大阪から見えるイラク・13 ムスリムが訴えたかったこと/玉本英子 

2009-01-20 09:16:38 | 世界

玉本英子さんから毎日新聞大阪版の連載記事「棗椰子をつなぐ」について
Web版に掲載されることになり、以下の通りメールを受信いたしましたので
転送いたします。新聞には掲載されている写真がないのは残念ですが、
記事の内容は読んでいただけることとなりました。

いま世界はガザの情勢に釘付けの状態で、イラク関係の報道も少なくっています。
オバマ米新大統領のイラク政策に注目したいところですが、撤退がスケジュール化
されるとイラク問題は解決済みとして、ますます関心は薄くなるのでは懸念して
おります。

そんな中、玉本さんのこの連載記事は貴重なものと思っていますので、多くの
皆さんに読んでいただければと思います。知人の皆様方にもお知らせください。

野村修身

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棗椰子はつなぐ:大阪から見えるイラク/13 ムスリムが訴えたかったこと /大阪

故郷の村と同じように日に2度ナンを焼く=マハムール難民キャンプで06年7月
故郷の村と同じように日に2度ナンを焼く=マハムール難民キャンプで06年7月

 ◇自分の人生を後悔しない

 軒下の花壇に赤い花が揺れていた。94年にドイツで焼身決起をしたムスリム(56)は、イラクのマハムール難民キャンプにひとりで暮らしていた。部屋にはベッドとテレビだけ。ご家族は、と尋ねると「妻と子どもはトルコで元気だから寂しくない」と自分に言い聞かせるように言った。

 隣家の女性、アイシャ(53)が昼食を持ってきた。「彼は私たちの英雄よ」とほほえむ。白豆とトマトを煮こんだスープと焼きたてのナンを、私も汗をかきながらほおばった。

 アイシャは言う。「私の村がつぶされたのは93年の春。トルコ兵たちは家に火をつけて羊を殺した。悔しくて涙が止まらなかった」。90年代前半、トルコ南東部では分離独立を掲げていたクルド労働者党(PKK)のゲリラとトルコ軍との戦闘が激化した。トルコ軍は軍に協力しないクルドの村々を「ゲリラ支持の村」と見なして破壊し、3000もの村が無人化され、200万人以上が国内外へ逃れていった。(トルコ人権団体IHD調査)

 食後の甘いチャイをすすりながら、ムスリムと話を続けた。「3万人もの犠牲者を出したゲリラ闘争は間違っている」。私がそう言うと、彼は語気を強めて反論した。「ほかにどんな方法があったんだ」

 当時、トルコではクルド語の使用は許されず、クルド人として参加できる政治や言論の場も閉ざされ、意見を主張しようとすれば投獄や拷問を覚悟しなければならない状況にあった。だから人びとはゲリラの闘いを支持した。しかし国際社会は「ゲリラ=テロ問題」と片付け、その背景を無視した。ムスリムの焼身決起は、クルド人の苦しみ、怒りを世界に訴える最後の手段だったのだ。

給水車に群がる人たち
給水車に群がる人たち

 EU加盟を目指すトルコは、クルド人の人権状況の改善に取り組み出した。キャンプの閉鎖と帰還を求め始めたが、難民たちは「私たちの人権と安全が完全に保証されない限り戻れない」と口々に訴えた。将来、イラクの治安が安定すれば国内避難民の帰還が始まるが、マハムールの難民に明日は見えない。

 別れの日、ムスリムと私は固い握手をかわした。以前とは違う手のぬくもりだった。「私は自分の人生を後悔していない。君もしっかりな」。その力強い声が今も耳の奥に残る。次の現場へ車は走り出す。いつまでも手を振る彼の姿が、石造りの家並みとともに遠ざかっていった。<写真・文、玉本英子>

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 ■人物略歴

 ◇たまもと・えいこ

 1966年、東京都生まれ。豊能町在住。アジアプレス所属のビデオジャーナリスト。デザイン事務所を退職後、94年からアフガニスタン、コソボなど紛争地域を中心に取材。01年以来、イラク取材は8回を数える。

毎日新聞 2009年1月15日 地方版

http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090115ddlk27070466000c.html



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