水俣は問いかける(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)/ニッポン人脈記(朝日新聞)

2011-07-01 07:42:17 | 社会
水俣は問いかける:1 魂の遺言に向き合う

3月11日のことだ。

 水俣病患者の苦悩を描いてきた作家、石牟礼道子(いしむれみちこ)(84)の熊本市の仕事場に訪問客があった。

 彼女の世話をしている看護師たちが野の花をつんで作った花かごを持ってきたのだ。

 「お誕生日おめでとうございます」

 自分が生まれた日をすっかり忘れていた石牟礼は「今日は世の中何があるかしら」とテレビをつけると、東日本大震災の映像が映し出された。

 壮絶な光景に息をのんだ石牟礼はそれから連日、震災のニュースに目がくぎづけになった。家屋が倒壊した被災者が、自分たちよりも津波にのみこまれた人々やその家族の無念さを思いやり、涙を流す姿を見た。

 「希望がもてない日本だなあと思っていました。でも、東北の人々のことばを聞いていたら、こういう人たちがいらっしゃるのであれば、日本人にも希望がもてるのかもしれないと」

 水俣病問題にかかわって約半世紀。この間、石牟礼はずっと危機感を募らせてきた。

 互いを思いやるきずなが失われ、無機質の巨大なビルが立ち並ぶ都会の姿は、近代文明のなれの果てに見えた。

 そこには生きもののざわめきがなく、何より大地が呼吸をしていない。

 石牟礼は大震災のことを考え続けた。

 「息ができなくなっていた大地が深呼吸をして、はあっと吐き出したのでは。死なせてはいけない無辜(むこ)の民を殺して。文明の大転換期に入ったという気がします」

    *

 石牟礼が育ったのは熊本県水俣市。静かで、のどかで、ひそやかな不知火(しらぬい)海のなぎさで遊んだ。近くにはチッソの工場がそびえ立っていた。

 1950年代の半ば、石牟礼はこんな話を耳にした。

 「妙な病気がはやりよっとばい。猫は鼻で逆立ちして、鼻が真っ赤になって」

 胸騒ぎがした。

 当時、海では魚が海面に浮き、魚を食べたカラスが空から落ち、漁師の中には手足が震え、よだれをたらし、うなり声をあげ、死ぬ者もいた。

 水俣で起きていることを書かねばと思った石牟礼は、患者の家を歩いた。苦しんでいるのは10人や20人ではないと直感した。

 患者を描く際は地元のことばで表現した。

 「そうしなければ患者さんの心情は伝わりませんから」

 病院に収容された患者が海の美しさを懐かしむ場面を、石牟礼はこう描いた。

 「わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる」

    *

 65年、雑誌に原稿を発表していた石牟礼の自宅を渡辺京二(わたなべきょうじ)(80)が訪れた。

 渡辺は「熊本風土記」という雑誌の創刊を準備していた。石牟礼の原稿を一読した渡辺は驚き、知り合いの作家上野英信(うえのひでのぶ)(故人)が出版社にかけあった。原稿は69年に「苦海(くがい)浄土」という題で出版され、反響を呼んだ。

 だが、水俣市はチッソの企業城下町。企業の影響力が大きく、患者は孤立していた。

 「水俣病はふつうの事故ではなく、緩慢なる毒殺です」

 何とかしなければと思った石牟礼は「もっと多くの人に知らせたい」と訴えた。

 「石牟礼さんの頼みなら」と、渡辺はガリ版刷りの新聞「告発」を出した。以後、石牟礼と共に動き、原稿の清書や資料の整理を今も続ける。

 渡辺自身、石牟礼の作品から示唆を受け、近代を問う作品や論評を書いてきた。

 「何でも一緒にやってきたんだから。こうなったらとことん手伝うしかない」

 石牟礼は水俣病患者と震災の犠牲者の姿を重ねる。

 「亡くなった人たちの魂が伝えようとしている遺言に向き合わなければ、日本は滅びると思います。でも、受けとめて立ち上がった時、今までとは異なる文明が出来上がるのではないでしょうか」

 医療、認定、賠償。水俣病を通して突きつけられた問題に向き合ってきた人々をたずねながら、被害者となった国民、企業、国の関係を見つめ直す旅に出た。

 (稲野慎)
*2011.6.17

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水俣は問いかける:2 海はつながっている

熊本県水俣市の隣町、津奈木町にすむ元漁師の諌山茂(いさやましげる)(81)は、福島第一原子力発電所内の放射能を含んだ水を東京電力が海に放出した、というニュースをテレビで見て憤りを覚えた。

 「放射能を海に流したらどんな影響がでるか、誰もわからんでしょ。科学者は、海のことは知らんでしょうが」

 傍らには諌山の長女孝子(たかこ)(49)がいた。

 チッソが海にたれ流した工場排水に含まれていた水銀が、食物連鎖で魚に蓄積。孝子は、その魚を食べた諌山の妻の胎内で水銀に侵された。

 生まれながらにして水俣病を背負った孝子は1歳の時、医師から「脳性まひ」と診断された。9歳の時には水俣病患者として認定された。

 苦しみは続いた。12歳のころには体調を崩して入院。全身硬直で痛みがひどく、激しいけいれんも孝子を襲った。

 「お父さん、助けて。ちくしょう、ちくしょう」

 体中から汗を噴き出しながら、孝子は叫び続けた。

 孝子の痛みを和らげようと、諌山はベッドの上に座り、ひざの間に孝子を置いて2日間、後ろから抱いた。

 娘の苦しみを直視するのがつらくなった諌山は、意識がもうろうとする中、孝子に話しかけた。

 「もう死んだほうがよかね。楽になるから」

 孝子は頭を横に振った。

 生きていたい、という意思表示だった。

 当時を振り返って諌山はいう。「苦しみながらも、孝子は一生懸命生きようとした。もう絶対、こんなことをいうてはいかんと思いました」

 孝子は今も硬直とけいれんに苦しむ日々を送る。

 「水俣病は終わらんと」

 諌山はつぶやく。

     *

 水俣市に住む南(みなみ)アユ子(こ)(67)は、20代から手の指が硬直する水俣病特有の症状に悩まされるようになった。地元の漁協に勤めていた父親は激しいけいれんに苦しんだ末、1974年に死んだ。南は父のような重症患者だけが水俣病だと思い込んでいた。

