水俣は問いかける(11)(12)(13)(14)/ニッポン人脈記(朝日新聞)

2011-07-08 06:57:29 | 社会
水俣は問いかける(11)~/ニッポン人脈記(朝日新聞) からつづく

水俣は問いかける:11 「侍の家」に青春があった

熊本県水俣市の水俣駅裏手の高台に、侍(さむらい)という地域がある。1970年代、水俣病患者支援のために全国から集まってきた若者が集落の中の一軒に寝泊まりし、「侍の家」と呼ばれていた。元は商店の木造平屋を借りて運営したのは熊本の市民団体・水俣病を告発する会だった。

 常駐は3人。トップは「社長」、ナンバー2を「番頭」と呼び、中村雄幸(なかむらゆうこう)(60)は3番手の「下足番」だった。成田空港建設に揺れる三里塚と並んで、水俣が世間の注目を集めたころだ。夏休みになると、「何か手伝いたい」と侍の家を訪れる学生が増えた。中村の主な仕事は、彼らを受け入れてくれる患者を紹介することだった。

     *

 中村は下関にある水産大学校2年の時、公害問題に関心があった同級生に誘われ、「患者さんの役に立ちたい」と水俣にやって来た。

 患者支援組織の市民会議を訪ねて、茂道(もどう)地区の網元杉本栄子(すぎもとえいこ)(故人)を紹介されたのだが、実際は「役に立つ」どころではなかった。

 イワシ漁船の舵(かじ)を任された時のことだ。船をぎりぎりまで岸に寄せて水揚げする。ところが、岩にスクリューがあたり、プロペラが1本折れて飛んでいった。中村は青ざめたが、叱られなかった。

 「温かくて懐が深い杉本さんの人柄と不知火(しらぬい)海にひかれたんです」。学校を中退した中村は前から出入りしていた侍の家にそのまま居着いた。

 杉本はチッソに損害賠償を求める訴訟の原告だった。裁判の日は中村もバスに同乗して熊本へ行き、「怨」と白く染め抜いた黒旗を掲げてアーケード街をデモ行進した。

 患者運動を率いる川本輝夫(かわもとてるお)(故人)が東京駅前のチッソ本社で座り込みを始めると、中村はテント生活を送りながら支援した。駅頭でカンパを募ると、大卒初任給が4万円台の時代に、多い日は20万円も集まった。

 患者・家族を支える新たな拠点として支援者らは74年、不知火海を望む丘に「水俣病センター相思社」を設けた。中村はここに勤めたものの、組織に属するのが次第に息苦しくなって88年に退職。今は水俣で鮮魚の移動販売をして生計を立てている。

 それまで中村は「市民は患者の敵」と思っていたが、商売を通して見方が変わった。

 「市民の中でも多くの人に何らかの症状があって『どげんしたらよかろうか』と相談されることもある。水俣病を自分のこととして受け入れているんです」

     *

 作家のリリー・フランキー(47)がブルーリボン賞新人賞を受賞した映画「ぐるりのこと。」のプロデューサー、山上徹二郎(やまがみてつじろう)(57)もかつて侍の家の住人だった。

 山上は熊本・済々黌(せいせいこう)高2年の時、新聞部の水俣出身の先輩から水俣病の問題を聞き、上京してチッソ本社前の座り込みに加わった。夜は東京・水俣病を告発する会の事務所に戻り、翌日配るビラの原稿をガリ版で印刷した。

 「一人前の人間として受け入れてもらえることが自信になったし、楽しかった。高校では落ちこぼれでしたから」

 73年、患者がチッソと補償協定を結び、座り込みを解いて帰郷すると、山上は一緒に水俣へ向かった。侍の家で暮らしたのは2年ほどだ。

 ここを拠点に5、6人でキャラバンを組み、ユージン・スミス(故人)と土本典昭(つちもとのりあき)(故人)の作品を携えて九州の約50カ所を回り、水俣をアピールした。写真展と上映会を開くうち、山上は映画に魅せられる。80年に東京へ戻り、土本の水俣シリーズを制作した独立プロを経て86年、中野で映画制作会社「シグロ」を始めた。

 3年後、山上にとって衝撃的な事件が起きた。水俣の教訓を伝える役割も担う相思社が、「低農薬」と偽って農薬を使った甘夏を販売していたのだ。「喪失感が深かった。それから水俣には、ほとんど関わっていないんです」

 山上が制作した約70本のうち、7割がドキュメンタリーだ。最新作の一つはベトナム戦争中、米軍によって使用された枯れ葉剤被害がテーマの「沈黙の春を生きて」。放射能と化学薬品の被害について50年前にレイチェル・カーソン(故人)が語った発掘映像を冒頭と最後に使った。

