハーグ諸条約に加えて、1922年の毒ガス制限ワシントン条約案、1923年の空戦規則案、1925年の毒ガス議定書、1929年の捕虜ジュネーヴ条約を経て、1930年のロンドン海軍軍縮条約へと進展していった。
この時期の戦争規制と安全保障に対する難点は、国際連盟が主要大国を網羅していないことであった。
国際連盟の設立を提案したのはウィルソン米大統領であったが、アメリカは国内の反対が強かったために、国際連盟に加盟していない。
こうした流れの中で、戦争違法化運動が国際連盟とアメリカを結びつける役割を果たすことになった。
1927年、ブリアン仏首相は、アメリカに対して相互不可侵条約の締結を提案した。
ロカルノ条約が西欧だけの戦争禁止条約であったのに対して、大西洋をまたいだ条約の提案である。
この提案を受けたケロッグ米国務長官は、仏米間だけでなく、多国間条約とすることを提案した。
仏米に加えて、英伊日などの協議の結果、1928年、パリで不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が取り結ばれた。
不戦条約は、不戦条約第1条は、「締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」とし、第2条は、「締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す」とした。
不戦条約は、戦争放棄と紛争の平和的解決を謳った僅か2カ条の宣言的条約であり、戦争や紛争の定義も行わず、条約遵守の監視メカニズムも予定されていなかった。
このため締結当時から様々の批判を受けていた。
紛争の平和的解決といいながら解決のための国際手続きを用意していない。
条約違反に対する制裁もない。
63カ国が加入したが、多くは「自衛戦争の留保」を行ったために、自衛を口実とした戦争を許す結果になってしまった。
国際連盟が準備したジュネーヴ議定書では、少なくとも集団安全保障としての制裁措置と、戦争に代替する平和的解決措置を規定していた。
(1)平和的解決への義務、(2)軍縮の達成、(3)制裁の実行という3つの具体的方策が示された。
この意味では不戦条約は不備な条約であった。
しかし、それだからこそ普遍的な宣言として成立しえたのである。
そして、不戦条約が到達した戦争違法化は、まさにレヴィンソンの思想に通じるものであった。
戦争違法化を宣言し、その思想を普遍的に通有させ、法規範の意義を浮き彫りにさせるというレヴィンソンの発想と同じなのである。
リップマンやライトがまさに同じ理由で非難していたことを想起すれば、普遍を現実化しようというレヴィンソンの夢に凱歌があがったといえよう。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_13.html

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17 コメント

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Unknown (サン)
2013-05-23 00:18:43
1974年国連総会決議の侵略の定義は、国際連合が存在することが前提になっていますから、国際連合がない時代における侵略にそのままあてはめることはできません。

安倍発言はそういう文脈で理解すべきもので、前田サンの議論はいつものように、いささか強引ですね。


事実は、

日本は侵略とおもっていなかった。
しかし戦争に負けて侵略とされた。
その解釈の結果は日本は受け入れる。

ということなのであって、まさにそのように解釈を確定することが、かつては戦争というものの国際法的な意味でした。
橋下の 「敗戦の結果として侵略だと受け止めないといけない。反省とおわびはしなければいけない」 という侵略論が第二次大戦以前については正しいのです。

なお念のため書いておきますが、第二次大戦以前も、何をしても良かったワケではありません。そのときにも、法はありました。今の法と同じではありませんでしたが。
返信する
Unknown (kasagawa)
2013-05-23 07:54:04
「侵略者」を自称する軍隊はいません。
いたら相当間抜けです。
だから学問の世界では「侵略の定義」が決まっていないんです。

歴史研究で避けなければならないのは以下の2点です。

(イ)価値判断を下す(侵略 or 自衛の判断を下す)
 理由:上記のとおり

(ロ)特定勢力の「責任を追及」する
 理由:特定勢力の過大評価を招いてしまう
   (例:昭和天皇の戦争責任)

「侵略の是非」「戦争責任の追及」はミスリードを招くだけであって学問上ふさわしくありません。
返信する
Unknown (バッジ@ネオ・トロツキスト)
2013-05-23 08:48:25
>日本は侵略とおもっていなかった。