 だが、南の症状を聞いた知人が2005年、水俣病に詳しい医師の診察を受けるようすすめた。半信半疑で受診すると、水俣病と診断された。

 南は、国、熊本県、チッソを相手に賠償を求める裁判の訴訟団体の原告になった。

 水俣の対岸20キロほど先の不知火(しらぬい)海に浮かぶ天草。そのほとんどの地域は「認定患者がいない」という理由から、環境庁と熊本県の線引きによって水俣病の補償・救済対象から外されてきた。だが訴訟団体は、天草にも患者がいるのではないかと考えた。南は団体の依頼で天草に向かった。

     *

 80代の女性20人ほどに、ある家に集まってもらった。

 手足が硬直したり、ふらついたりすることもあると女性たちは口々に訴えた。

 「水俣病患者の症状と同じだ」と思った南は、水俣病に詳しい医師の診察をすすめた。結果は、ほとんどの女性が水俣病と診断された。

 南はいう。

 「天草の山の上から不知火海を見た時、海は全部つながっているし、魚は仕切りがないところを泳いでいるんだなあと思った。水銀はころころ転げ回っていたんです」

 訴訟団体は、国、熊本県、チッソとの和解協議で、たとえ線引きの外であっても有機水銀に汚染された魚を多食した証明ができれば例外的に救済対象に入る、という和解案にこぎつけた。

 だが、補償・救済を決める線引きはそのまま残された。

 今年3月、熊本県芦北町で訴訟団体の集会が開かれた。

 水俣のほか天草の原告も含めて約1500人が出席し、ほぼ全員が和解案に賛成したが、南は賛否を示す紙に「中立」と書いた。

 「裁判で救済は前進した。でも、天草には原告以外にも苦しんでいる人がいる。国は線引きをしてなるべく補償額を抑えようとしているけれど、苦しむ人たちを置き去りにしたら国の恥ですよ」

 水俣病の認定患者は現在、2271人。未認定患者は5万3千人以上。だが、水俣病という自覚がないなどの理由からまだ名乗りを上げていない「潜在患者」がさらに相当数いるとみられている。

 水俣病の公式確認から55年余。国は被害の全容解明に今なお積極的に向き合おうとはしていない。(稲野慎)

*2011.6.20

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水俣は問いかける:3 「すべての償い」、及び腰

 1973年3月22日。

 社長の嶋田賢一(しまだけんいち)(故人)は、チッソ東京本社で、約40人の水俣病患者と向き合っていた。嶋田にとって最大の課題は、患者への補償をどうするかだった。

 2日前の20日には、熊本地裁で、30世帯の原告患者に対し1人あたり最高1800万円の補償金の支払いをチッソに命じる判決が出た。

 NHK熊本放送局のアナウンサーで、患者の支援運動に取り組んでいた宮澤信雄(みやざわのぶお)(75)は、嶋田の顔をじっと見つめながら思った。

 「あんたらは加害者だ。患者を元の体に戻せないんだったら、死ぬまで寄り添い続けないといけないんだ」

     *

 患者の交渉団の団長は田上義春(たのうえよしはる)(故人)。交渉で田上が求めたのは、すべての患者に対して判決並みの補償金を出すことと、年金を支給することだった。

 田上は誓約書を読み上げ、嶋田に押印を迫った。

 「判決に基づくすべての責任を認め、水俣病にかかわるすべての償いを誠意をもって実行いたします」

 チッソの誠意を問う「踏み絵」だった。

 だが嶋田は、「実行いたします」の前に「可能な限り」という文言を挿入するよう何度も患者側に求めた。

 患者の数はこの時点で約400人。前の年の約2倍に増えたが、嶋田はさらに千人以上は増えるとみていた。「すべての償い」を約束すれば、会社は重大な経営危機に陥る。そう考えたのだ。

 嶋田のそんな態度に患者たちの感情が爆発した。濱元(はまもと)フミヨ(故人)は訴えた。

 「文章を直すならば、患者を治して。患者の体の一部分でいいから治してくれれば、誓約書を書き直します」

 田上もいった。

 「体ば元通りにしてくれろ。水俣の自然も戻してくれろ。そうしたらお互い貸し借りなしや」

 苦悩の色を浮かべた嶋田は、田上が読み上げた通りの誓約書に押印した後、患者の前で土下座した。

 嶋田の次女(63)はいう。

 「あのころ、父は般若心経が書かれた布を身につけていました。夜は眠れなかったようで、日本間の机に向かって何か考えごとをしていた姿を覚えています」

 年金交渉は難航した。宮澤は年金こそが、患者が最も求めているものだと考えた。

 「『慰謝料を払ったら終わり』で済むなら、企業にとっては御の字。だが、被害者と加害者の関係は一生続く。だからこそ、患者に年金を支給することが大事なんだ」

     *

 4月13日。患者たちは通帳と振り込まれた補償金1800万円の札束を嶋田の前に積み上げ、嶋田に迫った。

 「金は返す。その代わり、体を元に戻せ」

 嶋田は憔悴(しょうすい)しきった表情でうつむいていた。

 患者とチッソの交渉を撮影してきたフリーカメラマンの宮本成美(みやもとしげみ)(63)は思った。

 「人のきずなを壊され、ふるさとを壊された患者たちの深い悲しみは、社長にはわかろうとしてもわからないものだった。だから交渉を撮影すること自体、やるせなかったし、寂しかった」