 甘夏事件後も水俣へのこだわりは消えない。山上の作品の根底には絶えず「水俣」が流れている。(田中啓介)
 *2011.7.1

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水俣は問いかける:12 事件の核心、戯曲で迫る

釣り師の世界を描いた小説「秘伝」で直木賞を受賞した作家高橋治(たかはしおさむ)(82)が松竹を辞め、文筆活動に入ってしばらく経った1969年ごろのことだ。

 東京の小劇団、泉座の玉川伊佐男(たまがわいさお)(故人)が訪ねてきて「水俣病を主題にした戯曲を書いてほしい」と依頼した。高橋がその前に発表した戯曲は、警官殺害事件の再審請求について後に最高裁が「『疑わしきは被告人の利益に』の鉄則は再審でも適用される」と判断した「白鳥事件」。「高橋なら社会ダネが書ける」と玉川は思ったらしい。

 海が大好きで、環境問題に関心のあった高橋は申し出を引き受け、水俣へ向かった。

 政府は68年、水俣病を公害病と認め、原因物質は「チッソ水俣工場から排出された有機水銀」と断定していた。チッソは59年に有機水銀が原因であることをつかんでいたが、それを隠していた。

 「この事実の隠蔽(いんぺい)にこそ事件の核心がある」と考えた高橋は、工場排水をネコに与える実験をひそかに続け、水俣病が発症することを知っていた元チッソ水俣工場付属病院長の細川一(ほそかわはじめ)(故人)を、水俣滞在中に訪ねた。細川はチッソを退職していた。

 高橋は細川に詰め寄った。

 「有機水銀が原因であることをあなたが明らかにしてくれたら、助かる命が幾つもあったんじゃないか」

 細川は答えた。

 「あなたが正しい。ただ、私が水俣病をつくり出したグループにいたから、できた診療、研究もあるんだ」

 細川の返答に納得したわけではなかったが、高橋は「負けた」と思った。

 「言いたいことをずけずけ言っても、許して聞いてくださる。人間の大きさが違う」

 高橋は地元の言葉で戯曲を書き上げた。タイトルは「告発―水俣病事件―」。

 自ら演出も手がけ、全国を巡回公演した。水俣公演が高橋らの夢だったが、右翼が妨害に来るとの動きも伝えられたため断念し、71年3月、水俣から40キロほど北の熊本・八代市厚生会館で上演した。

 芝居の終盤、有機水銀が原因と突き止めた細川が隠居先で独白する場面がある。

 事実を外部に公表しなかった我が身を省みるセリフだ。

 「僕は大変な間違いを犯したんじゃないか」

 その時、客席から女性の声が飛んだ。

 「そうだ! その通りだ」

 次の瞬間、水俣からバスでやって来た数十人以上の観客がわれ先にステージに駆け上がり、残る数百人も後を追って舞台上で俳優と肩を抱き合った。あわてて客席の後方から駆けつけた高橋も、もみくちゃにされた。

 「俺たちの気持ちをよくくんでくれたと思ったのでしょう。観客とここまで交流できたのは名誉なことでした」

     *

 64年に出た岩波新書「恐るべき公害」の共著者の1人、環境経済学者宮本憲一(みやもとけんいち)(81)は、四日市をはじめ日本の公害の現場を歩いた。公害問題に取り組んだ社会科学の研究者の草分けだ。

 水俣病の原因をめぐり、熊本大医学部は59年、細川のネコ実験に先駆け、有機水銀説を発表している。当時は諸説が入り乱れていたが、62年に工場内の泥から有機水銀が見つかり、宮本は「熊大が正しい」と確信した。

 政府はなぜ認めないのか?

 当時の通産省は有機水銀説に反対だった。厚生省に出向くと東大医学部出身の水俣病問題担当官が応対し、熊大の論文を持ち出してきた。

 「私もこれが正しいと思います。しかし、きょう言えることは『政府としては原因不明』です」

 政府の無責任さと、縦割りの官僚主義の弊害を宮本は痛感した。

     *

 宮本と高橋は旧制四高の同級生だ。宮本は演劇関係者と親交があり、戯曲「告発―水俣病事件―」を高橋に書いてもらうよう劇団泉座に薦めたのも、実は宮本だった。

 宮本は指摘する。

 「政府は『環境を守ることがあらゆる行政に優先する』と考えるべきなのに、経済活動と秤(はかり)にかけ、経済成長を優先させてきた。今の原発の問題を見ても、依然としてそうです。エネルギー、電力の確保がまず頭にある」