おバカな捏造は止めてくれよw
戦前から「侵略戦争反対」を掲げて闘っていた日本人は左翼以外にもいたんだからね。
返信する
精神科医 (宮地 達夫)
2013-05-23 20:00:42
国連総会決議3314 1974年12月14日の概要は以下の通り
第1条 (侵略の定義)
侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であ って、この定義に述べられているものをいう。
第2条
(武力の最初の使用)
国家による国際連合憲章に違反する武力の最初の使用は、侵略行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、国際連合憲章に従い、侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(当該行為又はその結果が十分な重大性を有するものではないという事実を含む。)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる。
第3条
(侵略行為)
次に掲げる行為は、いずれも宣戦布告の有無に関わりなく、二条の規定に従うことを条件として、侵略行為とされる。
(a) 一国の軍隊による他国の領域に対する侵入若しくは、攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果もたらせられる軍事占領、又は武力の行使による他国の全部若しくは一部の併合
(b) 一国の軍隊による他国の領域に対する砲爆撃、又は国に一国による他国の領域に対する兵器の使用
(c) 一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖
(d) 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に関する攻撃
(e) 受入国との合意にもとづきその国の領域内にある軍隊の当該合意において定められている条件に反する使用、又は、当該合意の終了後のかかる領域内における当該軍隊の駐留の継続
(f) 他国の使用に供した領域を、当該他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する国家の行為
(g) 上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与
更に侵略犯罪に関する特別作業部会
2007年2月開催の第5回再開協議では、主に以下の点が協議された。
• 個人による行為としての侵略の定義 - 2案に分かれていたが、より指導層の個人の責任を明確にする案が好まれた。ただし個人責任を明確化する場合には指導層以下に訴追が及ばないよう規程第25条3項の修正が必要である、という意見が多数を占めた。
• 国家の行為としての侵略の定義 - 定義を汎用性のあるものするか固有のもの(明確な構成要件を定義)にするかで意見が分かれ、依然として合意は見られていない。ただし、固有の定義を希望する参加国の多くは、国連憲章第51章に定める個別的及び集団的自衛権の権利の行使の要件となる「武力行使」の記述が含まれるべきだとした。
• 国家の行為としての侵略を定義付けるしきい値の設定 - 更新されたディスカッション・ペーパーには、国家の行為としての侵略を定義付けるしきい値の設定が新たに提案された。これは、当該行為の形態(規模)や目的に応じてしきい値を設け、その行為が国連憲章に明白に違反するものであるか、「侵略戦争」もしくは占領あるいは併合によるものである場合にのみ国家の行為としての侵略であると定義づけるというものだった。この提案は多くの支持を集めたが、国際刑事裁判所の管轄権が及ぶのは「国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪」に限定されていると
そして実行機関である国際刑事裁判所(こくさいけいじさいばんしょ、英: The International Criminal Court、仏: La Cour pénale internationale)は、個人の国際犯罪を裁く常設の国際裁判所である。
注目される条文
前文・第1条(裁判所)
国際刑事裁判所は国家の刑事裁判権を補完する。
第7条(人道に対する犯罪)第1項g
人道に対する犯罪として、「強かん、性的奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの」が規定された。このうち、「性的奴隷」は、第二次世界大戦中の旧日本軍の「従軍慰安婦」が念頭に置かれた規定である
第27条(公的資格の無関係性)
国際刑事裁判所規程は、その公的資格に関りなく、すべての者に平等に適用される。国家元首や議員、公務員であっても、規程に基づく刑事責任から免除されない。
そのため、伝統的な国際法の下では訴追できなかった現職の国家元首や閣僚であっても訴追の対象となる(このような規定は、ジェノサイド条約第4条や旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷規程第7条にも見られる)。
第36条(裁判官の資格、指名及び選挙)8項a(iii)
裁判官の構成は、男女の割合が公平でなければならない。裁判官のジェンダーバランスが考慮された。これは、国際刑事裁判所が対象とする事態に女性に対する性的暴力が多く含まれるためである。
第43条(書記局)
書記局には、被害者及び証人部門が設置されるが、この部門には、性的暴力によるものを含む精神的外傷に関する専門知識を有する職員を置かなければならない。
第77条(適用される刑罰)1項b
適用しうる刑罰は、30年以下の有期の拘禁刑または終身刑のみで死刑はない。犯罪がきわめて重大であり、有罪とされる人の個人的事情によって正当とされる場合においても、最高刑は終身拘禁刑である。刑を執行する国は刑期終了前に受刑者を釈放してはならず、裁判所だけが減刑する決定権を持つ。
裁判所は有期刑の受刑者は刑期の三分の二、終身刑の受刑者は25年間服役した時に、減刑の可否について再審査する。裁判所は受刑者が減刑の条件に合致する場合は減刑することができる。裁判所は減刑を不許可にした場合も一定の時間ごとに減刑を再審査することができる。
そして、國際刑事裁判所の扱う事例には時効がない
すなわち、事後法ではなく、過去の「侵略」における
「人道的罪」については、國際連合の規定では、連合成立以前にでも提訴できる。
返信する
精神科医 (宮地 達夫)
2013-05-24 03:53:50
極東國際軍事裁判を、勝者による裁判だとか,事後法だからといって否定する論調が、石原、や阿倍などを中心として未だに盛んである。それは当たらない。何故なら、サンフランシスコ平和条約第11条における「受諾」において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない」と定められたからであり、石原ら主張が正当性を獲得するためにはサンフランシスコ平和条約第11条における「受諾」を否定しなければならない
極東国際軍事裁判において訴因は当初55項目であったが11項目に変更された
訴因1 1928年から1945年に於ける戦争に対する共通の計画謀議
訴因27 満州事変以後の対中華民国戦争遂
訴因29 米国に対する戦争遂行
訴因31 英国に対する戦争遂行
訴因32 オランダに対する戦争遂行
訴因33 北部仏印進駐以後における仏国戦争開始
訴因35 ソ連に対する張鼓峰事件の遂行
訴因36 ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行
訴因54 1941年12月7日~1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反
訴因55 1941年12月7日~1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反
次ぎに日中戦争が「侵略」にあたることを歴史的に総括する 基準は国連決議で構わない。戦争法は時効がないからである