 11日から始まった交渉は15日未明まで80時間続いた。

 この日が、嶋田が患者の前に姿を見せた最後の日となった。嶋田は5日後、都内の医院に入院した。結局、チッソはその後、患者一人あたり月額2万~6万円の年金にあたる「終身特別調整手当」の支給を認めた。5年後の78年、嶋田は肝硬変で他界した。

 企業人としての論理と、人としての思い。嶋田は、自らの胸の内を入院先で専務にこう打ち明けていた。

 「自然人としての嶋田が心情的に考える金額は、会社の支払い能力をはなれたものにならざるを得ない」

 「あとどうすべきかは、国家の判断の範疇(はんちゅう)にある。会社を全部、国に差し出すから、設備、労働者を活用されたい。私企業のよくする範囲を超えた」

 (稲野慎)

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水俣は問いかける:4 思い託した「細川ノート」

 水俣病の第一発見者は、チッソ水俣工場付属病院長の細川一(ほそかわはじめ)(故人)だった。

 1956年4月、水俣湾沿いで船大工を営む家の姉妹が細川の病院に運び込まれた。

 5歳の姉は突然歩けなくなり、2歳の妹は3歳になる直前、「くつがはけない」ということばを最後に話せなくなっていた。

 細川は約2年前から同様の異変に気がついていた。歩行障害、言語障害などの患者を診察していたからだ。

 「もう間違いない」

 そう確信した細川は56年5月1日、「原因不明の脳症状が発生した」と熊本県の水俣保健所に報告した。

 これが水俣病の「公式確認」となった。

 細川は原因を突き止めようと59年7月、チッソ水俣工場の排水をネコに与える実験をひそかに始めた。

 数カ月後、よだれをたらしてけいれんする症状がネコに現れた。

 やはりチッソの工場排水が原因ではないか。そう疑った細川は、実験結果をチッソ幹部に報告するとともに、実験の継続・拡大を求めた。

 だが、チッソは提案を認めず、排水を海に流し続けた。

 62年4月、細川は実験結果を公表しないまま、チッソを退社した。

    *

 それから3年後の65年5月、「第二の水俣病」とされる新潟水俣病が確認された。

 細川はその後、新潟水俣病を調べていた東大助手の宇井純(ういじゅん)(故人)に誘われて65年7月、宇井と共に新潟市を訪れ、患者の家をまわった。

 朝日ジャーナルの記者だった大石悠二(おおいしゆうじ)(74)は細川らに同行して取材した。

 「細川さんは口数が少なく、誠実な方という印象だった」と大石は語る。

 一方、水俣病第1次訴訟の原告側代理人を務めた新潟の弁護士、坂東克彦(ばんどうかつひこ)(78)は69年4月、愛媛県大洲市の故郷に戻っていた細川の自宅をたずねた。「ネコ実験のことを書いたノートを細川さんが持っているから確かめて」と作家の石牟礼道子(いしむれみちこ)(84)から頼まれていたのだ。

 坂東が実験当時の様子を聞くうちに、細川は部屋からノートを持ってきて坂東の前に広げた。

 ページの上の方にはネコ実験の内容が記され、中段の「註(ちゅう)」には「この実験は続行を切望したが出来なかった」の文字、下段には実験の提案を蹴ったチッソ幹部の実名が書かれていた。

 未発表の事実が載ったノートを書き写す際、坂東は興奮のあまり手が震えた。細川の話も懸命に書き取った。中にこんなことばがあった。

 「工場の医者は、工場の役にたつことをすればよいと言うが、私はそうは思わない」

    *

 その後、体調を崩した細川は70年5月、東京都内の病院に入院した。肺がんだった。

 その病床で7月、細川に対する熊本地裁の臨床尋問が行われた。坂東は、裁判官やチッソ側の弁護士らと共にその場にいた。

 細川は、新しい研究を一切やめるようチッソから言われた経緯を率直に証言した。

 証言後、細川が語ったことばを、坂東は細川の妻の光子(みつこ)(故人)から聞いた。

 「主人は『自分で点数をつければ100点満点だった』と話していました」

 証言から3カ月後の10月、細川はキリスト教の洗礼を受けてから亡くなった。

 東京で行われた葬儀の日の朝、坂東は「チッソからの花輪は受け取らないで下さい」と光子に頼まれた。

 だが花輪は届かなかった。

 細川は、会社には実験の継続・拡大を求めたものの、社会に対して内部告発するところまでは踏み切れず、その間、水俣病の被害は広がり続けた。

 「細川さんの内面は複雑だった。『最後に花輪は受け取らない』ということが細川さんのチッソに対する気持ちを表していた」と坂東は語る。

 一方、大石はいう。

 「当時は企業に勢いがあった高度経済成長の時代。内部告発をしたとしても、世論の支持は簡単には得られなかったと思う。細川さんは最後に医師としての良心を示したのではないか」