 「環境が最優先」を忘れたら、水俣の悲劇を再び繰り返す。宮本はそう警告する。

 (田中啓介)
07月04日 夕刊
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水俣は問いかける:13 患者を株主にして闘う

 1970年11月28日、大阪市西区の大阪厚生年金会館で開かれたチッソの株主総会は冒頭から怒号に包まれた。

 「人殺し」

 患者ら20人余りと数百人の支援者を率いて乗り込んだ弁護士後藤孝典(ごとうたかのり)(72)は、1階席前方に陣取った。

 後藤が水俣病の問題に本腰を入れたのは、記録映画作家の土本典昭(つちもとのりあき)(故人)と出会ってからだ。土本に連れられて水俣を訪ね、「社長と談判したい」という患者の思いを聞いて、後藤は考えた。

 チッソの株式を買って分割し、患者たちが「一株株主」として株主総会に出る――。

 そんな闘い方を考案した後藤は、チッソ株1万株を40万円ほどで購入し、東京と熊本の「水俣病を告発する会」に提案した。前例のない大規模な一株運動は瞬く間に広がり、主婦、会社員ら5千人以上が株主になった。

 当日はチッソ側に阻止され、会場の外にも一株株主があふれた。喧騒(けんそう)にかき消され、中に入った患者らも議長を務める社長江頭豊(えがしらゆたか)(故人)の声が聞き取れない。

 「一切無視して議事を進める気だ」。後藤は修正動議の内容を書いた紙片をかざしてステージに上がり、江頭の前に動議の紙を置いた。

 患者らも続々と上がってきた。支援者が叫んだ。「総会屋らしき男が『後藤はどこだ』と騒いでいる。刺されるかもしれないぞ」。用心のため、腹に新聞紙と妊婦用の腹帯を巻いていた後藤はそのまま会場の外に出た。

 「『有機水銀をたれ流したチッソは人道にもとる。会社のあり方を修正しろ』。患者のそうした人間的な要求を、株主総会という近代法の手続きにどうのせるか」

 悩む後藤の頭に浮かんだのが、患者向けに賠償資金を振り分けるよう求める決算書類の組み替え動議だった。

 だが、江頭はこの動議を無視して株主総会を終えた。

 後藤は71年、総会の決議取り消しを求めて提訴、一審から最高裁まで全て勝訴した。

   *

 一株運動の後も、後藤は熊本、鹿児島県が「水俣病ではない」と棄却した患者の認定をめざして手を尽くした。

 認定か棄却か、結論が出ないまま待たされる患者の精神的苦痛への慰謝料を国と県に求める「待たせ賃訴訟」も手がけた。チッソと交渉中の72年、患者の川本輝夫(かわもとてるお)(故人)が社員に暴行したとして傷害罪で起訴された。

 後藤は起訴自体が違法だったという空前の公訴棄却判決を勝ち取った。

 水俣に24年間かかわった後藤はほぼ手弁当で通した。

 「川本を始め、志と覚悟のある人物がいましたから。そういう人は減りましたね」

 後藤は「明治期からのチッソと水俣市民の歴史を知って初めて水俣病発生の謎が解ける」と考え、昨夏から自分の事務所のサイトで「ドキュメント水俣病事件」の連載を始めた。若い世代に読んでほしいと願っている。

   *

 水俣病の経験を学ぶ場として「水俣展」を巡回開催しているのが、東京のNPO法人水俣フォーラムだ。

 事務局長実川悠太(じつかわゆうた)(56)は高校時代からチッソ本社での座り込みに加わった。大学に進まず、都内の編集プロダクションで仕事を覚え、23歳からフリーの編集者になった。

 川本が起訴された事件の記録を残そうと、実川を含む元支援者らは80年、900ページを超す「水俣病自主交渉川本裁判資料集」を完成させた。

 喜んだ後藤は、実川が編集者だと知ると「うちの事務所に来ないか」と誘った。後藤は毎月のように新聞や雑誌に寄稿していた。編集者の仕事に加え、「待たせ賃訴訟」の事務局も実川が担った。

 「水俣病の教訓を今に伝えるため、患者さんの力を借りたい」。そう願い、後藤の事務所を離れた実川らが企画したのが、品川駅前で96年開かれた水俣・東京展だ。

 記録映画作家の土本が水俣で撮った患者の遺影500点と、水俣から東京湾まで1400キロを未認定患者の漁師らが操ってきた伝統漁の漁船などが展示され、半月で約3万人が入場した。

 「1回で終わりにしたらだめだ」。講演に来た筑紫哲也(ちくしてつや)(故人)らに促され、実川らは翌年、水俣フォーラムを設立した。これまで21カ所を巡回し、計約13万人を集めた。

 今年11月には、原発事故に苦しむ福島県で開催する予定だ。(田中啓介)