返信する
精神科医 (宮地 達夫)
2013-05-24 04:03:53
満州事変(まんしゅうじへん、旧字体:滿洲事變、英:Mukden Incident, Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件[注釈 1])に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)である 関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)張作霖爆殺事件によって、日本は国際的な批判を浴びた。張作霖の後を継いだ息子の張学良は、蒋介石の南京国民政府への合流を決行(易幟)し、満州の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。また、東北政務委員会、東北交通委員会、国民外交協会が設置されて、日本に敵対的な行動を取るようになった。ソ連追い出しに失敗した張学良は、失権失地回復の矛先を南満の日本権益と日本人に向けてきた。満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけた。満鉄は昭和5年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3000人の解雇、全社員昇給一カ年停止、家族手当、社宅料の半減、新規事業の中止、枕木補修一カ年中止、破損貨車3000輌の補修中止、民間事業の補助、助成中止など支出削減を実施した[1]。また、張学良は、満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった[1]。さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。満州事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという 1927年(昭和2年)ごろ、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎らが二葉会[注釈 7]を結成し、人事刷新、総動員体制の確立、満蒙問題の早期解決などを目指した。同年11月ごろ、鈴木貞一参謀本部作戦課員らによって木曜会[注釈 8]が組織され、1928年3月には、帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立することを決定した。1928年(昭和3年)10月に石原莞爾が関東軍作戦主任参謀に、1929年(昭和4年)5月に板垣征四郎が関東軍高級参謀になった。満蒙問題の解決のための軍事行動と全満州占領を考えていた石原、板垣らは、1931年(昭和6年)6月頃には、計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていたとされている。1929年5月、二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成され、人事刷新、満州問題の武力解決、非長州系三将官の擁立を取り決めた。同年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、1930年(昭和5年)8月、永田鉄山が軍務局軍事課長になった。同年11月永田は満州出張の際に、攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、1931年7月に歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた[注釈 9]。満州事変直前の1931年8月には、陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった
1931年3月、満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満州問題解決方針の大綱」を決定した。同年8月、五課長会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった[注釈 10]。今村作戦課長は「満州問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動くことで満州事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、内閣を引きずって満州事変を推進していった
柳条湖事件 [編集]
詳細は「柳条湖事件」を参照