 生前、自らの苦悩を語ることはなかった細川だが、ネコ実験の経緯や会社側とのやりとりなどを詳細に記録した11冊の大学ノートを残した。

 これらの「細川ノート」は、企業内病院の医師としての立場と、人としての立場に切り裂かれた細川の無言の思いを今に伝えている。

 (稲野慎)
*2011.6.22
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水俣は問いかける:5 官僚は悩み、死を選んだ

 1990年11月1日。

 東京・霞が関の環境庁では、患者運動のリーダー、川本輝夫(かわもとてるお)(故人)ら水俣病患者の代表9人が、環境庁長官の北川石松(きたかわいしまつ)(92)と向き合っていた。

 傍らには、水俣病問題の責任者で環境庁企画調整局長の山内豊徳(やまのうちとよのり)(故人)がいた。

 その年の9月28日、東京地裁は、水俣病の未認定患者が国などに賠償を求めた裁判で和解勧告を出した。「判決確定を待てば被害者の救済が遅れる」との理由からだった。

 しかし山内は「勧告に応じることは困難」として国の責任を否定し、同様の裁判で相次いだ和解勧告にも一貫して拒否の姿勢を取り続けた。

 裁判の原告は全部で約2千人に上り、非を認めれば、補償額の拡大と責任追及につながることを国は恐れた。

 「患者を人間として扱ってほしい」。環境庁を訪れた患者は、和解拒否の撤回を求めて北川に迫った。だが北川は「被害者のみなさんの声を聞いて胸の痛む思いだ」としながらも、和解は拒否した。

 陳情が終わり、部屋を出ようとした川本を追いかけてきた山内は「川本さん、わかってください」と頭を下げた。

    *

 〈ながく悲しみに沈んだ者にも 春は希望のかへつてくる時〉。山内は子どものころからなぜか三好達治(みよしたつじ)の「閑雅な午前」というこの詩が好きだった。

 大学卒業後、福祉の仕事をしたいと厚生省に入った。

 大臣秘書官だった時、陳情に来たてんかんの子をもつ親の相談相手になり、「日本てんかん協会」の会員にもなった。会のバザーがあると自宅にある品物を持って行き、名前を名乗らずに置いてきた。

 山内は障害福祉課長や保護課長を務め、85年には自著「福祉のしごとを考える」を出版。「福祉のしごとに携わる人の内なる要件」として「高潔で円熟した人格と思慮が要請」されると書いた。

 山内が環境庁に出向したのは86年。71年に発足した環境庁は、大蔵省や厚生省からの出向者が多く、出身省の意向が強く働いていた。

 裁判所の和解勧告を拒否する国に対して、地元の熊本県議会は反発を強めた。

 北川は11月、「熊本に行って誠意を尽くす必要がある」と水俣行きを決意し、訪問は12月5日と決まった。

 北川の秘書官だった小林光(こばやしひかる)(61)は当時をこう振り返る。

 「山内さんの人柄から察すると、内心は裁判所の勧告を受け入れて和解したかったのでしょう。でも他の省の意向もあり、組織の一員として『和解拒否』と言わざるをえなかったのだと思います」

 北川の水俣訪問を翌日に控えた12月4日夜。憔悴(しょうすい)しきった表情の山内は、妻の知子(ともこ)(69)に打ち明けた。

 「水俣の仕事はどうしてもやりたくない。自分にうそをつかなければいけない部分が多すぎる」

 5日午前、山内は自宅の寝室で首をつって自殺した。

 知子はいう。

 「声を上げられない人のことを考える人でした。自分の思いとは逆のことをやるのに疲れ果てたのだと思います」

    *

 厚生省で山内の部下だった野村瞭(のむらりょう)(73)は、山内の自殺に衝撃を受けた。

 山内と同様、環境庁に出向して水俣病問題担当の環境保健部長になった野村は、役所の論理に従って「和解拒否」の姿勢を表明した。

 だが95年に村山富市(むらやまとみいち)(87)内閣が出した、未認定患者に一時金を支給する救済策作りでは、一転して中心的役割を担った。

 とはいえ、救済策は国の責任をあいまいにするなどしたため、患者に不満が残った。

 自分の中にも納得できない気持ちが残ったという野村は「水俣にかかわり続けよう」と考え、退官後、水俣市にある胎児性患者施設の理事になった。

 官僚論を論じてきた評論家の佐高信(さたかまこと)(66)は96年、志のある官僚の姿を描いた「官僚たちの志と死」を出版した。

 その中の一人として山内が登場する。

 佐高はこう語る。

 「福祉に情熱を傾けた山内は、水俣病の担当局長として患者を前にした時、悩んだ。役割をこなすだけの無責任な『厄人(やくにん)』が多すぎる中で、死に追い込まれるまで悩んだ山内の存在は貴重だ。今の官僚には『山内のように人としてとことん悩んでみろ』と私は言いたい」

 (稲野慎)
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水俣は問いかける:6 「わが青春」がよみがえる

 1978年9月。

 歌手の石川(いしかわ)さゆり(53)は、熊本県水俣市で開く初の歌謡ショーの直前、水俣病患者の療養施設「明水園」を訪れた。

 施設の寝台に横たわった胎児性患者が手を伸ばすと、石川はその手をそっと握った。

 「私の歌を聞いてくださる方がここにこうしていらっしゃる。そう思ったら言葉が見つからない。私なりのショックと感動がありました。まだ子どもでしたから」

 熊本出身の石川は当時、20歳。「津軽海峡・冬景色」がヒットし、前年、紅白歌合戦初出場を果たしていた。

 石川が施設を訪問するきっかけは、胎児性患者の滝下昌文(たきしたまさふみ)(54)の思いつきからだった。「石川さんを招いてショーを開きたい。寝たままの仲間にも会ってほしい」