*2011年07月06日 夕刊
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水俣は問いかける:14 被災者の辛苦、忘れない

熊本駅のホームに、おかっぱ頭の小柄な女性が立っていた。作家の石牟礼道子(いしむれみちこ)(84)だった。澤地久枝(さわちひさえ)(80)には童女のように見えた。澤地がノンフィクション作家の道を歩み始めて日が浅い1976年2月のことだ。

 石牟礼の「苦海浄土(くがいじょうど)」を読んだ澤地は、水俣病を告発する記録性と豊かな文学性を兼ね備えていることに感動し、無性に会いたくなって手紙を書いた。熊本の仕事場から水俣へ帰る日に合流しませんかと誘われた澤地は、駅で待ち合わせることにした。

 何でも率直にたずねる澤地と石牟礼はすぐに打ち解けた。患者が多発した湯堂地区の浜辺を石牟礼と歩いた。

 「厚生省が定めた基準以上に水銀に汚染された魚介類がいます。獲(と)らないようお願いします」。そう書かれた札が立っていたが、石牟礼は磯の貝を拾って食べた。澤地が驚くと「一つ二つ食べても大丈夫です」。湾内の魚が外に出ないよう仕切り網があるという。だが、石牟礼は「網を張っても魚たちは底を行き来しよるとです」と言った。

 澤地が振り返る。

 「そういう時、石牟礼さんは腹の据わったモノの言い方をするんですよ」

 澤地は、母親向けの月刊誌の連載に石牟礼の横顔を執筆し、のちに単行本「あなたに似たひと」に収められた。

 石牟礼と澤地はその後も互いに著書を送ったり、水俣病がテーマのシンポジウムで同席したりして絆を深めた。

 「水俣の言葉が自分の中で昇華され、文学の言葉になっている。地域の言葉を使いながら、彼女の文学世界を築き、『苦海浄土』は今や世界が知るべき作品になった。稀有(けう)な人だと思います」

     *

 71年、「出発(たびだち)の歌」で世に出た歌手・俳優上條恒彦(かみじょうつねひこ)(71)が石牟礼に会ったのは2003年春だ。

 有機水銀に侵されながら満開の桜の下で舞う美貌(びぼう)の娘――。石牟礼が好んで書く逸話をモチーフに、上條が作詞作曲した「花あかり」を聞いてもらうためだった。

 「苦海浄土」第2部にも収められたこの乙女の悲話に上條は心うたれた。「花びらは拾われまっせん」といった水俣の言葉も生かしながら書き上げた。石牟礼の反応がどうか不安に思いながら熊本の家を訪ねた。

 〈天草の船人たちも桜の魂に呼び寄せられて〉

 上條が書いた歌詞の一節に石牟礼は顔をほころばせた。

 「『桜の魂』と書いてくださいましたね。とてもすてきです」

 水俣の経験を伝える東京のNPO法人「水俣フォーラム」から02年、上條は講演を頼まれた。澤地も呼びかけ人に名を連ねるこの団体に、知人に誘われて加わったのは97年。「苦海浄土」を読み、名古屋展の会場でギターの弾き語りもした。「水俣の歌を作るべきだ」と痛感し、できた作品が「花あかり」だった。

     *

 石牟礼の表現について、上條はこう語る。

 「異次元から来た言葉を紡がれるところがありますね」

 上條は8年ほど、東京・吉祥寺の歌声喫茶で歌った。反戦歌のような、何かに抵抗する歌に優れた作品が多いのではないかと思っていた。「何も勉強していないのに水俣フォーラムに参加したのも、その流れの延長でしょうね」

 上條は6月、福島の被災者も招かれた長野県松本文化会館で「花あかり」を切々と歌った。「多くの人が水俣にも沖縄にも関心を寄せて、ボランティアの輪が広がっていくといいですね」と語りかけると客席から拍手が起こった。

 「為政者に対抗するには、大勢の人が事実を知って、関心をもつこと。そのきっかけになる仕事ができれば、歌手冥利(みょうり)に尽きます」

 上條は自問する。

 「あの時代、自分がチッソで働いていたら、自分が一人の水俣市民だったら、被害者を差別する側にまわらなかったと言えるだろうか」

 東京電力福島第一原発の事故や巨大津波のような災禍が起きた時、被災者に降りかかる辛苦を「わがこと」としていつまでも忘れず、企業や国家を厳しく見つめ続けることができるか。水俣は今も私たちにそのことを問いかけている。(田中啓介)

 (このシリーズは、文を田中、稲野慎、写真をフリー近藤悦朗が担当しました。文中敬称略)

*2011年07月07日 夕刊

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