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満州鉄道線路上で爆発が起きた。これがいわゆる柳条湖(溝)事件[注釈 11]である。
現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している[注釈 12]。
本事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが戦後のGHQの調査などにより判明している[注釈 13]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。関東軍は、これを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。
関東軍の軍事行動
事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。9月22日関東軍は、居留民保護のためハルピン出兵の意向を示したが、陸軍中央は認めず、断念した。
陸軍中央部の対応 [編集]
9月19日午前7時、陸軍省・参謀本部合同の省部首脳会議が開かれ、小磯国昭軍務局長が「関東軍今回の行動は全部至当の事なり」と発言し、一同異議なく、閣議に兵力増派を提議することを決めた。出席者は杉山元陸軍次官、小磯国昭軍務局長、二宮治重参謀次長、梅津美治郎総務部長、今村均作戦課長(建川美次第一部長の代理)、橋本虎之助第二部長、および局長・部長以上の会議において特別に出席が許され、実質的に局長待遇であった永田鉄山軍事課長であった。省部首脳会議の決定を受け、作戦課は朝鮮軍の応急派兵、第10師団(姫路)の動員派遣の検討に入り、軍事課は閣議提出案の準備にかかった。同日午前10時の閣議で南次郎陸軍大臣は関東軍増援を提議できず、事態不拡大の方針が決定された。
同日午前、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長によって、満蒙問題解決の動機となすという方針が合意され、条約上の既得権益の完全な確保を意味し、全満州の軍事的占領に及ぶものではないとされた。同日午後、作戦課は、関東軍の旧態復帰は断じて不可で、内閣が承認しないなら陸相が辞任して政府の瓦解も辞さないという「満洲における時局善後策」を作成し、参謀本部内の首脳会議の承認を得た。作戦課は関東軍の現状維持と満蒙問題の全面解決が認められなければ、陸軍によるクーデターを断行する決意であった。
南陸相は、事態不拡大の政府方針に留意して行動するよう、本庄繁関東軍司令官に訓電した。
20日午前10時、杉山次官、二宮次長、荒木本部長は、関東軍の旧態復帰拒否と、政府が軍部案に同意しない場合は政府の崩壊も気にとめないことを確認した。
軍事課は、事態不拡大という閣議決定には反対しないが、関東軍は任務達成のために機宜の措置をとるべきであり、中央から関東軍の行動を拘束しないという「時局対策」を策定し、南陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監(陸軍三長官)の承認を得た
関東軍の専行 日本政府は、事件の翌19日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。しかし、21日に林中将の朝鮮軍が独断で越境し満洲に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。21日の閣議では「事変とみなす」ことに決し[注釈 15]、24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、独断越境司令官などと呼ばれた。
関東軍参謀は、軍司令官本庄繁を押し切り、政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大する。独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、関東軍は中国東北部を制圧したこれ以降、関東軍は満州問題について専行して国策を決定し実行するようになった(陸軍戦闘教義における独断専行および文民統制問題)。なお、政府は事件勃発当初から関東軍の公式発表以外の内容の報道を規制したため、「禁止件数は(中略)八月以降急激に飛躍的増加を示すに至りし原因は、九月に於いて満洲事変の突発するあり」 [8]という状況となった。さらに事件の日本人関与の事実を把握すると、12月27日通牒の記事差止命令に「張作霖の爆死と本邦人との間に何等かの関係あるか如く瑞摩せる事項」を入れて情報操作を強化した
 以上、反共産主義の名の元に宣戦布告なしの戦闘行為中国全土に拡大した、これは「侵略」である
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Unknown (サン)
2013-05-24 06:03:53
>>戦前から「侵略戦争反対」を掲げて闘っていた日本人は左翼以外にもいた

だから?

アメリカにもアメリカは侵略するなというひとはいたでしょうし、
朝鮮半島には日本の戦争は侵略戦争じゃないと信じて日本軍とともにたたかってるひともいましたが。

侵略に関するなにかの「意見」が国内にあることが、国の意思とどう関係するのですか?


>>過去の「侵略」における
「人道的罪」については、國際連合の規定では、連合成立以前にでも提訴できる

へえ、そうすると、過去の「侵略」側ではないが、「人道的罪」については「人道に対する犯罪」に、はいらないのですか?ソ連軍がベルリンの女性の大半を強姦した事件だとか。

「人道に対する犯罪」というのは、侵略だろうが侵略でなかろうが、まさに「人道に対する犯罪」を裁こうという発想でしょ。侵略と密接に関係あるとしても、侵略の定義を与えるものではありません。
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精神科医 (宮地達夫)
2013-05-24 07:54:08
過去の「侵略」における
「人道的罪」については、國際連合の規定では、連合成立以前にでも提訴できるへえ、そうすると、過去の「侵略」側ではないが、「人道的罪」については「人道に対する犯罪」に、はいらないのですか?ソ連軍がベルリンの女性の大半を強姦した事件だとか。「人道に対する犯罪」というのは、侵略だろうが侵略でなかろうが、まさに「人道に対する犯罪」を裁こうという発想でしょ。侵略と密接に関係あるとしても、侵略の定義を与えるものではありません」
国連の侵略の定義と国連機関の国際刑事裁判所に規定されている人道的罪は別です。原文をよく読んで混同しないことですね 侵略の定義が期限を切ってないということは、j時代遡及的に侵略を追求できるという意味である。たとえばスーダンなど。
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Unknown (サン)
2013-05-24 08:00:43
>>極東國際軍事裁判を、・・・否定する論調が、・・・それは当たらない。何故なら、サンフランシスコ平和条約第11条における「受諾」において・・・

これがまさに、橋下のロジックでしょ。
負けたから侵略になったんだ、ということです。

あなたは橋下と同じ事言ってるんですよ、宮地さんw ←これはさすがにwをつけさせていただきます。

で、もうこの議論はやめますね。
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精神科医 (宮地達夫)
2013-05-24 16:51:48
私も最後にしますが、誤解があるので。石原や安倍のロジックを否定したつもりです。彼らは強者が敗戦者を裁いた東京裁判はおかしい、と言っているので、それならばサンフランシスコ条約受諾という日本国家の裁定が間違っているから自分たちの正当性を主張したければ、サンフランシスコ条約を破棄する行動に出るほかはないという趣旨の話をしただけです
以上 さようなら
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