 環境庁長官を退任直後の78年1月、水俣を訪問した石原慎太郎(いしはらしんたろう)(78)に対し、滝下は企画を打診した。石原の水俣行きは「胎児性患者の職場確保を約束しながら在任中に果たせなかった。引き続き努力する」と伝えるためだった。

 石原は滝下の望みを聞き、弟裕次郎(ゆうじろう)(故人)の石原プロを通じて、石川が所属するホリプロに働きかけた。

 実現に向けて「夢の企画」が動き出した。

     *

 胎児性患者のうち、滝下や坂本(さかもと)しのぶ(54)らは水俣病公式確認の56年に生まれた。

 母に抱かれて入浴するユージン・スミス(故人)の写真が世界に衝撃を与えた胎児性患者上村智子(かみむらともこ)(故人)と同い年だ。

 しのぶは同年代の患者の話し相手になろうと家々を回った時期がある。智子の母親からかけられた言葉が忘れられない。「『あんたはいいね。自分で歩けるから』って。胸が痛かったです」

 72年、しのぶは国連人間環境会議が開かれたスウェーデンの首都ストックホルムに赴き、水俣病の惨禍を訴えた。チッソに損害賠償を求める第1次訴訟の原告団にも加わり、中学を卒業した73年に勝訴判決を勝ち取った。

 しのぶは水俣市主催の成人式に出ていない。患者や家族はチッソとの補償交渉を当時の厚生省に委ねる「一任派」と裁判を起こした「訴訟派」に分裂していた。「全国の世論を敵に回してもチッソを守る」と公言する市長は、「一任派」が低額補償をのまされた交渉の立会人でもあった。

 しのぶら「訴訟派」にとって市は「怨敵」だったのだ。

 20歳を過ぎた患者らは「何かを一緒にやりたい」と願った。その思いの表れが「石川さゆりショー」だった。

 記録映画作家土本典昭(つちもとのりあき)(故人)のドキュメンタリー映画「わが街わが青春―石川さゆり水俣熱唱―」には、夏の盛りにポスターを貼り、入場券を売り、ショーの準備に没頭する若い患者たちの生き生きとした姿が描かれている。

 開演前の舞台あいさつに立ったものの、感極まって号泣する男性患者、市文化会館を埋めた千人を超す聴衆を前に熱唱する石川、終演後の舞台で感涙にむせびながら石川に花束を贈るしのぶ……。

     *

 あれから30年以上の歳月が流れた。

 「あの映画の上映会を開こう」と考えたしのぶは、市の関連施設・おれんじ館の館長でパソコンが得意な徳冨一敏(とくとみかずとし)(50)に相談した。「メッセージをお寄せください」と石川宛ての手紙を書いてもらい、投函(とうかん)した。

 昨年3月、水俣市で開かれた上映会には石川本人が現れ、しのぶらを驚かせた。

 「津軽海峡・冬景色」を作詞した阿久悠(あくゆう)も作曲者三木(みき)たかしも他界した。32年ぶりに会った患者の顔を見ながら、石川は「みんないい感じで年をとったな」と思った。当時の記憶がよみがえった。

 「私も歌いながら同じように月日を重ねてきました。『お互いがんばって50代を超えたいよね、これからも元気に過ごしましょう』と伝えたかったんです。みなさん、映画を静かにごらんになっていましたね。あんなに夢中で何かに向かったんだな、って」

 しのぶは今も、寝たままにならないよう週2回のリハビリに励んでいる。車いすの生活になった仲間もいる。

 あの夏は、彼らにとって、紛れもなく「わが青春」の日々だった。(田中啓介)

*2011.6.24

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水俣は問いかける:7 友よ、法廷では敵だった

水俣病をひき起こしたチッソの過失を裁判で立証したくても、証人のなり手がない。弁護団は頭を抱えていた。

 損害賠償を求める第1次訴訟の審理が熊本地裁で進んでいた1970年のことだ。

 裁判に協力的だったチッソの労組役員は「証言したらクビになる」と二の足を踏み、工場周辺の住民は「チッソに盾突いたらこの街では生きていけない」と尻込みした。

 弁護団がやむなく証人として呼んだのが、原告患者が発症した前後の57~60年に水俣工場長だった西田栄一(にしだえいいち)(故人)だった。

 事務局長千場茂勝(せんばしげかつ)(85)をはじめ7人の弁護団は、チッソが提出した資料の山と格闘し、工場排水をネコに与えた実験の台帳に目を留めた。

 「374」の番号を割りふられたネコが「発症」――。熊本大の有機水銀説に反論するため、チッソが59年発表した「見解」では、ネコ374号は「発症せず」とされていたのだ。千場らは次々に尋問に立って、こうした矛盾点を突いていった。

 2日目の証人尋問で、西田は「水俣病の原因は工場排水」と認めた。

 「千場君、昔に比べてきつくなったな」

 チッソ側代理人の弁護士加嶋昭男(かしまあきお)(83)は面食らった。千場と最初に会ったのは東京・霞が関の建設省。2人はともに53年入省のキャリア官僚だった。

    *

 加嶋は東京出身。東大在学中、司法試験に合格したが、若いころ内務省に内定しながら弁護士を選んだ亡父五郎(ごろう)に勧められ、建設省に入った。酒をよく飲む職場の慣習に、「健康を損なうのでは」と不安になり、1年余りで辞めた。その後は父親の弁護士事務所に入って約30社の顧問業務を手がけたが、その1社がチッソだった。チッソの顧問弁護士は父の代からだ。

 一方の千場は熊本生まれ。チッソとの縁は戦中にさかのぼる。今の熊本大工学部在学中の44年に動員され、水俣工場で戦闘機の風防ガラスを磨く作業に明け暮れた。

 戦後、地元の新制中学の教員に採用され、国家公務員試験を受けるよう同僚から勧められた。中央大の夜間部に通い、建設省に入ったものの学閥社会の役所に嫌気がさし、勤務の合間に司法試験の勉強を続けて58年に合格した。

    *

 加嶋が世田谷に住んでいた63年に、労働問題専門の弁護士になった千場が自宅を訪ねてきたことがあった。千場は「熊本へ帰る」と告げた。

 その後、千場が水俣市職員労組の役員から水俣病患者のために裁判を起こすよう依頼され、6年後に法廷で相まみえることになろうとは、2人とも夢にも思わなかった。

 法廷で同期の友と闘う日々が始まった。

 第1次訴訟は、千場にとって苦しい裁判だった。チッソによる患者切り崩しを恐れて提訴を急いだ結果、準備不足がたたって思うように立証が進まない。千場は支援者の手厳しい批判にさらされた。

 加嶋にとってもこの裁判はつらい経験だった。傍聴席から怒号が飛んできたり、閉廷後、ゲバ棒を持つ支援者に何度か追われたりした。警察官に守られながら裁判所を出た日もあった。「胃潰瘍(いかいよう)になりそうでした。だけど、僕は顧問弁護士だから、逃げるわけにはいかない」

 熊本地裁は73年、患者側勝訴の判決を言い渡し、一審で確定した。千場らは続いて、どんな症状があれば水俣病と判断するかが争われた第2次訴訟や、チッソに加えて国や熊本県の責任も問う第3次訴訟を起こした。

 だが、司法が原告患者を水俣病と認めても、行政は認めない。その隔たりは今も埋まらないままだ。

 水俣病の裁判に取り組んだ歳月は2人とも28年に及ぶ。

 加嶋はこう振り返る。

 「裁判で得たもの? わかりませんね。弁護士として脂が乗る時期に、あれで脂を取られちゃったから」

 一方、千場は「苦しくても最後までやり通せば、どうにかなる。それに、国家権力と闘ったからか、怖いものがなくなりましたな」と話す。

 いつのころからか、2人は年賀状や挨拶(あいさつ)状をやり取りするようになった。「仕事上のことと、千場君と友人であったことは別ですから」と加嶋は言う。

 千場は44年間在籍し、水俣病裁判を闘う拠点だった共同法律事務所を今年、辞めた。

 加嶋は今もチッソの顧問弁護士を続けている。(田中啓介)

*2011.6.27

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水俣は問いかける:8 「役所は正しい」は虚構

2003年3月17日、茨城県潮来(いたこ)保健所に「神栖(かみす)町(当時)で原因不明の疾患」と医師から届け出があった。周辺では体調不良を訴える住民が相次ぎ、飼い犬が死に、植木が枯れたという。医師は井戸水の汚染を疑っていた。

 始まりは1956年の水俣病公式確認と似ている。だがその後の展開は異なる。

 県衛生研究所が検査した結果、国の環境基準の450倍のヒ素が検出され、保健所は飲用を禁じた。直後に所長に着任した緒方剛(おがたつよし)(56)は、健康調査と環境調査に乗り出す。半径1キロ以内の他の井戸も調べるよう指示して、新たにヒ素が見つかった水の飲用もやめさせた。

 井戸水を飲んだ子どもに重い障害が残ったが、被害拡大は最小限に抑えた。

     *

 緒方の胸には、以前携わった水俣病の教訓があった。 

 緒方は東大医学部を出て83年、当時の厚生省に入り、のちの首相細川護熙(ほそかわもりひろ)(73)が知事在任中の85年に熊本県へ出向した。主な任務は水俣病の裁判対策だった。

 初めて臨んだ患者団体との協議の場で投げつけられた言葉が忘れられない。

 「お前はそれでも人間か」

 国側の主張を懸命に繰り返していた緒方は頭に血がのぼり、「国のやることに逆らうのか」と声を上げかけた。

 だが、様々な立場の人に会ううちに、緒方の「お上」意識が揺らぎ出す。

 東京のチッソ本社に600日近く座り込んで補償の道を切り開いた川本輝夫(かわもとてるお)(故人)の話にも耳を傾けた。

 「食物連鎖を通して起きた水俣病の症状は、多様なんですね。鉱山労働者が有機水銀に曝露(ばくろ)した職業病を物さしにして、国が『あなたは水俣病ではない』と言っても説得力はないな、と」

 疑念が膨らんだまま緒方は88年、厚生省へ戻り、95年に岩手県へ環境保健部長として出向する。翌年、盛岡市の小学校で腸管出血性大腸菌O(オー)157の食中毒が起きると、専門家の検討会議に、役人ではない公衆衛生の研究者が加わり、県の検査より早く「サラダが原因」と突き止めた。

 緒方は民間の力に驚いた。

 「役所は正しい、民間は信用できないという発想が役人には染みついている。でも、それは虚構なんですね」

 役所の論理に疑問を感じていた緒方は退職し、健康づくりを志して保健所長に転じた。今は茨城・筑西(ちくせい)保健所長。「水俣病に関して国の対応は不適切だった」と言う。

 「原発の放射線による健康への影響もそう。自分たちが間違っているかもしれないと常に考えていないと、今からの役人は生きていけません」

     *

 チッソ水俣工場の排水を規制せず水俣病の被害を拡大させた国と熊本県の責任は、04年の最高裁判決で確定した。

 当時の県知事潮谷義子(しおたによしこ)(72)は、かつて耳にした胎児性患者の母の言葉が頭から離れなかった。

 「この子が毒を全部取ってくれた」。熊本市の慈愛園乳児ホーム園長を15年間務めた潮谷にはそれが母親の慟哭(どうこく)に聞こえた。00年、知事に当選し、「患者さんに寄り添うような施策を」と考えていた。

 ところが、就任早々、思わぬ問題が持ち上がる。

 水俣病の認定を求めた患者の調査書には、県職員が家族の職業を聞き取って書き込む欄があった。建具職人緒方正実(おがたまさみ)(53)の場合、無職の家族について「ブラブラ」と記入されていた。

 緒方は知事の謝罪を要求した。幹部職員は反対したが、潮谷は水俣に赴き、緒方に頭を下げた。「何て不条理な立場にいるのかと思いました。自分は水俣病の理解者のつもりでいたのに」

 緒方は認定を4回申請したが、いずれも「水俣病ではない」という県の審査会の判断を受けて知事は棄却した。だが、国の不服審査会は06年、棄却を取り消す裁決を出す。

 潮谷は「裁決に従って認定すべきだ」と考え、県の審査会に諮って翌春、緒方を水俣病と認定した。熊本では8年ぶりの認定患者だった。

 2期8年の在任中、潮谷は認定基準を見直すよう働きかけたが、国は動かなかった。

 08年に知事を退任した潮谷は今、長崎県佐世保市の長崎国際大の学長だ。水俣病に関しては目ぼしい成果を残せなかったと悔やむ。

 知事を退いた潮谷に、緒方正実は水俣から学んだことを記した記念の品を贈った。「物事から逃げず正面から向き合う」。裏面にそう書かれた木製の壁掛けは学長室に飾られている。(田中啓介)

*2011.6.28

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水俣は問いかける:9 患者こそが専門家だ

 半世紀の間、水俣病にかかわってきた熊本の医師、原田正純(はらだまさずみ)(76)が初めて患者の家を訪れたのは1961年。患者とチッソが59年12月に見舞金を払う契約を交わし、「水俣病は終わった」と言われていた時期だった。

 不知火(しらぬい)海近くの集落では、10歳と6歳の男の兄弟が遊んでいた。弟は首がふらつき、ほとんど話せなかった。

 「兄は水俣病ですが、弟は魚は食べとらんです。妊娠中に私の水銀がこの子にいったとじゃなかでしょうか」

 母親は強い口調で言った。

 原田は「そんなばかな」と思った。母体の胎盤は毒を通さないというのが当時の医学界の常識だった。

 だが、原田がほかの集落を歩いてみると、同じ症状を抱える幼い子が何人もいた。

 原田が胎児性患者の存在に初めて気づいた瞬間だった。

 「あのお母さんの言うことが正しかった」

 原田がその集落で目にしたのは、わずかばかりの見舞金で細々と暮らす患者とその家族の姿だった。水俣病の風評のために魚が売れず、生計の道を絶たれ、雨戸を閉めて隠れるように生きていた。

 「何の落ち度もない患者さんが、なぜこんな目にあうのか」。原田は憤りを覚えた。

 胎児性患者の症状についての論文を62年に発表した原田は、水俣病の医学的解明はこれで終わったと考えた。

 63年、東大に国内留学した際「患者の家族も同じ魚を食べているのなら家族の間に水俣病が広がっているのでは」と医師から聞かれた。調べていなかった原田は「症状はないと思います」と答えた。

 だがその後、患者の家族を診断すると、視野狭窄(きょうさく)など水俣病特有の症状が確認できた。それでも原田は確信が持てず、信頼する地方の国立大教授に診てもらった。「これが水俣病でなかったら何なのかい」と教授は言った。原田は自分がふがいなかった。

 その頃、患者の川本輝夫(かわもとてるお)(故人)が原田のもとを訪れ「不知火海の対岸に患者はいないのか」とたずねた。

 原田は答えられなかった。

 川本と一緒に対岸の集落をまわると、言語障害や歩行障害を持つ人々に出会った。

 「私は何もわかっていなかった。患者さんこそ、水俣病の専門家でした」

     *

 85年8月、福岡高裁は、水俣病患者と認める国の基準が「厳しすぎる」と批判した。基準を厳格化するあまり、救済されない人々が出ていることを危惧した結果だった。

 これに対し環境庁は、原田が信頼していた人を含む8人の医学専門家会議を急ごしらえで作った。

 その後、この会議が「現行の判断基準は妥当」とする意見を出したことを受け、環境庁は「医学的合意を得た」として基準を改めなかった。

 だが、専門家会議の座長を務めた神経内科医は95年、患者が認定棄却の取り消しを求めた裁判でこう証言した。

 「私は水俣病とまったく関係がなかったから(専門家会議には)不適任だと固辞したが、環境庁の部長から言われて参加したわけであります」

 原田は著書「水俣への回帰」の中でこの専門家会議を取り上げ、「こんな茶番はない」と切って捨てた。

 「私が信頼していた教授も含め、専門家が国に取り込まれていく姿を見て、とても残念に思った。国家は専門家を、素人が踏み込めない聖域に閉じ込め、権威化し、国家のために活用した」

 原田は熊本大学を退官するまで助教授に据え置かれた。

 「原発の放射能漏れ事故の危険性を指摘した研究者は助手止まり。『人々のために』と思っている研究者が『反国家』のような扱いを受ける。この国が国民の方を向いていないということです」

     *

 頼藤貴志(よりふじたかし)(34)は熊本大医学部の1年生だった95年、原田の著書「水俣の視図」を読んだ。頼藤はその中の「被害者の持つ確かな視点を、科学的に生かす道を探るのが専門家のはず」という一文にひかれ、原田の研究室を訪ねるようになった。

 頼藤は今、岡山大大学院で公害の研究に取り組んでいる。欧州環境庁が今秋出す報告書に水俣病から学んだ教訓をまとめた論文を執筆した。

 頼藤は情熱を込めて言う。

 「被害を受けた人々の声に耳を傾けること。それが原田先生から学んだことでした。その大切さを世界の人たちに訴えたい」(稲野慎)

*2011.6.29

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水俣は問いかける:10 勇気と不屈を教わった 

米国の著名な写真家ユージン・スミス(故人)と妻のアイリーン・美緒子(みおこ)・スミス(61)が1971年秋、熊本県水俣市の駅に降り立った。

 2人は70年、ニューヨークの仕事場を訪ねてきた日本人男性から「工場排水のために水俣で多くの被害者が出ている」と聞かされ、日本に向かった。

 アイリーンは米国人の父と日本人の母の間に生まれ、東京で育ち、11歳の時に米国に移り住んだ。

 「水俣病の話を聞き、なぜか、ふるさとが壊されるような気持ちになりました」

 一方のユージンは第2次世界大戦中、従軍カメラマンとして沖縄や硫黄島の地を踏んだことがあった。

 アイリーンは言う。

 「ユージンも水俣のことを思って頭がいっぱいでした」

     *

 2人は水俣病患者の家の一棟を借りて約3年間暮らした。木造平屋かわらぶきの家だった。ユージンはこの家を拠点に、患者の被害の実態や生活の様子、闘争運動などの写真を撮り続け、アイリーンもユージンの仕事を助けた。撮影した写真は2人合わせて3万枚を超えるという。

 当時18歳だった患者田中実子(たなかじつこ)(58)の家を訪れた時のことだ。実子は話すことも歩くこともできなかった。

 ユージンは座っている実子の両手を握った。驚いた実子は体を少し後ろに引いたが、ユージンは笑顔のまま柔らかく握り直した。約30分後、実子はほほえみを見せた。

 その瞬間、ユージンは初めてカメラを持ち、右手だけでそっとシャッターを切った。

 数日後、ユージンは「水俣に恋人ができたんだ」とアイリーンに告げて泣いた。

 72年1月、2人は補償交渉中の患者と共に、千葉県にあるチッソ石油化学五井工場の守衛室にいた。

 突然、数十人の従業員が入ってきて患者や2人を引きずり出し、暴行した。ユージンはこの時の後遺症で右目が失明寸前まで追い込まれた。

 73年、ユージンはヒューストンにいる医師の治療を受けるために渡米した。その際、ユージンが語った言葉が当時の朝日新聞に載っている。

 「たとえ失明しても、水俣へ帰り、水俣を写し続ける」

 その言葉通り、ユージンは日本に戻った後も撮影を続けた。75年には写真集「MINAMATA」(英語版)を出版し、序文にこう記した。

 「私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった。それはほかの脅かされた人びとを勇気づけ屈従を拒ませるのみならず、状況を正す努力へと向かわせるものであった」

 「この本を通じて言葉と写真の小さな声をあげ、世界に警告できればと思う」

 約3年後の78年、ユージンは脳出血でこの世を去った。

     *

 翌79年、米ペンシルベニア州のスリーマイル島の原子力発電所で炉心が溶融する事故が起きた。米政府は、周辺住民の健康被害は「極めて小さく、識別できない程度のものだった」と結論づけた。

 写真集「MINAMATA」の日本語版翻訳者がこの事故を調べていた縁で、翻訳者と共に現地へ飛んだアイリーンが聞き取り調査をしてみると、周辺住民は口々に吐き気などを訴えた。

 「被害を小さく見せようとする米政府の姿勢は、水俣病の時の日本政府と同じだ」

 日本の原発が心配になったアイリーンはその後、自然エネルギー社会を目指す脱原発グループを作った。

 東日本大震災が起きた時、米国にいたアイリーンのもとに、米国の脱原発グループから「放射線測定器を提供する」というメールが届いた。

 「早速、福島に送らなければ」。アイリーンが連絡をとったのが、脱原発の集会で知り合いになった専門学校講師の阪上武(さかがみたけし)(46)だ。阪上は福島原発の廃炉を目指すグループを立ち上げていた。

 アイリーンと阪上は5月、福島県内の小中学生の親ら約70人と文部科学省を訪れた。

 「この基準で本当に子どもたちの安全を守れるんですか?」。官僚に厳しく迫る親の姿が、アイリーンには水俣病患者の親と重なって見えた。

 「我が子やふるさとを守るために必死になる。その勇気は、ユージンと水俣が私に教えてくれたことでした」

 (稲野慎)
*2011.6.30


水俣は問いかける(11)~/ニッポン人脈記(朝日新聞) に続く


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2 コメント

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Unknown (田中洌)
2011-07-01 16:23:52
朝日はやめて何年にもなる。

しかしこいつは、なかなか読ませる記事だ。
一挙に読んだ。
そして、フクシマに水俣と同じく“勇気と不屈”が湧きあがるときまで、何とか生きておきたいと思った。

深謝。
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素敵な写真を有難う (梨木)
2011-08-18 23:17:29
ここにコメントして良いのかわかりませんが…
今のニッポン人脈記「甲子園 雨 3.11」の写真がいつもとても良いですね。
カメラアングルが自然で、素晴らしいと感じます。
写真担当の方のお名前が最終回に出るのを、楽しみにしています。 
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